10 理近
「理近さん、あれを見て」
智子に声をかけられて、理近は地図から顔を上げた。理近が持っている桜新町の地図上には、駅を中心に建っているすべてのマンションの場所に目印がついていた。
真近が転がり込んでいると思われる、坂木稜介という男の住んでいるマンションを探し回る日が続いていた。
桜新町にあるいくつものマンションの所在地を智子に調べてもらったてまえ、智子から真近を探す手伝いをするといわれて断るわけにもいかず、今日も駅で待ち合わせをして一緒に行動していた。
智子が、「ほら、あの人」と、指をさしたのは、住宅が並んでいる一方通行の道が、バス通りにつながるところの児童公園だった。
二人が立っている十字路から車道側に向かって開けている児童公園が見渡せて、植え込みのそばのベンチに、若い男女が並んで座っていた。
十メートルほど離れた先に、こざっぱりした若者らしい身なりの真近がいた。着ているものや履いている靴は新品で、色といいデザインといい、気が利いていてあか抜けていた。 髪が伸びると理近が工作用のハサミで切ってやっていた髪は、ヘアースタイリストの手にかかったように美しくカットされていて、風が吹くたび毛先が真近の顔の周りを吹き流れていく。ここからでは細かい表情はわからないものの、ベンチに腰掛けて女性と向かい合っている物腰には、二十歳の青年らしい華やぎがあった。
理近は棒立ちになったまま言葉を失っていた。理近とともに成長し、理近と苦難をともにしていた真近が、別の人間のようだった。
買ってやりたくても買ってやれなかった新しい服や、美容室につれていってカットしてやりたいと思っていた髪が、知らないうちに整えられていたことにショックを受けただけではなく、これまで真近のめんどうをみてきたことが、よけいなことだったと思えるほど、しっかりして見えた
向かい合っている女性は、真近よりずっと年上に見えたが、遠目にも美しかった。肩を出した薄もののサマードレスを着ていて、行儀悪く両膝を開いて足元に唾を落としたりしている。頬を手でこすって首や肩を回しながら真近に笑いかけていた。それだけで理近の心臓は跳ねた。髪を染めた年上の女性を、噛み付くように見つめていた。
真近を奪っていったのは、坂木稜介だけではなかったのだとおもった。きりきりと奥歯を噛んで睨みつけていると、真近が彼女のバッグからハンカチをとって、水道へ歩きだした。
木陰のベンチから日盛りの中に出てきた真近は、はっとするほど美しかった。双子の兄は、こんなにきれいだったのだろうかと理近は自問した。真近はきれいだったさ、と胸の中で答えた。それなら、双子なのだから、自分だってきれいなはずだろ、と自分自身にきいてみる。理近は首を振って否定していた。
「理近さん。あの人、お兄さんでしょ。よく似ているもの」
理近には智子の声は届いていなかった。真近はベンチに戻ってくると女性のむき出しの肩を拭いはじめた。
「なにをしているのかしら」
智子の呟きは、公園から聞こえてくる油蝉の鳴き声に消されて消えた。
真近はもう一度水道に戻ってハンカチをすすぎ直すと、今度は女性の前にひざまずいて、濡れたハンカチで裸足の足を拭きはじめた。丁寧に拭ってピンヒールのミュールを履かせている。
「行きましょうよ、理近さん」
智子が理近の腕に手をかけたが、理近は動けなかった。彼らの声は聞こえないものの、なにやら会話を交わしているのは見て取れる。年上の女性が、ひざまずいて靴を履かせている真近の髪を鷲掴みにして、からかうように頭を揺らした。それを真近が手で払った。たったそれだけのことなのに、二人の関係がひどく近いものに感じた。理近の胸はまたもや痛んだ。自分の知らないところで、自分の知らないうちに、兄には弟の自分より身近な人ができていたということに、打ちのめされたおもいだった。
どうりで俺のことなど忘れるわけだ。俺のことなど思い出しもしないわけだ。それなのに、俺のほうはどうだ。自身の半分を捜し求めて、休みになると夢中で探し回っていた俺はどうだ、と胸が詰まった。
仕事もなにも手が着かないほど心配して、班長の河本から叱られて、それでもおまえのことが頭から離れなくて、身をもんでいた俺はどうなんだ、と罵ってやりたかった。
