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無言の情景  作者: 深瀬静流
11/12

11 理近

 工場の前の広い駐車スペースには、配送のトラックが常に何台か駐車していた。関東圏内から納品されてくる材料は、いったん倉庫に収められる。積み荷がなくなったトラックは、工場で完成した製品を積んで中央倉庫に配送される。世界各地の香辛料を、契約先の食品会社の注文に合わせて調合して、完製品にして出荷するのが理近の会社の主な仕事だった。小口の食品会社の受注も受けていて、小さな会社の割には安定した収益をあげていた。

 大量の香辛料を扱う関係で、臭気は各ブレンド工場に設置した脱臭装置で中和するのだが、たまに作動がうまくいかなかったりして修理が完了するまで、近隣一帯に悪臭ともいえる強烈なスパイスの臭いが風に乗って流れていくときがある。

 そういうときは、風下の住人から苦情の電話が入ってきて、事務所の人間は対応で時間をロスする事になる。

「電気修理のやつら、なにのんびり仕事してるんだかな。まさか修理の部品をホームセンターに買いに行ってるんじゃないだろうな」

 河本が笑いながら、そばにいた田中に話しかけた。話すたびに口を開けると、そこからも香辛料の刺激が入ってきて、鼻も喉もむずむずする。工場内の換気扇は回っているが、マスクをかけていても苦しかった。理近は河本たちの無駄話など耳に入っていないかのように黙々と粉砕機のシフターに10キロ袋の黒コショウを移しいれているところだった。一袋入れ終わって次の袋を取りに行こうとする理近に、河本が声をかけてきた。

「岸田、あとどれくらいかかるのか電気修理に聞いて来い」

「はあ、あの、なにをですか」

「だから、脱臭装置だよ。これじゃあ息苦しくて仕事にならないだろうが」

「ああ。はい」

 ぼんやりとした表情で返事をして出口に向かう理近を、河本は渋い顔で見送った。理近を晩飯によんだのがきっかけで、娘の智子が最近理近のアパートに出入りしているのを快く思っていなかった。岸田は骨惜しみせずによく働く真面目な若者だが、娘の交際相手としてはふさわしくなかった。二十五歳になる娘が、まさか五歳も年下の、しかも智子の弟の智弘よりも年下の岸田に、本気になっているとも思えなかったから何もいわないでいるが、気に入らないと思っていることを理近の前で隠そうとはしなかった。それなのに、肝心の理近のほうは、心ここにあらずというふうにぼんやりしていて、河本の渋い顔の原因が智子との交際にあるとは気づいていなかった。智子の楽しそうなようすとは裏腹に、理近の暗い顔つきが、親として面白くなかった。大切な娘の、どこに不満があるのだとつめよりたい矛盾に、河本自身気づいていなかった。

 理近は粉体工場の入室準備室でマスクをはずし、耳あてつき白帽子と白の上着も脱いでロッカーボックスの中に入れた。白のズボンとゴム長靴はそのままで外に出た。

 コンクリートの地面が午後の日にあぶられてゴム長靴の底に熱を伝えた。理近が働く第二工場から事務棟までは、トラックが出入りする倉庫前を横切らなければならなかった。 コンテナトラックが二台、倉庫の前に停まっていて、一台はフォークリフトで荷降ろししていて、もう一台のトラックは運転席が空っぽだった。休憩でもとっているのだろう。理近は工場の屋根が日陰を作るところを選んで歩いた。

 睡眠が浅くて眠れない日が続いていた。アパートにはエアコンがないから暑さのせいもあるかもしれなかった。寝不足は暑くて眠れないからだと思おうとした。うとうとすると、公園から逃げるように走り去っていった真近の後姿が脳裏に浮かんだ。母の胎内で、ともに命を分け合って生まれ、不条理な環境を庇いあって過ごしてきた年月が、意味のない思い込みでしかなかったと勘違いしそうな喪失感に、擦り切れそうになっていた神経が最後の一本の糸を残してぶつぶつと切れていく音がしていた。

