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「魔物と握手でもしてろ」と晒された俺、世界のダンジョンボスと腕相撲を始めます~S級クランの攻略配信より、魔王級の悔し泣きが人気です~

作者: ramune
掲載日:2026/10/03

「魔物と握手でもしてろ。お前にはお似合いだ」


「だったら、お望みどおり握ってやる」


 この地球では、五大ダンジョンの通行門をボスが独占し、双方が認めた勝負でだけ通行権が動く。


 俺は権田力也、三十五歳。職業はプロのアームレスラー。


 授かった能力は、握り合った片腕の力を互角にする〈握手〉だった。


 初日、東京の東の門前。朝日が門の黒い縁をなぞり、放送席の照明が白く照り返す。俺を攻略生配信に呼んだのは、S級クラン長の鷹城だ。能力披露という名目で、部下の一人と握った直後のこと。握った腕はぴくりとも動かない。画面では、握力の数字が二つ、同じ値になって並んでいる。それだけで、披露は終わりらしい。紹介画面に載っているのも〈握手〉の名だけ。俺の競技歴は、どこを見てもない。


「クラン長、数字、両方おんなじっす!」


「同じにしただけです。戦闘に使えない君は、無能です。数字で示してあげるのが、配信の親切です」


「俺は権田力也。競技歴二十年のプロだ。俺の仕事を見せてやる!」


 胸の奥に熱がせり上がる。二十年、客の入らない会場で握ってきた。勝敗を見届けて、それで終わりにはしてほしくない。この競技を、俺の名前ごと家まで持ち帰ってほしい。そのために磨いてきた腕だ。まだ、肝心の仕事を見せちゃいない。


 向かうは、どのクランにも攻略不能の牛頭王(ごずおう)。門の奥から出てきて、勝負台の前に構えている、この東の門の主だ。踏み出した俺の前へ、同席していた協会の係が回り込んでくる。胸に抱えた記録板の縁に、指がきつくかかっている。


「負ければ、この門には二度と挑めません。条件と勝者を記録すれば、通行権が移ります」


「受ける。腕相撲で勝負だ!」


「腕相撲、ですか? 確認します。……確認しました」


 放送席を離れると、足裏から床の揺れが伝わってくる。見上げた先で、牛の頭が勝負台の小さな机を見下ろしている。太い角が照明を弾く。降ってくる鼻息は熱く、俺の前髪をふわりと持ち上げた。


「余の机が小さい! これで王を迎える気か?」


「肘を置くのはこっちだ。それなら足りるだろ!」


 肘置きだけを差し出す。丸い金の目が、その小さな板をじろりと見て細くなる。


「余の肘は、その板より大きいぞ!」


「はみ出した分は、俺が支えてやる!」


「人間には負けぬ!」


「俺も負けに来てねえ!」


 俺は右腕を挙げて見せる。王にも、カメラの向こうにも、掌が見えるように。


「右腕で〈握手〉を使う。握ってる間だけ、力が互角になる。お前の力は持ち帰れねえし、離せば効かない」


「力が同じなら、余が負けるはずなかろう!」


「その台詞、負けたあとも使っていいぞ!」


 係が台と足場を合わせていく。王の椅子が重く軋み、俺の靴底が床を噛む。見上げるほど大きな相手でも、肘を置けば、やることはいつもと同じだ。


「受けよう。負けても机のせいにするでないぞ!」


「言い訳は聞く。まず肘をつけ!」


 協会の集計では、提携先の中継も含めた同時視聴が十万人。返しモニタに、各地の客席が映っている。握る前に一度だけ、俺はそこへ目を向ける。画面の端まで人がいる。これだけの目が、これから俺の腕を見る。


 巨大な肘が机につき、世界中の視聴者が息を呑む。


「三秒で負ける。皆さん、数字をご覧ください」


「両者、手を合わせました! 顔が近い、近いです!」


 鷹城の声と実況が、会場に重なる。掌が合う。硬い皮のざらつきと、その奥の熱。握ったところへ、係の合図が飛ぶ。俺は肘を、握った手の下へ寄せ、腕を支える。二十年、繰り返し確かめてきた位置だ。力が互角でも、この置き方までは同じにならない。王の手が傾く。


