世界の中心で愛知を叫んだケモノ
世界の中心で愛知を叫んだケモノ
織田信長の草履取りから始まり、最後に天下人へと昇りつめた豊臣秀吉の人生は、戦国時代最高のサクセスストーリーである。
秀吉のもつ極大のカリスマ、けばけばしいまでの華麗さ、気宇壮大な奔放さは、今なお日本の歴史に燦然とした輝きを放ち、その生き様は現代の人々をも惹きつけてやまない。
その本質は、幼児のような無邪気さだと筆者は考える。
秀吉はありとあらゆる我儘を押し通し、捏ねられるだけの駄々をこね、自分の思い通りにならなければ、日本の文化史に不滅の足跡を残した千利休でさえ切腹させた。
まさに天衣無縫の境地であり、極限の無法であり、秀吉は、議論の余地なく覇王だった。
このようなスケールを持つ人物は、世界史においてさえ、唐の国の始皇帝か、古代マケドニアのアレキサンドロス大王ぐらいしかいない。
そのため、秀吉没後も200余年にわたって続く豊臣の天下を作ったのが、秀吉の甥っ子である豊臣秀次の功績であることは衆目一致するところである。
天下をとることと、それを維持することは、全く別の才能が必要だった。
豊臣関白二代目「豊臣秀次」の生年は、通説では永禄11年(1568年)となっている。
秀次の生家は、尾張中村の貧農であり、子が生まれた日について詳しい記録を残しておく余裕がなかった。
百姓としての名は、治兵衛である。
秀次が生まれた時点で、叔父の秀吉は木下藤吉郎を名乗っていた。
当時の秀吉は、織田信長の美濃侵攻で功績を挙げ、これから足利義昭を奉じて上洛を図る信長に仕えた有力武将の一人だった。
秀吉の立身出世に伴って秀次を取り巻く状況は目まぐるしく変わっていった。
上洛を果たした信長を浅井長政が裏切ると浅井攻めが始まり、秀吉は浅井家臣の宮部継潤を調略するため、人質として4歳の秀次を差し出した。
名目上は宮部継潤の養子で、秀次は名を宮部吉継に改める。
ちなみに戦国時代の人質は基本的に死役であり、約定に裏切りがあれば容赦なく処分(殺害)される役柄だった。
裏切る側も人質は死んだものとして扱う。
姉夫婦から四歳の子供を取り上げ、容赦なく人質に差し出すあたり、極道の極みである。
勘違いしてはいけないのは、極道より先に武士道があり、極道は武士道の模造品であって、戦国時代の武士は概ねそういうものだったということである。
叔父の野心のために容赦なく親元から離され、死地に放り込まれた秀次であったが、宮部家での生活は悪いものではなかった。
人質といっても、当主の養子扱いであり、粗略に扱えば家の品格を疑われる。
また、貧農の子から武家の子になったことで、秀次の待遇は劇的によくなった。
近現代以前の貧農の生活はおよそ非人間的な労働の連続である。
秀次は死地に放り込まれて初めて人がましい生活を得た、といってもよかった。
こうした体験は、秀次の人生に大きな影響を与え、人質生活を終えた後も、秀次は敢えて宮部姓を使い続けた。
羽柴を名乗らないことについて秀次は、
「育ての親に対して不義理となる」
と述べて秀吉を感心させた。
この件は講談や浪曲に取り上げられ、秀次の人情に厚く、義理堅い性格を後の世に伝えることになった。
ただし、歴史研究では秀次の処世術だったと指摘されている。
というのも、実子に恵まれず縁者も乏しい秀吉にとって数少ない親類の年長者である秀次は、有力な後継者候補となる。
周辺も自然とそのような見方をすることになったが、秀次は意図的にそうした見方をされることを避けようとする節があった。
立身出世街道を駆け上がる秀吉の後継者となれば栄達への道は約束されたも同然である。
ただし、それは秀吉に実子が生まれないという但し書きがつく。
養子を迎えたあとで実子が生まれ、お家騒動に発展した例は数多い。
秀次が秀吉の後継者と見なされることに身の危険を感じていたのは確実である。
当時としても秀次の秀吉に対する遠慮や追従は卑屈と評されるほどだった。
季節の挨拶には欠かさず非常に高価な煙草(葉巻)を秀吉に贈っていた。
秀吉の趣味は煙管で、秀次がルソンから取り寄せた煙草(葉巻)を大いに気に入り、健康を害するほど愛煙したとされる。
また、秀次は秀吉に取り入るために様々な高級食材を贈った結果、秀吉の食道楽は現代の基準からしても常軌を逸したものとなっていった。
秀吉は上越地方で今も愛食されている塩の塊のような鮭の塩漬けを肴に大量の炭水化物を摂取して、満腹と高血糖で酩酊状態となることを
「至る」
と称して究極の美食扱いとし、石田三成にも陪食を強要して昏倒させている。
これは現代であっても一部の特殊なOL以外では危険な食生活であり、これを以て秀次が生活習慣病を利用して秀吉暗殺を企てていたという意見もある。ただし、俗説の域をでるものではない。