「あれは、お金じゃないかしら。ほら、よく見えないけど、お金をわたしているみたいだわ」
智子に半袖シャツの裾を引っ張られて目を凝らしたが、こみ上げてくる悔し涙が視界をじゃまして理近にはよく見えなかった。
「そうよ、お兄さんは女の人にお金をあげたのよ。あ、行っちゃうわ」
公園の二人がベンチから立ちあがって女性が歩きだしたとたん、理近は弾かれたように走り出していた。
瞬く間に距離を詰めて女性の肘を掴んで振り向かせた。
「理近ちゃん!」
うしろで真近が驚いたように大きな声を上げた。理近は怒りで目が釣りあがっていた。
「いま、真近から金を巻き上げただろ。返せよ、金」
「だれが金を巻き上げたって。ふざけんじゃないよ」
がらの悪い声をだして理近の腕を振り切った女性の肩を突いてやると、たたらを踏んでよろけた。
「とぼけるな。見てたんだからな。確かに金を受け取ってバックにしまっただろ」
「おまえに関係ないだろ。これはもらったんだよ」
すごんで理近の胸を押し返そうとしたチエリの手首を掴んでもみ合いになった。真近が飛び込んでいって理近の手をもぎ放そうとした。
「やめて理近ちゃん。これには訳があるんだ」
「訳なんか知るか。帰ってこないし連絡もよこさないから心配で探し回って来てみれば、こんな女にかかわっていたのか」
「こんな女じゃないよ。トンチのママだよ。チエリっていうんだよ」
「どけ」
理近が強い力で押しのけると、真近はしりもちをついて転んだ。日に焼けている理近の腕がチエリのバッグに伸びた。
「なにすんだよ。人のものに手をだすんじゃないよ」
「おまえこそ、真近を誑かして金を巻き上げたじゃないか。返せよ。金を返せ」
「なんでおまえに返さなきゃなんないんだよ。関係ないくせに、ふざけた真似するんじゃないよ、手をはなせ」
理近にバックを引っ張られて、持っていかれそうになったチエリは、とっさに足で理近の腹を蹴り飛ばした。うめき声を上げて地面に倒れこんだ理近に真近がかけ寄った。その隙にチエリは走り出していた。追おうとして立ち上がった理近を真近は必死で止めた。
「おちついて理近ちゃん。トンチママに渡したお金は、僕のお金じゃないんだ。稜介のお金だよ。渡すように頼まれただけなんだ」
「稜介だとかトンチママだとか、いったいどうなっているんだよ。俺にはなにがなんだかわかんないよ」
声を震わせながら真近を振りほどいて立ち上がった。遅れて立ち上がった真近が、理近のジーパンについた砂を払いはじめた。
「理近ちゃん、痩せたね。ジーパンがぶかぶかになってるよ。夏バテかな。ちゃんとご飯を食べてるの」
「ふざけるな」
怒鳴ったつもりだったが、声が喉に絡んで出なかった。痩せてしまうほど心配したのは誰のせいだといいたかった。砂を落として顔を上げた真近と視線が合った。休みの日には外を歩き回って真近を探していた理近と違って、真近は日に焼けることなく肌の色が白かった。心なしか少しふっくらとして血色もよく、そのせいでおっとりしてみえた。一ヶ月ほど会わなかったあいだの生活がどんなものだったのかは知らないが、落ち着きのある表情から察するに悪くない暮らしのようだった。
「おまえ、太ったか?」
真近は恥ずかしそうに下を向いた。
「ごめんね、一人で太っちゃって」
こんな状況なのに理近は笑いそうになった。そしてそんな自分が哀れに思えた。悲しかったり寂しかったり不安だったのは、自分だけだったのだ。真近はそうではなかったのだと思うと、力が抜けていくようだった。
「探したよ。迎えに来たんだ。帰ろう」
「理近ちゃん」
真近は首を横に振った。
「だめなんだ。トンチの世話をしなきゃ」
「トンチって、あの赤ん坊だろ。あの女の子供なんだろ」
「うん」
「なんで真近が面倒をみなきゃいけないんだよ。関係ないだろ」
「そうだけど、僕がトンチを見ていないと稜介は働けないんだ」
「それも、おまえには関係ないだろ」
「そうだけど、でも、やっぱり僕がいなかったら稜介が困るから」
「なんだよ、稜介、稜介って。そいつはアカの他人だろ。俺たちは兄弟なんだぞ。兄弟より他人の稜介っていうやつの都合のほうが大切なのかよ」