「参った!」


 牛の頭が、がくりと下がる。甲がつく前に手を離すと、王は大きな口を尖らせた。その目から、涙がぼろぼろこぼれてくる。係が時計を掲げる。


「三秒。記録しました」


「よっしゃ! 今の見たか、もう一回見ろ!」


「……まだ帰りたくない」


「帰る話はしてねえ! まだ遊べるぞ!」


 牛頭王が鼻をすすり、濡れた顔で笑う。机に落ちた涙は、小さな水たまりになって広がっていく。


「楽しかった」


「負けてそれが言えるなら、次はもっと面白いぞ!」


 係が勝利を記録する。一勝で一門を得る。これまでは、許可されたクランの遠征便だけが渡航の頼み。その門をどうするか、今は俺が決められる。


「通行権は権田さんのものです。門は、どうしますか?」


「誰でも通れるように開けよう!」


「開きました! 門が、開きました! 向こう側の光です!」


 開いた門の向こうから、別の大陸の光が俺の靴まで伸びてくる。


 金色の、暖かい光だ。初めて渡る客が、足元を確かめるようにその光を踏み、シドニーへ抜けていく。入口で見送る俺も、配信の画面に収まっている。駆け寄った部下が、客の公開したばかりの切り抜きを放送席で見せる。


「クラン長、切り抜き出てるっす! 三秒の予想の後に、王の泣き顔がくっついてるっす!」


「……編集の話は、解説ではありません」


 鷹城の予想の声から、王の泣き顔へ。返しモニタにも同じものが流れ、その間の短さに、俺まで口元を押さえたくなる。


《負けたの、牛頭王のほうだぞ》


「次は門の先の王です。公式配信で、その競技を見せませんか?」


「行こう! 次の相手にも肘をつけさせる!」


 牛頭王が机に顎を載せる。顔が沈んだ分だけ角が傾き、その先が俺の肩をつついた。


「余の記念だ。持って行ってよいか?」


「今度は小さくねえんだな!」


 係が譲ると、王は机を抱え、俺の後ろへ回る。さっきまで文句をつけていた机に顔が隠れ、角だけがひょいと覗いている。


「もう一回」


「言い訳は聞く。まず肘をつけ!」


       ◇


 三日目、シドニーの港の門。潮の匂いが放送席まで届き、風が肌に薄く塩気を残していく。門を渡って協会の車で移動し、間の日は休む旅だ。放送席の紹介札には鋼鎧王(こうがいおう)の名。隣の画面では、鷹城クランの遠征中継が別枠で流れている。


「初戦は偶然です。鋼鎧王なら格が違います」


 予想を当て直すために、鷹城は協会の配信でも解説を続投している。その放送席へ、牛頭王が机ごと上がってきた。係が記録板を抱えて追いかける。


「余の席はどこだ! 解説の隣が空いておるぞ!」


「応援席として認めます。机は……ええ、そのままで結構です」


 王の重さに、放送席の椅子が一つ、長く軋む。鋼鎧王は、鎧を磨きながらの登場だ。布が動くたび、磨かれた面に港の光が滑っていく。房飾りの揺れる下で、赤い光の目が俺を上から下までなぞる。


