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無言の情景  作者: 深瀬静流
1/12

1  消えた真近

 定時で作業を終了すると、従業員たちは、おもいおもいに工場の出口に向かって動きだした。清潔な白の作業着と、白の耳付き帽子に白長靴で全身を覆った従業員の顔は、どれも明るい。今日はボーナスの日だった。出口に向かう岸田理近きしだりちかの足も自然に弾んでいた。

「うれしそうだな岸田。去年の暮れのボーナスは少なかっただろうが、こんどはいっぱいもらえるぞ。驚いて腰を抜かすなよ」

 廊下に出たところで、班長の河本こうもとがそう声をかけてきた。理近がうれしそうに鼻をうごめかせると、となりからも声がかかった。

「少なくてがっかりして腰が抜けるの間違いじゃないのか。でも岸田が毎日はいている、底の抜けた靴ぐらい買えるだろ」

 からかいを含んだ大人たちの笑い声に、理近はますますそわそわした。

 高校を卒業して自分で見つけてきた、香辛料を調合するこの会社に就職して一年三ヶ月がたっていた。半年の試用期間を経て、正社員になってからの二回目のボーナスだったが、確かに去年の年末のボーナスは少なくてがっかりした。だから今度の夏のボーナスには期待が高まっていた。

 作業着だけではなく、髪にも染み込んだ強い香辛料の臭いを取るために、工場には大きな浴場があった。雑談で弾む浴場内の、湯でけむった洗い場で手早く全身を洗いおえ、音をたてて湯船にしずむ。疲れよりも喜びがにじみだしていた。

 理近の頭の中では、買い物のリストがスクロールしていた。買いたいものがありすぎて、なにを優先させていいか迷ってしまう。いや、そうではない。優先させるものなら決まっている。兄の真近まちかだ。

 真近に新しいTシャツを買ってやって、ジーンズも買ってやって、そうだ、いつも俺が真近の髪を切ってやっていたから、あいつを散髪に連れていってプロに髪を切ってもらおう。

 理近は自分の空想に胸がはちきれそうになった。プロの手でカットされたら、真近はどんなに愛らしくなるだろうと思うとわくわくした。同時に、行ったことのない理髪店で知らない人に話しかけられたり髪をいじられたりしたら、パニックを起こして大変なことになるかも知れないと思いかえした。理近は残念そうにその思いつきを諦めた。

 そのかわり、今夜はスーパーで牛肉を買って、腹一杯すき焼きを食わせてやろうと思い直して、ザブンと湯からあがった。

 風呂に入りおわって会社の門を出た頃には、あたりはかすかに残照の気配を残して暗くなっていた。

 川沿いに開けた区画には、日本を代表する電子機器メーカーと家電機器メーカーが隣接していて、どちらも競い合うように工場に長い塀をめぐらせていたが、そのほかにも大手の下請け会社や町工場が、隙間を埋め尽くすように並んでいた。理近の働く工場も、そんな一角に場所を占める食品会社の系列の下請け会社だった。

 駅に向かう勤め人たちが、同じ方向に向かって歩いていくのをかすめるようにして横切り、土手に上る短い階段を駆け上ると、強い風が全身をなぶった。

 二級河川の川に沿って作られた土手の遊歩道を歩く人はだいたい決まっていて、理近も土手を歩いて駅に向かう一人だった。どういうわけかネクタイを締めたサラリーマンは、下の風の吹かない行儀よい道をぞろぞろ歩いていく。理近は、風が強くても虫が顔に当たってきたり藪蚊が耳の周りで騒いでも、見晴らしのいいこの道がすきだった。

 青いインクを流したような川面には、真っ黒な川烏が五羽ほど中州の土の塊で羽を広げて、濡れた体を乾かしていた。すっかり暗くなってしまえば、川鵜の姿は夜と同化して見えなくなってしまうのだが、まだこの時間は川鵜の姿は暗さに紛れることはなかった。

 大企業二社が資金を提供して架けたといわれている幅の広い大きな橋が見えてくると、駅はその橋を渡った袂にあった。理近は足取りも軽く橋を渡った。駅を素通りして駅前のバス発着所を左に曲がる。テナントビルやドラッグストアが並んでいる駅前を足早にすぎて銀行に寄り、ATMで金を下ろした。