腹の底から声が出ていた。大きな声ではなかったが、真近をたじろがせるには十分な怒りのこもった声だった。
「だって」
「だってじゃないだろ。いつまで他人のところに居座っているつもりなんだ。帰るぞ」
理近は真近の手首を掴んで歩き出そうとした。
「帰らないよ。僕は必要とされているんだ」
ぱっと手を振りほどかれてぎょっとした。まさか真近が逆らうとは思わなかった。素直でおとなしくて従順なはずの真近が、怒ったように口を尖らせて理近を睨みつけていた。
「理近ちゃんは僕がいなくても困らないでしょ。いないほうがいいのかもしれない。僕がいなければ、理近ちゃんはもっと楽に暮らしていけるはずだもの」
「おまえのほうこそ、俺といるより稜介とかいうやつといるほうがいいんだろ。なんだよ、その服。なんだよ、その頭。生まれたときからいい暮らしをしているみたいな顔しやがって」
おもわず真近の肩を突き飛ばしていた。そんなに力を入れたつもりではなかったのに、真近は簡単に地面に転んだ。しりもちをついて悔しそうに睨みつけてくる真近を、理近も睨み返していた。真近が砂混じりの土を掴んで地面に叩きつけた。やおら立ち上がって、なにか言いたそうに口を動かしたが、結局何もいわずに逃げるように走り出した。
「真近、戻って来い」
理近は叫んだ。叫んでも真近の足は止まらなかった。公園を走りぬけ、歩道橋を駆け上がっていく。
それまで、事の成り行きを黙ってみていた智子が走り寄ってきた。
「どうしたの。なぜ追わないの。せっかくお兄さんを見つけたというのに」
「もういいんだ。あんなやつ。探し回った俺がバカみたいだ。心配なんかしなきゃよかった」
智子の眉がつり上がった。何か言いたそうだったが、やおら身をひるがえすと、歩道橋に向かって走り出した。智子のローヒールが、真近を追って勢いよく歩道橋の階段をかけ上っていく。理近は背中を丸めてきつく目を閉じていた。
二十歳になるまで片時も離れずにすごした兄弟だった。一緒にいることが大切で、一緒にいさえすれば生活の不安や先の見通しの頼りなさを分かちあって頑張れた。二人だったからやってこれたと思っている。それは真近だって同じはずだ。だから、突然姿を消した兄を求めて理近は眠れぬ夜を過ごした。兄の身によくないことがおこっているのではないかと心配するあまり、食事も喉を通らなくなった。
「それなのに、稜介、稜介って、なんなんだよ。」
悔しかった。真近にきれいな服を買ってやった稜介も、だいぶ年上だったけれど、なれなれしく真近の髪を掴んで真近が差し出した金を受け取ったチエリという女も、理近のことなど忘れたように平然としていた真近のことさえも、みんな悔しいと思った。自分がひどく哀れに思えた。安物のシャツも、履き古したジーンズも、みすぼらしい自分という人間も、真近と一線を引いた貧乏人に思えて、兄弟なのに他人になってしまったような悲しみを覚えた。今まで寄り添っていた二人が、別れ道と気づかずに別々の道を歩きだしていた現実を突きつけられたような気がした。
真近は、俺とは別のところで生きていくつもりなのだろうか。そうしたら、俺は、どうしたらいいのだろうと、思い詰めて途方にくれた。
どのくらいの時間、ベンチで頭を抱えていたのだろう。上から智子の声が振ってきて我に返った。
「帰りましょう」
化粧っけのない顔に汗を滲ませた智子が、軽く肩で息をしながら立っていた。理近は立ち上がれないでいた。戻ってくる途中で買ったものと思われる、冷たい水のペットボトルを差し出されて受け取った。智子は自分の分のペットボトルのキャップをあけると、理近の隣に座って、喉をならして水を飲んだ。炎天下を走ったのだから喉が渇いて当たり前だが、力強く喉を滑り落ちて消えていく水の勢いに、智子の隠されたバイタリティをかいま見たような気がした。五○○ミリリットルのペットボトルの水を少しだけ残して一息ついた智子は、理近の手からペットボトルを取り上げると、キャップをはずしてもう一度理近に持たせた。
「飲んで」
静かな声ではあるが有無をいわさぬ口調だった。言われたとおり、水を口に当てて一口飲んだら、急に喉の乾きを思い出してむさぼるように水を飲み干していた。大きな息をついて口からペットボトルをはなした理近に、智子は満足そうな笑みを浮かべた。