「右腕、〈握手〉の使用。腕相撲は、甲がつくか降参で決着です」


「我を人間と同列に扱うな!」


「対等がそんなに怖いか!」


「怖いのではない! 格が違うと言っておる!」


「格の差なら、握れば分かる!」


 王が指すのは、自分の腕ではなく、鎧の飾りだ。


「この鎧を見ても、まだ分からぬか?」


「肩の飾り、いい仕事してるな!」


「そこまで磨いたのである!」


「腕以外はもう見た。次は勝負だ!」


 磨いていた手が、ぴたりと止まる。係が台と足場を調整する横で、俺は肘置きを机の縁へ押しつけた。指先に返る硬さを確かめ、王の腕へ目を戻す。


「受ける。……鎧が重かった、とあとで言うかもしれんが」


「言い訳は聞く。まず肘をつけ!」


「この房飾りは北の工房のもの。房の巻きが実に見事です」


「鷹城! 勝負が始まっておるぞ!」


 もう握っている。合図。鎧の冷たさが掌へ染みてくる。俺は靴底に重さを感じながら、身体を横へ運ぶ。腕だけで押し合うつもりはない。王の腕が、俺の重さごと傾いていく。


「参った。……今の、我にも教えよ」


 甲がつく前に離す。王は鎧を磨いていた布で涙を拭き、その布でまた鎧をこする。けれど目は、磨く場所を見ていない。すぐに俺の手首へ戻ってくる。


「鎧の自慢より先にそれかよ!」


「鎧の話はまだだ! ……腕も、ちゃんと見てほしいのである」


「その順番なら、いくらでも教えてやる!」


 鎧を解説していた鷹城が、遅れて台へ顔を向ける。係の記録で得た門を、俺は開く。北欧の港と直結する開通式の画面には、初戦の泣き顔が再び大きく映った。


「クラン長! うちの遠征より、牛頭王の悔し泣きを映す開通式のほうが見られてるっす!」


「いま、鎧の解説中です!」


「余は開通式を見るぞ! 余の顔が映っておる!」


 牛頭王が画面へ顔を寄せる。鼻息がかかるたびに表面が曇り、映っている泣き顔までぼやけていく。


《牛頭王の悔し泣きを見に来た》


「もう一回だ! 今度は我の腕を見よ!」


「その注文なら、大歓迎だ!」


 鋼鎧王に返し、俺は両岸へ顔を向ける。潮の匂いが二つ、風の中で混じり合う。向こうから流れてくる空気は、頬に少し冷たい。


 門のこちらと向こうから、海を隔てた二都市の歓声が重なる。


       ◇


 五日目、北欧の港へ渡り、車で北の門へ。吐く息が白くほどけ、指先を出しているだけで冷えていく。放送席には『白霜王勝利』の看板と鷹城、その隣に牛頭王。看板は俺の背丈ほどもあるうえ、金の縁取りまでしてある。曇った空の下で、そこだけ妙に立派だ。


「八百長でしょう。白霜王なら見抜きます」


「鷹城、その板は何だ?」


「予想です。解説者の仕事です」


「余のときも用意しておったのか?」


「……間に合いませんでした」


 白霜王が右腕と〈握手〉の条件を聞き、調整済みの台につく。肩から滑り落ちた白い長髪が、冷たい光を含んでいる。薄青の目は一度も瞬かない。こちらの指先まで見透かされそうな目だ。


「同じ条件で受けよう。そなたが騒げば、集中できぬが」


「言い訳は聞く。まず肘をつけ!」


 握り、合図。掌の冷たさが、指の節まで食い込んでくる。俺は握った手を、相手の指先側へ返す。王の腕が傾く。白い髪も、薄青の目も、まるで動かない。


「……参った」


 声だけが、小さく落ちる。甲がつく前に離すと、掌にはまだ冷たさが残っている。係の勝利の記録を受け、俺は北米の北辺へ通じる門を開いた。


 北方各国の荷物を積んだ車が、開いた門を行き交う。


 荷の列が途切れない。台のほうへ目を戻すと、王の椅子の下だけに霜が広がっている。白くなった床の端を目で追っても、通路までは届いていない。


「吾は悔しくなどない」


「本気だった証拠だろ!」


 白霜王が足を引っ込める。隠れた足先を追うように、霜が椅子の脚を這い上がっていく。


「足元を見るな! ……違う、寒いだけだ」


「寒いだけで、椅子が凍るかよ!」


「悔しいに決まっている!」


「なら俺と同じだ!」


 王が涙を拭う。その手を見ているうちに、俺も目尻を拭っている。負けた日の顔なら、よく知っている。二十年、鏡の中で嫌というほど見てきた顔だ。目をそらしたところで、次は勝ちたいという思いまでは消えてくれない。拭いながら、口の端が勝手に上がる。


「笑うな。吾は、本気で……」


「がっは! 負け惜しみまでで一試合だ!」


 王の口元が、こらえきれないように緩む。そこへ牛頭王が角を揺らし、指を突きつける。


「泣いておる」


「吾の椅子の下を見るな!」


「余は椅子ごと泣いたぞ! 隠すな、仲間であろう!」


「……そなたと一緒にするな」


 牛頭王が机を抱えたまま、椅子の下を覗き込む。大きな頭を傾けるせいで、角まで床に近づいていく。


「余の机も並べてやろう。凍るか試すぞ!」


「ならば近づけるな!」


 鷹城が黙って看板を裏返す。せっかくの金の縁取りはそのままに、中身だけが白くなる。その横から牛頭王が身を乗り出し、返しモニタには客の書き込みが流れる。


《顔より床が正直》


 白霜王が立ち、俺へ手を差し出す。触れた指は冷たい。それでも、さっきより少しだけ温かく感じる。


「もう一回だ。次は吾が笑う」


「よし! その顔を見せに来い!」


       ◇


 七日目、北米の北辺へ渡り、車で双子の門へ。門は二つの大陸を背中合わせにつないでいる。門前の谷から吹き下ろす風が、服の裾を引っ張る。放送席の鷹城に呼び止められ、俺は足を止めた。