 残高の金額を見たときは、本当にボーナスが出たのだと実感できて頬がゆるんだ。

 真近の顔が浮かんでくる。

 けさ出勤前に、今日はボーナスがでるから、すき焼きにしてやるなといったら、うれしそうに笑った双子の兄の顔が目に浮かぶ。

 理近は銀行をでると、急ぎ足ですぐそばの大型スーパーに入っていった。特売の牛肉を一キロと、ネギの束と豆腐と、真近の好きな糸こんにゃくと卵を買った。

 肉一キロは二人には多すぎると思わないでもなかったが、ふだん切り詰めた生活をしているので、今夜くらいは贅沢して腹一杯肉を食べてみたかった。

 食料品で膨らんだスーパーの袋をぶら下げて道を急いだ。一方通行の車道を曲がって、近道の路地を数回曲がると見えてくるアパートは、四十年ほど前に建てられた関係で、アパートの前にはたっぷりとした空き地が残っており、六台の車が止まっていた。外階段に錆が浮いているようなボロアパートでも、駐車場付きというのは貴重なようで、駐車している車は意外にも高級車が何台か混じっていた。

 周りを庭付きの一軒家が埋め尽くしている一角で、取りつぶすのを忘れたような古ぼけたアパートだったが、高卒の理近の給料で兄弟二人が暮らしていこうと思ったら、そんなアパートしか借りられなかった。それでも理近は満足していた。大切な真近を、俺が守って養っているという自負が、若い理近を輝かせていた。

 鉄階段に足をかけただけで軋みをあげるような錆の浮いた外階段をけたたましく走りのぼって、四部屋並んでいる一番奥の部屋の前に立った。

 ドアの横には、台所の窓と風呂場とトイレの小窓が並んでいるが、それらの窓には明かりがついていない。いぶかしく思ったが、時間を忘れて寝ているのかもしれないと思い直した。兄の真近にはそういう間の抜けたところがあった。

 母親の胎内で二人が成長するうちに、どういう加減かわからないが、弟の理近ばかりが大きく育ち、兄の真近は弟に養分を吸い取られたように超未熟児で生まれた。理近は母親と一緒に退院できたが、真近は二ヶ月も病院の保育器の中で過ごした。二ヶ月後には退院できたものの、それでもまだ小さかった。

 母親はそんな真近を邪魔にして、死んでくれればよかったのにと口癖のように言っていたが、真近は育ち具合が芳しくないなりに成長した。身長が一七七センチある理近より頭一つ分小さい真近は、理近にとってはよく生きて大人になってくれたと思うほど大切な存在だった。言葉を話そうとせず、理近以外に心を許そうとしない兄は、他人には知的障害者にみえるらしいが、しゃべろうとしないだけで、知能に問題があるわけではなかった。

 合板ベニヤがところどころはげかけている木製のドアに鍵を差し込んで中に入り、台所の照明をつけた。とたんに熱気のこもった空気が押し寄せてきた。

「真近、窓を開けろよ。エアコンがないんだから窓くらい開けておけ」

 そう言いながらスニーカーを脱いだ。玄関の靴脱ぎは畳半畳分の狭さで、六畳の台所に靴脱ぎと流し台と風呂場とトイレが全部入っていた。二人掛けの小さなテーブルと独身者用の冷蔵庫を置いたらいっぱいになってしまう狭さだ。

 襖で仕切るようになっている奥の六畳間はパラリと襖を全開にしてあるので、ひと目で室内が無人なのがわかった。

「真近、トイレか?」

 荷物を流し台に置いてトイレをあけてみる。和式に手を加えて洋式になおした狭いトイレに真近はいなかった。眉を寄せて風呂場の戸もあけてみた。やはりいない。理近の表情がみるみる険しくなっていった。

「真近!」

 押入の中もあけてみる。ベランダに出て、そこにも姿がないのがわかっていながら、階下や隣合った家の先まで首を伸ばして真近を探した。

 ふだん真近はアパートにこもりっきりで、めったに外出はしない。外に出るときはたいがい理近と一緒だ。朝、理近がつくる朝食を一緒に食べ、昼は理近が用意しておいたにぎり飯を簡単なおかずですませる。なにもかも理近に依存している真近には、出かける用事などなかったし、誘ってくる友人だっていなかった。いつも一人でゲームをやって理近の帰りを待っていた。

「鍵をかけて、どこにいったんだ」

 食料品を冷蔵庫にしまうのも忘れて理近は玄関にとって返した。昔、ここに引っ越してくる前に、母親と住んでいたアパートでも、こんなふうにいなくなったことがあった。

 理近が高校に行っているあいだ、ふらりと出ていったきり帰ってこなくて、アルコール依存症だった母親は、いなくなってせいせいしたとすっきりした顔をしていた。理近は夢中で探し回って、隣町の駅の交番で保護されていた真近を発見したときは、全身から力が抜けものだった。

 理近は高校に行かせてもらえたが、荒れた生活をしている母親にとって真近は、おまけについてくるポケットティッシュよりも値打ちのない存在だった。金がかかるといって高校には行かせてもらえなかった。理近は高校を卒業するのを待って、真近を連れて家をでた。真近をじゃまにし続けた母親を捨てたのだった。それなのに、真近がいない。