「帰りましょう。きょうはわたしにお夕飯を作らせて。帰りに理近さんのアパートへ寄ってもいいでしょう」
のぞき込むように見上げてくるが、理近はぼんやり手の中の空になったペットボトルをながめていた。智子の言葉は聞こえていた。智子がアパートに寄っていこうが、夕飯をつくってくれようが、どうでもいいことのように思えた。それまでは、自分の貧しい暮らしぶりをみられるのがいやで、アパートには近寄らせなかった。しかし、もうどうでもよくなった。智子がアパートに寄りたいのならくればいい。飯をつくりたいならつくればいい。なんでもすきにすればいいと、理近はひとごとのように聞き流していた。
自分の住んでいる町に帰ってきて、駅前の大型スーパーに寄って、買い物をし始めた智子はうきうきしていた。夕飯の材料にはならない生活雑貨まで買っているので、理近は自分の財布の中身が気になった。
智子に会計させるわけにいかないから、理近が店内かごを持ってレジに並んだ。出費は、智子が真近の捜索に加わったせいで跳ね上がっていた。自分一人ならコンビニの菓子パンかおにぎりと飲み物ぐらいですませてしまえるが、智子にそんなものをあてがうわけにはいかなかった。昼は、あまり高そうではないこぎれいな店を選んで入ったし、お茶の時間になれば喫茶店やパーラーに入らなければならなかった。智子の楽しげなおしゃべりが増えるにつれて、出費も増えていった。ボーナスが入っていなかったら、まかなえる出費ではなかっただろう。
レジで会計をすませながら、こんなことに大切な金がなくなっていくのを焦る一方、なげやりになってもいた。どうにでもなればいい、どうせ守らなければならない真近はいないのだ、とふてくされた。
買い物を済ませてスーパーをでた。カレンダーが代わって八月に入ったばかりの夏空は、西に傾きだした太陽のせいで赤みがかっていた。ぱんぱんにふくらんだスーパーの袋を両手にぶら下げて歩いている理近の横を、智子は楽しそうに歩いていた。庭付きの戸建ての住宅に囲まれた古いアパートが見えてくると、しだいにい理近はうなだれていった。
今日見た真近は、こんなボロアパートに似合わないと思った。おしゃれで、きれいで、かっこよくなってしまったので、こんな貧しい生活に嫌気がさしてしまったのかもしれなかった。いい暮らしを手に入れたのなら、ここに帰ってきたくないと思うのは当たり前だ。だれだって遊びたい盛りの若者が、こんな生活に耐えられるわけはないのだ。悔しくて地面に向かって「くそっ」と呟いたら、アパートの外階段に足をかけていた智子が振り向いた。
「理近さん、鍵」
スーパーの袋を手首にかけてズボンの尻ポケットからキーホルダーを出し、智子に放り投げてやった。軽やかに階段を上って一番奥の部屋の前に立ちどまり、鍵を回す彼女を、不思議な気持ちで見上げていた。真近のように、ここを厭うてでていくものもいれば、智子のように建て付けの悪くなっているドアをいそいそと開ける人間もいる。
理近から見れば、智子など金持ちの娘だ。家は農家だなどといっているが、駅の周りの土地一帯は河本の所有で、最大手の電子機器メーカーと、やはり日本を代表する家電メーカーが、四十年前に新工場を建てて、単線だった線路が複線に代わり、急行電車が止まるようになると地価が跳ね上がって、河本などはだいぶ土地を売り払って財産を増やしたらしい。
納屋が残っている農家ふうな広い一軒家に隣接している大型マンションや、線路沿いにマッチ箱のように並んでいる建て売り住宅は、もとは河本の地所っだたのかもしれなかった。
智子にしたって、大学を卒業したあと就職しないで家の農業を手伝っているといっていたが、今ある畑は、農地で登録してある関係で作物を作らなければならないらしい。収穫した野菜は農協を通して市場に運ばれ、小売業者や流通業者に買われて消費者に届くというわけだが、農協の規格に外れたものは規格外としてスーパーの一部に設けられたコーナーで別に売られたり、路地販売されたり、さまざまな売られ方をする。
智子が作っているのは路地ものだ。それも、税金対策上、農家としての体裁をたもつだけのものらしかった。しょっちゅう大学時代の友人と海外旅行に行っているような智子が、なぜ自分のような陰気な貧乏人を相手にするのか、理近には理解できなかった。