「前の勝負も、示し合わせた可能性があります」


「だったら、目をそらさず見ろ!」


 俺は腕相撲の台に手を置く。冷えた金属が掌に張りつく。さっきまで肌を刺していた風が、急に遠くなる。


「握力の数字は互角です。技など誤差です」


「俺の二十年を、握力の数字で片づけるな!」


 放送席を睨む。台に置いた指先へ、知らず力がこもっていく。鷹城は眉一つ動かさず、その台の下を指す。


「画角の外で誰かが台を傾けているのでしょう。全身と台の下を映せば分かります」


「映せ! 全部映して、技だと分かるまで見ろ!」


 鷹城が検分のために席を立つ。背を向けかけて、一言だけこちらへ投げた。


「結果を出せば、呼び方も決まります」


「俺は権田力也だ。選手の名前で呼んでくれ!」


 声が門前の広場に響く。返事はない。言い終えた口の中に、乾いた感触だけが残る。代わりに、双腕王が両腕を突き出してきた。赤褐色の毛が、二本の腕で逆立っている。


「右か左か、まだ決まらねえ!」


「どっちも捨てがたい腕だな!」


「左は長い。右は太い。おまえならどっちだ?」


「勝つほうだ!」


 そう答えた俺まで、交互に見比べてしまう。長い左と、太い右。見れば見るほど、握った感触を確かめたくなる。検分に立ったはずの鷹城も、いつの間にか覗き込んでいる。


「右だ。いや、左も……」


「よし、右だ! 俺様が決めた!」


「クラン長、今の、相談に乗ってたっす!」


「違います。比較の話です」


 係が右腕と〈握手〉の使用を確認する。俺は王の選んだ腕を見てから、カメラへ顔を向ける。


「全身も両腕も、台の周りも下も映せ。始めから降参まで、一度も切るな!」


「……画角は確認しました」


 鷹城は席へ戻らず、立ったまま腕を組む。今度はその目の前で、最初から最後まで見せられる。


「受けるぜ。左なら勝てたって、あとで思いそうだぜ」


「言い訳は聞く。まず肘をつけ!」


 台と足場を合わせ、握って、合図。太い指に包まれ、俺の手が小さく感じる。けれど、握った内側の感触は逃さない。手首を内へ巻き、腕を近づける。王の右腕が、俺の胸の前まで寄ってくる。


「参ったぜ!」


 甲がつく前に離す。双腕王は負けた右腕を、左手でそっと撫でる。その左手が目元へ上がり、こぼれた涙を拭った。


「俺様が選んだ腕だ。こいつのせいじゃねえ!」


「そうだ! 俺はお前と勝負したんだ!」


「もう一回だぜ。右でな!」


「その返事が聞きたかった!」


 係の記録を受け、俺は南米の港へ門を開く。吹き抜ける風の先に、次の土地の光が見える。


 門を挟んで、二大陸の探索者が同じ拠点に道具を並べる。


 返しモニタで、開始から降参までを見返す。台には誰も触れていない。握った手の中で俺の手首が内へ巻く、その動きだけが大きく映る。見てほしかったところが、今度は画面の真ん中にある。


《台に誰も触ってない》《手首で勝った。これが競技の技か!》


 勝者インタビューの席へ行くと、鷹城の椅子に角がある。牛頭王が机の上で肘をつき、すっかり司会の顔で待ち構えている。


「台には誰も触れておらぬ。客も手首を見ておるぞ!」


「俺が見せたかったのは、それだ!」


「では聞く。余に勝ったときと、今と、どちらが嬉しい!」


「どっちも最高だ! 次の質問!」


 角が、弾むように揺れる。


「では次だ。鷹城の椅子は座り心地がよいか!」


「知らねえよ、座ってんのはお前だろ!」


 戻ってきた鷹城は、立ったままだ。自分の椅子なのに、座る場所がない。机に肘をついた牛頭王の質問は、まだ続く。


       ◇


 九日目。南米の港へ渡り、協会の車で総門へ。海に面した総門に、潮風がまっすぐ吹きつける。唇に触れる空気まで塩辛い。放送席にはマイクを手にした鷹城。その隣から牛頭王、鋼鎧王、白霜王、双腕王の順に並ぶ。係に招かれ、俺が開いた門を通って来た敗者たちだ。机も鎧も、そのまま持ち込んでいる。どの腕を見ても、握ったときの感触が掌によみがえる。