歴史のうねりは秀次の意思とは関係なく、彼を豊臣政権の中心へと押し上げていくことになった。
その決定的な一打となったのが小牧長久手の戦い(天正12年(1584年))である。
本能寺の変、清須会議、賤ケ岳の戦いを経て、天下人への道をひた走る秀吉は、同じく信長亡きあとに大勢力を築くことになった徳川家康との直接対決を迎えた。
小牧長久手の戦いは前哨戦を除けば動きが小さく、小牧山に陣取る徳川家康・織田信雄連合軍と秀吉軍が対峙する持久戦となった。
小牧山は濃尾平野の北部にある孤山であり、小牧山を制することは、軍事的に極めて重要だった。
小牧山から南側には全く山岳がなく、熱田の海岸線まで一望に収められることを考えれば、目視以外の軍事情報収集手段がない中世においては小牧山は制するものが濃尾平野を制するといっても過言ではない。
そのため、小牧山を囲んだ秀吉軍の動きは徳川軍に筒抜けだった。
膠着状態を打開するため、中入り(別動隊の編成)を主張する秀吉に秀次が反対意見を述べたのは常識的な発想である。
ただし、最終的には膠着状態に焦る秀吉に押し切られ、別動隊を秀次が率いる形となった。
秀次の懸念は現実のものとなり、長久手で秀次勢と徳川勢が激突することになった。
この時、徳川勢は先遣隊の池田恒興や森長可の軍勢を迂回して、秀次本隊を急襲する形となった。
徳川家康の狙いは各個撃破にあった。
家康は秀次勢の行軍状況も正確に把握しており、休息中の軍勢を背後から奇襲する目算だったと言われている。
ただし、慎重な秀次は多数の斥候を準備しており、徳川勢の接近を察知して待ち構えていた。
そのため、戦闘は正面からの激突となり、一進一退の攻防になった。
長久手の戦いは、払暁奇襲を狙った徳川勢の急襲に始まり、終わったのは日暮れ後だったことが判明している。
戦闘が長期化したのは、徳川勢の急襲を察知した秀次が防衛陣地を急造していたことが大きい。
長久手の戦いを描いた屏風絵などにその様子が描写されており、馬防柵や逆茂木の設置、土塁といった野戦築城をはっきりと見てとることができる。
急造品であったとしても、これらの防衛設備は徳川勢の猛攻を跳ね返す原動力となったと思われる。
こうした防備は事前の入念な準備がなければ不可能で、秀次は札の読みあいで練達者の家康を上回ったと表現できるだろう。
ただし、池田勢、森勢が救援に駆け付けた時点で、秀次勢はほぼ壊滅状態に追い込まれているので、決して楽な戦をしていたわけではない。
ちなみに秀次の窮地を救った池田恒興は織田信長の乳母兄弟、森長可は鬼武蔵の異名をとる狂猛な人物で、戦国時代の常識に照らし合わせても殺人狂という他ない逸話が知られている。
ただし、弟の森蘭丸と共に信長からは寵愛された。
溺愛だったと言っても過言ではない。
そのため、本能寺の変で信長と弟の蘭丸を失うと長可は狂乱し、精神の平衡を保つために深酒となり、長久手の戦いでも泥酔状態で戦闘に及んだと言われている。
殺人狂に命を救われた秀次は、以後、彼に頭が上がらなくなり、長可が問題を起こすたびに代わって謝罪する羽目になった。
命が助かった代わりに一生続く厄介ごとを抱え込んだと言えるだろう。
その関係性は秀次が天下人になった後も続いた。
ただし、長可と秀次の関係は至って良好なものだったとされる。
それはさておき、長久手の戦いは、損害そのものは秀次勢の大きく、戦術的には引き分けか、家康の判定勝利と言える結果であった。
しかし、秀吉の甥という以外にこれといって実績もない無名の16歳の青年に率いられた軍勢が、東海道一の弓取と謳われた徳川家康と互角に戦って、引き分けに持ち込んだことは大金星という他ない。
家康にとっては、勝てなかったことそのものが敗北だったと言える。
秀次や他の主だった侍大将も討ち取ることもできず、兵力を無駄に損耗しただけだった。
もとから国力は畿内を抑えている秀吉が優位であり、時間経過でジリ貧になるのは目に見えていた。
大戦略が分かっていた家康にとって、小牧・長久手の戦いは秀吉に自分をできるだけ高く売るための条件闘争であり、引き分けでは意味がなかった。
これ以上の高値売りは不可能と判断した家康は同盟者の織田信雄を見捨てる形で小牧山から退去し、孤立した信雄は秀吉に謝罪(降伏)することで秀吉の勝利に終わった。
当然、勲功第一位は秀次となり、岐阜・尾張に広がる大領を得て、秀吉の後継者レースにおいてトップの座に立つことになった。
秀吉に勝利を譲って貸しを作った家康は実子を人質(於義丸、後の結城秀康)に差し出して、本領安堵を条件に秀吉へ臣従した。