「どこへ行ったんだ、真近」

 ドアに鍵をかけるのも忘れて理近は外階段を駈け降りた。




 夕飯どきを迎える住宅地は、外で遊ぶ子供もいなくて静まり返っていた。ときおり歩いている人を見かけるが、ほとんどといっていいくらい人通りはなっかった。商店街に足を向け、次にスーパーの中を探し回り、近くの公園やコンビニも探した。

 空腹であることも忘れ、夢中で理近は走り回った。汗が吹き出し、Tシャツの胸や背中を濡らした。息が煮えたように熱くなって肺がきしみ、ついに理近は商店街のはずれの往来で、走り続けていた足を止めた。

 夢中で走りすぎて膝がガクガクした。うしろから、自転車の前かごにチワワを乗せた年輩の主婦が、車輪を軋ませながら通りすぎていった。チワワは耳に赤いリボンをつけていた。

「あ、そうだ」

 両膝に手をあてがって息を整えながら、みるともなしに走り去っていくチワワを眺めて、ふと頭に浮かんだことがあった。

「犬だ」

 アパートの近所に柴犬を飼っている家があって、夕方になると家の中に入れてしまうが、日中は柵状の塀を巡らせた庭に放していて、真近は時々その犬のところに遊びに行っていたことを思い出したのだ。

 遊ぶといっても、柵の隙間から鼻面を出した犬の頭を撫でる程度なのだが、めったにしゃべらない真近が、その犬相手に小声でぼそぼ話しかけているのを、会社の帰りに見たことがあった。

 珍しいことだったので、しばらく電柱の脇で眺めていたのだが、中学生くらいの少女が玄関から出てきて、犬を中に入れようとした。真近がにっこり笑いかけて何か言ったら、少女が笑みを浮かべて一言答えてから、犬と一緒に家の中に入っていった。

 しばらく理近は動けなかった。真近が自分以外の人間に笑いかけたことに心底驚いていた。そんなこともできるのだと思った。そして自分以外の人間に笑いかけたのを不快に感じた。自分だけが真近のすべてであらねばならなかった。

 理近はせかされるように再び走り出していた。この時間では、犬は家の中に入れられているかもしれない。でもそこにまだ真近がいるかもしれないのだ。

 その家についてみると、やはり犬は家の中に入れられていた。理近は荒い息を吐きながらあたりを見回した。どこにも人の気配はなかった。立ち去りがたく思いながら、どの道を探そうかと首を巡らせていたら、ドアがあいて柴犬のリードと犬のお散歩セットを持った例の少女が出てきた。

「あの! すみませんが、きょう、お宅の犬をかまいに俺と同じくらいの年頃の男がきませんでしたか」

 大きな声ですがるようにかけた声に驚いたのか、少女は身をすくませて半歩後ろに後退った。

「あの、背は俺より頭一つ分低くて、体つきも俺より華奢で、顔は俺と似てると思うんですけど」

 塀の向こうから詰め寄るようにきいてくる、若い男の必死の形相におびえて、少女はますます身を固くした。

 ゆるくしっぽを振っている柴犬が吠えたら、奥から祖父らしい老人が出てきた。

「どうしたんだ。まだ散歩に行かないのか」

 老人は気むずかしげに孫娘と理近を見比べた。

「なんだね、あんたは。うちの孫に何か用かね」

 最初から敵意のある目つきで理近を睨んできた。

「この近所に住んでいる者ですが、時々うちの兄貴がこちらの犬に会いに来ているみたいなんですけど、きょう、見かけなかったかと思って、お孫さんに聞いていたところなんです」

 つっかえつっかえ話す理近に、老人は手で追い払う仕草をした。

「知らないね。あんたの兄さんに言っておいてくれ。人の家の犬をかまうのはやめてくれってな。犬が好きなら自分で飼えばいいんだ。さ、帰ってくれ」

 理近は瞳をふるわせると、きびすを返して走り出した。

 どこを探そうかというあてはなくなっていた。ただただじっとしていられなかった。

「きちがいみたいな目つきをしおって。あんなのと口をきくんじゃないぞ。なにをしているのかえたいが知れん」

 走り去っていく理近の後ろ姿を見ながら、老人は吐き捨てるように言った。

「でも、あの人のお兄さんを見たことあるけど優しそうだったよ」

 少女の言葉を遮るように、老人は犬のリードを取り上げた。

「どこかですれちがっても知らん顔をするんだぞ。おかしなそぶりをしたら店でも人の家でもいいから駆け込んで助けをもとめなさい。身元のはっきりしないよそ者は信用してはいかん。コロの散歩はおじいちゃんが行ってくるから、おまえは家に入りなさい」

 少女は素直に家に入った。

 背後でそんな会話が交わされていたとも知らずに、理近は真近を探して夜を走り続けた。


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