 眠れない。頭がぼんやりして何か考えようとするとキリキリ痛み出す。どうして太陽はこんなに眩しくて熱いのだろう。俺のなにがいけなかったのだろう。真近が俺を捨てて知り合ったばかりの男のマンションに転がり込んで帰ってこないのは、どうしてなのだろう。信じられない。俺より他人のほうがいいなんて、そんなのありかよ真近。俺たちは二人で一人だ。ほかの誰も要らない。そうだろ真近。そうだったよな。

 コンクリートが跳ね返す太陽熱にくらりと眩暈がした。

 体がふわふわして足元が宙に浮いたような気がした。

 後ろでトラック特有の野太いクラクションがけたたましく鳴り響いた。

 強い衝撃の後、理近の体が宙を舞い、地面と空が逆転した。

 ああ、なんて気持ちいい空なんだろう。理近は胸の中でつぶやいた。

 見開いた目に映った夏空はどこまでも広がる水色で、湧き上がる積乱雲のまぶしい白さが目に痛かった。

「はねたぞ。だめだ動かすな」

 男の怒鳴る声が遠くに聞こえた。

「救急車だ、救急車をよべ」

 動転して混乱する大声が、乱れた足音とともに近づいてくる。全身に痛みが走って息ができなかった。口を大きく開けて空気を吸おうとするが肺が動かなかった。見開いた目に映る真っ青な空を見上げて、理近は静かに涙を流した。背中はコンクリートの地面の熱で、あぶられるように熱い。それなのに、青い空はやけに涼しそうで涙が止まらなくなっていた。痙攣する唇を動かして、必死に息をしようとしたが、意識はしだいに混濁していった。

白い作業ズボンの腰の辺りに、赤いものがぽつんとできたと思ったら、見る間に腰を鮮血が染めていった。





 智子は箸を落としたことにも気づかずに、夕飯の席についてビールを飲み干している父親に唖然とした。

「お父さん、理近さんが搬入のトラックに撥ねられたて、ほんと」

「ボーとしているからだ。最近上の空が多くてたるんでいたからな」

 空になったコップを置いて、河本は苦々しく言った。

「なによその言い方。で、どんな具合なの。ひどいの怪我」

「さあな、救急車で運ばれて、そのあとは知らん。工場長が付き添って行ったから、明日には工場長が教えてくれるだろう」

「大怪我なの、まさか重体じゃないわよね」

「見ていたわけじゃないから知らないよ。体が撥ね飛んだというから、骨ぐらいは折れているんじゃないか」

 智子は勢いよく立ち上がった。立ち上がった拍子に食卓の上のご飯茶碗が転がって、お椀の味噌汁もこぼれた。顔色が青ざめていた。

「どこに運ばれたの。病院はどこ」

「知らないね。いいからご飯を食べなさい」

「知ってるんでしょ、教えてよ。教えてくれなかったら会社に電話して訊くわよ」

「智子がそこまで係わることはないだろ。会社の人間がついているんだから」

「だって、理近さんの家族はお兄さんしかいないのよ。誰も世話してくれる人はいないのよ。かわいそうじゃないの」

「兄さんがいれば十分だろ」

「教えてよ」

 怒りを含んだ涙混じりの声に、河本は少しだけ心を動かされたが、わざとそっぽを向いてテレビのチャンネルを変えた。

「会社に訊くわ。もうお父さんとは口を利きかないからね。お父さんがこんなに冷たい人だったなんて知らなかった」

 台所にいた母親の弘子が心配してやってきた。

「おとうさん、そんな意地悪しないで教えてやりなさいよ。おとうさんだって岸田さんのことは気に入っていたんでしょ。それなのに、なにをむきになっているんですか。車に撥ねられて救急車で運ばれたっていうのに」

 弘子からいわれて河本はますますヘソを曲げた。

「おまえは黙っていろ。智子が大騒ぎすることはないんだ。これは労災で会社が対処する問題なんだ」

「でも智子が心配しているんだから」

 弘子は河本と智子を交互に見ながらため息をついた。

「もういいわ。お父さんの会社に電話して訊いてみるから」

 業を煮やして茶箪笥の上にある電話のところに行き、電話帳を手に取ったので、河本は怒鳴るように一言「港北総合病院」とだけいった。智子は電話帳を放り投げるようにして元に戻すと、階段を駆け上がっていった。