理近が玄関に靴を脱いで顔をあげたら、正面の六畳間に敷きっぱなしだった、つぶれた布団を、智子がベランダにかけているところだった。
そんなことをしなくてもいいと言いかけた言葉を飲み込んだ。智子がアパートに来て夕飯を作ってくれるというのを断らなかったということは、智子のしたいことを許容するということかもしれなかった。それに、いまの理近にはいちいち言葉で智子を規制するだけの気力がなかった。
買ってきたものを流しのステンレスの上に置いていると、智子は押入を勝手にあけて座敷箒を取り出した。玄関ドアもベランダ側の引き戸も開けて、慣れた手つきで部屋の中を掃き始める。それが終わると台所の二人掛けのテーブルを拭いて早速フライパンをとってガステーブルに置いた。
「簡単なものしかできないけど、座って待っていて」
スーパーの袋から肉や野菜などを取り出しながら話しかけてくる。袋の底から缶ビールを数本取り出して手早く冷蔵庫にしまった。智子はゆっくりしていくつもりなのだろうかと、冷蔵庫にしまわれたビールを頭に浮かべて畳に横になった。
頭の下に両腕を重ねて目をつむると、全身から疲れが滲み出すようだった。エアコンがないために玄関ドアを開けて風を通しているが、角部屋だったから人の目は気にせずにすんだ。智子は額の汗を手の甲で拭いながら、料理をするあいだ、一人でずっとしゃべっていた。理近が返事などしなくてもかまわないらしかった。注意して聞いていたわけではなかったが、友達や家族や自分の話の合間に、今度くるとき持ってくるものや、買ってくるものの品名が混じっていた。
いいにおいがし始めたら腹の虫が鳴った。悲しくて悔しくて、この気持ちをどこにぶつけていいかわからないときでも、いいにおいをかぐと腹は鳴るのかと思うとやりきれなかった。
「理近さん、お布団をとりこんでちょうだい。埃をよく払ってね」
テーブルに食器を並べる賑やかな音とともに言われて、畳から身を起こした。いわれたとおり、布団の埃を払って中に取り込むと、夕飯ができあがっていた。
「さあ、理近さん」
イスに座れというように手で示されて腰をおろせば、冷たいビールがコップにつがれた。智子が空の自分のコップを理近に差し出してくるので智子にもビールをついでやった。
「乾杯」と、智子は理近のコップにコップをあてた。何のための乾杯なのか理近にはわからなかった。冷えたビールを一息に飲み干した。空きっ腹に冷えたビールが心地よく広がっていく。智子もコップの半分ほどを飲み干して「おいしい」と幸せそうに顔をほころばせた。
「理近さんは嫌いなものってあるの」
箸をとりながら聞いてくる。
「ないです。なんでも食います」
贅沢は言わない。出されたものは何でも食べた。食べられるときに食べておくという悲しい習慣は、幼い頃に身につけたものだった。
「そう。つくるほうとしては助かるわね。わたしはだめ。けっこう好き嫌いが激しくて、いつも母に叱られちゃうの。でも、子供の好き嫌いって、母親にも原因があるんじゃないかしら。まんべんなく食事をさせて偏食をなくすって、大切じゃない。わたしならそうするけどな。そのてん、理近さんのお母さんは偉いわね。子供たちに好き嫌いがないように育てたんですもの」
何にも知らないくせにと思った。しかし、しらなくて当然だとも思い返した。自分のことはなにも話さないのだから。智子が、刑務所に入っている母親のことを、偉いとほめてもしかたがないのだとおもったら、急に笑いがこみ上げてきた。
狭いテーブルの上に並べられた手料理に箸をつけていた智子が、理近のばか笑いに顔を上げて、つられたように笑った。
その夜、智子は真近の話はいっさい持ち出さなかった。公園に理近を置いて真近のあとを追いかけて、こっそりマンションの部屋を確認したことを話さなかったし、理近のほうも何も訊かなかった。二人は、申し合わせたように真近の話題を避け、智子の作った料理を食べた。
それを機に、智子が頻繁にアパートを訪れるようになり、殺風景だった理近の部屋に、女らしい小物が彩りを添えるようになっていったのだった。