 白銀のたてがみを風に揺らし、総主がゆっくりと進んでくる。紫の目が敗者の席を一周する。牛頭王を先頭に、声が飛ぶ。


「こいつは強いぞ」


「飾りを褒めて油断させるのである!」


「……椅子の下まで見られる」


「腕まで選ばせてくれるぜ!」


「最後まで聞け! ……聞いたら、怖くなったではないか!」


 総主が足を止める。腕相撲の椅子を覗き込むと、白銀のたてがみが座面へ垂れかかった。


「本王の椅子が低かった、ということにはできぬか?」


「今、直そう。足はつくか?」


 係が足場を直す。海風の音に、足場を動かす音が重なる。


「直してしまったら……負けた理由が残らぬ」


「勝負した理由なら残るだろ!」


 総主が敗者の席を見る。四体の王が、揃って頷く。その返事を見届けるように、紫の目が席の上に留まっている。


「負けたら王ではなくなる」


「負けてもお前の席はある!」


 俺も隣を指す。牛頭王が机を叩き、大きな身体をずらして席を空ける。机を叩く音が、向こうの席まで響いた。


「余の隣だ! 机は貸してやらぬがな!」


「机なら、余った台がある!」


 総主の返事を待つ。空いた席を指した手は、下ろさない。勝負が終われば用済み、なんて場所にしたくない。俺だって、手を離したあとまで覚えていてほしかった。


「本王が負けた後も、挑みに来るか?」


「お前が肘をつけるなら、何度でも!」


 総主が笑い、右腕を差し出す。風に流れたたてがみの向こうで、俺の握る掌が開いている。


「ならば受けよう。負けた時の話は、先に聞いておけ」


「言い訳は聞く。まず肘をつけ!」


 係が記録板を開く。俺は差し出された手を前に、係の告げる条件を聞く。


「賭けるのは総門の開放と、全門の自由往来の恒久化。すでに得た門と王位は賭けず、往来には誰の許可も要らなくします。再戦で権利は戻りません。右腕と〈握手〉の使用。総主、挑戦者、承諾ですか?」


「承諾する」


「承諾だ。早く握らせろ!」


 握る。総主の掌は乾いて温かい。風の音を聞きながら、合図を待つ。合図の瞬間、俺は押し始める。王の腕が傾く。力が並んでいても、動き出す瞬間は自分でつかむしかない。始めが遅れた腕は、もう追いつかない。


「参った。もう一回なら、王のまま受けてもらえるか?」


 甲がつく前に離す。総主は涙を拭いながら、負けた台を睨んでいる。頬を濡らしたままでも、目は台から離れない。


「もちろんだ。隣、空けてもらえ!」


 係が記録を確かめる。五戦五勝。開いた掌をそのままに、その声を待つ。


「五門の自由往来を、恒久の権利として記録しました」


 総門が開く。向こうに広がったアフリカの海岸から、客が駆けてくる。潮風に砂の匂いが混じり、近づく足音が門のこちらまで届く。


 俺を晒したクラン長の解説だけが、試合のたびに信用を失っていく。


 鷹城には、もう予想を述べる出番もない。放送席を離れ、マイクを持って表彰台へ歩いてくる。協会集計の全中継の同時視聴者数は、百万人。


「権田選手、表彰台へどうぞ」


 放送席の部下が、身を乗り出す。


「クラン長、いま、名前で……」


「進行です。黙りなさい」


 前へ出る。膝が少し重い。呼ばれた声が、まだ耳の奥に残っている。返しモニタへ目を向けると、流れる書き込みの中に、俺の名前が見えた。


《東の門で名前を覚えて帰った者です。今日は総門へ応援に来ました、権田選手!》


「……俺の名前、覚えて帰ってくれたのかよ」


 客と画面へ向けた声が、途中で途切れる。続きを出そうとしても、喉がうまく開かない。牛頭王が俺を見て、口を閉じる。俺は目元を押さえ、頷く。画面の文字が滲んでも、もう読み違えようがない。あの日の勝負を、名前ごと持ち帰ってくれた人がいる。二十年、ずっとこれが欲しかった。


「泣いておる」


「見んな! 今は、顔を見んな!」


 牛頭王が机を抱え直す。涙をこぼしたあの机の上から、金色の目がこちらを覗く。


「もう一回」


「よし、牛頭王! 机は置け。何度でも相手になるぞ!」



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