「あんな智子、初めて見るわ」

 つぶやいた弘子に、河本も内心頷いていた。ジーンズはそのままで、上だけ涼しげなブラウスに着替えてバックを肩にかけた智子が、携帯電話を掴んで階段をかけおりてくる。玄関に走りこんで騒々しく玄関ドアが開閉する音がして、庭を走る足音が遠ざかっていった。河本と弘子は、耳を澄ませて夜道を駅に向かって走っていく娘の足音を聞いていた。



 病院の正面玄関は真っ暗だった。

 建物の脇を回りこむと夜間救急用のランプがともったドアがあって、ノブを回すと簡単に開いた。静まり返った暗い待合室の常夜灯が、靴音一つたてるのをためらわせる。受付カウンターの一部に明るい照明がともっていて、智子はまっすぐそこに向かった。カウンターには誰もいなかったが、事務室から明かりが漏れていたので声をかけると、警備の制服を着た年配の男性が出てきた。

「すみません。きょうこちらに救急車で運ばれた岸田理近の病室はどこでしょうか」

「岸田理近さんですね」

 警備員がカウンターの下からバインダーを取り出して目を走らせる。

「三階の305号室ですね。通路を左に曲がったところのエレベーターで行ってください」

「ありがとうございます」

「ここにお名前と電話番号をお願いします。三階に行ったらナースセンターで記帳してくださいね」

 智子は返事をするのも惜しんでエレベーターに向かった。

 エレベーターが三階についてドアが開くと、照明が煌々とともったナースセンターが正面にあって、その明るさが病室へと連なる廊下の暗さを際立たせていた。ナースセンターのドアのガラス戸から内部を窺うと、当直の若い看護師がノートに屈みこむようにして何かを書き込んでいた。智子は窓口カウンターに置いてある面会ノートに必要事項を記入してから、中央のデスクで書き物をしている看護師に声をかけた。

「すみません。きょう救急車で運ばれた岸田理近なんですけど、容体はどうなんでしょうか」

「岸田理近さんですね」

 ノートから上げた若い看護師は、別のデスクからバインダーを取ってページをめくり始めた。

「会えますか。病室にいってもいいでしょうか」

 気がせくままにたたみかけると、若い看護師はバインダーから顔を上げて、職業的な笑みを浮かべた。

「岸田さんは今、お薬が効いて眠っていますよ。頚椎捻挫と右の第八肋骨にひびが入っているのと下腹部を強打して出血が見られましたが、肛門裂傷でした。内臓が損傷していなくてよかったですね。詳しいことは担当の先生に聞いてください」

「命に別状はないのですね」

「はい。大丈夫ですよ」

 智子は軽く頭を下げてから病室に急いだ。

 理近は照明を絞った広い個室で機械に囲まれて眠っていた。点滴の袋が二つぶら下がっていて左の腕に点滴の針がテープで固定されている。右の額と頬骨に包帯やガーゼが当てられていてうっすら血が滲んでいた。ブルーの病院着に着替えさせられていて、薄い毛布をかけている。頚椎捻挫のため、首カラーをしている理近の寝顔は苦しそうだった。肋骨にひびが入っているために胸部もバストバンドで固定されていて、呼吸するのさえ辛いのか、寝息も浅くてせわしなかった。

 シップ薬が強く臭う理近に顔を寄せて、智子は寝顔を食い入るように見つめた。形のよい眉がぎゅっと寄って、薬で眠らされているのに顎に力が入っている。きっとどこもかしこも痛むのだろう。静かな病室に機械の作動音だけが時を刻んでいる。智子はパイプ椅子を引き寄せて枕元に座り、毛布から出ている理近の右手をそっと握った。指の長いきれいな手だった。智子の手のぬくもりが届いたのか、わずかに理近の眉が開いた。

「マチカ、戻ってきたのか」

 乾いた理近の唇が動いて呟きをもらした。智子が理近の手を強めに握ると、乾いた唇がふわりとほころんだ。

 理近さんはお兄さんの夢を見ているのだと思った。でも、手を握っているのはわたしだと心の中でつぶやいた。理近の心を占領している兄の存在を強く意識しながら、智子は自分自身の存在をこれほど強く意識したことはなかった。わたしがしっかりしなければと思った。理近を守れるのはわたしなのだと強く思った。


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