冷たい唇
朦朧とした意識と震えるほどの寒さで座り込んだ私に彼は言った。
「痴情のもつれか?」
「――あんな電波ストーカーと付き合う度量はないわ」
タオル地のロングパーカー姿で裸足の私は仕立ての良さそうなスーツ姿の初対面の男を見上げ、人生で最大に眉を顰めた。
仕事上の会話しかしていない取引先の男から急に恋人扱いされて付きまとわれた。相手にしなかったら図に乗って、いつの間にか結婚相手にされていた。
明日式場を見に行こうね――会社の電話口でそう言われた時、もう駄目だと思った。
だから「これ以上嫌がらせをするなら警察に行きます」と伝えた。そして何を言っているのか分からない言葉を喚く受話器を思い切り叩き付けた。
事情を知る会社の女性同僚が心配して一緒に帰ってくれた。
でもあいつはいつの間にか家の中に侵入していたらしく、風呂上がりに押し倒された。
必死で抵抗したら刺された。隙を付いて家を飛び出したけれど、もう身体が動かない。
「致命傷を負っている割によく喋る」
男は呆れたのか褒めたのか分からない口調で告げた。
刺された脇腹は真っ赤に染まり、血がアスファルトの上に滴り落ちる。
それを見て、人間ってこんなに血が出るんだ――と他人事のように思っている自分に驚く。
強烈な痛みはすでに消え、溢れ出る血の温かさと出血による寒さと手足の痺れを感じている間だけが生きている証のような気がする。
だからもうすぐ死ぬと言われても驚かなかった。
「死んじゃうのか――私」
自嘲気味な笑みを浮かべた私に男は片膝を突いて目線を合わせた。
変わったものを見つけた――そんな表情だった。
「やけにあっさりしているな」
「家族も恋人も友達もいないし――だから知り合いが少し寂しい思いをするだけ」
未婚で私を産んだ母は昨年突然倒れそのまま亡くなった。だから父親の事は何も聞けず、今でも分からない。
祖父母もすでにこの世になく、母は一人っ子だったため親戚もいない。
あと2ヶ月で24歳だけど、『恋人』とか『元彼』とか呼べる人に心当たりはない。
ついでに『親友』と呼べる人もいない。
そう考えるとけっこう寂しかったな、私の人生。
落ち込む私を余所に男は小さく「お前も独りか」と呟いた。
だんだん息苦しくなり大きく息を吐くと、もたれているブロック塀に後頭部を付けた。
「もしかして――天使?」
男は冷たい端整な顔を僅かに顰めた。
「どちらかといえば――死神か」
全身黒ずくめの姿は闇夜に紛れている。
「残念ながらそのどちらでもない」
男は私の人生最後になるかも知れない冗談には付き合ってくれなかった。それでも真面目に答えてくれた事が嬉しかった。
「通りすがりに――ごめんなさい」
家に帰る途中で血だらけで死にかけの女に出くわせば夢見は悪いだろう。
「いや――通りすがりではない」
男は視線を落とし脇腹を押さえている私の手に触れた。
血で汚れるのに――ぼんやり思った。
「美味そうな匂いにつられた」
そう言うと指先に付いた血を舌で舐め取る。自然な仕草が妙に艶っぽい。見惚れてしまいつい声が出た。
「吸、血鬼?」
男は私の目を見て口の端を吊り上げた。
普通ならそんな言葉出る訳ないし、そんな事思わない。
でも今は――刺されて死にかけているせいか――そんなあり得ない事が違和感なく納得出来る。
「どうせ、なら――好きなだけ――どうぞ」
男は私の突拍子もない申し出に少し驚いたようだ。切れ長の目が丸くなる。
だってもう死んじゃうみたいだし、それなら誰かの役に立ちたいでしょ?
同じ吸われるならアスファルトより目の前の美形の方が、血だって嬉しいに決まっている。
健康診断はいつもA判定だったし、肉とか魚より野菜が好きだったし、自分で言うのも何だけど味は悪くないと思うよ。
男は傷口に視線を落として顔を顰めた。
「――位置が悪い」
傷口が低いから吸いにくい、という意味らしい。その顔は、まるでご馳走を目の前に待たされている子供のようだ。つい口元が綻ぶ。
「――どこでも良い――よ。首でも」
すでにお腹がパックリ切られているから、今さら首筋の一つや二つ噛まれたって平気だろう。
お風呂上がりで助かった――と、どうでも良いことでほっとする。
男は肩に掛かる、まだ濡れた髪を手の甲で優しく払った。首筋に僅かに触れた指先が心地よい。
間近で見る綺麗な顔に心の声が漏れる。
「最後の――顔が――あなたで、良かった」
――俺だけを見てくれよ! なぁ、お前は俺の事を好きなんだろう?
私を刺した時の歪んだ笑み――あれが人生最後の異性の顔だと思ったら死んでも死にきれない。
見ず知らずだけど、最上級の美形で上書きしてやった。
ざまあみろ。
「一緒に来るか?」
男は優しく囁く。
――どこへ?
そう投げかける視線にも男は何も言ってくれない。
意味が分からない。
でも――その声にその瞳に抗えず小さく頷いてしまう。
彼は人間離れした――作り物めいた妖艶な微笑みを見せた。
「今からお前は――俺のものだ」
白い肌、黒い髪――そして赤い瞳。
本物だ――そう気付いた私の首筋に、男は冷たい唇を落とした。
血の付いたナイフを持って歩いていた加害者は近所の通報で駆けつけた警察官により緊急逮捕された。
付近を捜索していた警察官は細い路地の奥で多量の出血痕を見つけたが被害者の姿は見当たらなかった。
事件から2週間経過しているが被害者は未だ行方不明。
被害者の生存は絶望的と思われる。
「ねぇ――私吸血鬼なの?」
「違う」
「じゃあゾンビ? 動く死体? 腐っちゃう?」
「――違う」
「じゃあ何?」
「生き餌兼夜の相手」
「え、餌って――ちょっと待って――その後何て言った?」
「今までの中で一番美味かった」
「そんな笑顔で言われると照れるけど――じゃなくてその後! 夜って――」
「衣食住は保証する――あと、俺が死なない限りお前も死なないから安心しろ」
「あ、お世話になります――じゃなくて! 夜ってどういう意味!」
「血を吸うのとあれは大体セットだから」
「セットってポテトじゃないんだから――」
「夜が嫌なら朝でも昼でもいいよ」
「いや――時間帯じゃなくて」