東の安定を得た秀吉は、西国平定に乗り出し、紀州平定、四国平定を成功させる。
そして、天正13年(1585年)には関白宣下を受け、翌年には後陽成天皇から豊臣の姓を賜り、太政大臣となって政権を確立することになった。
平行して秀吉は九州平定にも乗り出し、追い詰められた大友家を助ける形で10万の大軍を派遣して島津征伐を実施した。
この時、秀次は秀吉の代理として総大将を任されている。
秀吉としては未来の後継者に箔をつけるという意味があった。
九州の南半分を支配する鬼島津を討伐したという箔である。
秀次は征伐軍編成のための時間稼ぎとして、豊後の守りを固めるため、養父の宮部継潤を主将とする先遣隊を派遣している。
先遣隊の主将に仙石秀久を推す意見もあったが、秀次がこれを退けての人選だった。
仙石は力攻めを好むため守勢の戦いには不向きという判断だったとされる。
養父の宮部は秀次の期待に応えて、本隊の編成まで島津の攻勢から豊後を守りとおした。
天正15年(1587年)には万全の準備を整えた九州平定軍(10万)が北九州、四国方面の二方向から南下して、圧倒的な物量作戦で島津勢を轢殺して九州平定は終わった。
大軍に兵法はないとされるが、大軍を無難に使うこと自体が一つの兵法という場合もある。
実際、この時代に無難に10万規模の大軍を指揮できるということだけでも、既に非凡と言える才能である。
戦後処理のため博多で秀吉を出迎えた秀次は、長崎がイエズス会の教会領となっていることや奴隷貿易の実態を秀吉に報告した。
これは秀吉を激怒させ、バテレン追放令が出されることになった。
なお、秀吉のバテレン追放令は不徹底なもので、追放令後も身分を隠した状態でイエズス会の宣教師の来日は続いた。
布教活動についても概ね黙認された。
当時の日本は鉄砲に使用する火薬の原料である硝石を自給できず、南蛮貿易による輸入に頼っており、商業目的を標榜して来日する外国人を完全排除することは軍事戦略的に不可能だった。
日本人を商品とした奴隷貿易についても九州の大名が硝石輸入のための資金集めのために行っているのが実情で、スペインやポルトガルなどの外国勢力に全責任を負わせるのは公平とは言えない。
しかし、宣教師の後に軍隊を送り込み、広大な植民地帝国を築き上げたスペインの歴史を鑑みれば、秀吉の反応は誤りとも言えない。
戦後処理を終えた秀吉は帰京し、天正16年(1588年)に聚楽第にて後陽成天皇を迎え華々しく饗応し、徳川家康ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。
これが天皇の代理人として、位人臣を極めた秀吉の絶頂期だった。
慶事は続き、翌年には側室の淀君の間に嫡男の鶴松が誕生した。
ただし、これは秀吉の後継者筆頭候補であった秀次にとり、凶事と言えた。
秀吉は漸く得た実子を後継者に指名したため、秀次との関係は微妙になった。
同年、小田原征伐に乗り出した秀吉は、大軍で小田原城を囲んで後北条氏を降伏させると空国となった関八州の国主に秀次を任命している。
秀次が得た領地は250万石を超え、秀吉の直轄領に匹敵する規模となった。
ただし、当時の認識では、日本国の中心は京にあり、畿内から遠く離れた関東国替えは左遷扱いだった。
また、新領地は後北条氏の残党が一揆を扇動しており、税率も後北条時代から四公六民と低く抑えられていたことから無暗に上げることもできず、表向きほど豊かな税収が得られるわけではない。
秀吉が本拠地に指定した江戸は、太田道灌が構えた小城があるに過ぎず、周辺は湿地や海水の入る干潟が広がる僻地で、殆ど嫌がらせのようなものだった。
実子の誕生で厄介になった有能な甥を遠い関東へ追放したというのが実態と言える。
同時代を生きた大名や公家も、秀次の関東下向を追放と捉えて哀れに思う心情を日記に残していることが多い。
ただし、秀次自身は関東下向を殊の外喜んでいたことが様々な文献資料が伺うことが可能で、本人はむしろ清々したと表現できるほどであった。
秀次の関東入封は、天正18年(1590年)のことだった。
江戸城に入った秀次は、江戸を愛知と改称した。
愛知の由来は秀次が明言していないため定かではない。
江戸周辺の干潟が豊かな漁場で以前から年魚市潟と呼ばれていたという説や愛染明王からとられた説が有力視されている。
なお、新しい領主が自身の支配権を示すために地名を改称することは珍しいことではなく、斎藤氏から奪った美濃を岐阜に改めた信長や本願寺勢力を追放した石山を大坂に改めた秀吉の先例がある。
さらに関東豊臣家の本拠地として江戸城も改名され、その名を名古屋城とした。
これもまた由来は定かではない。
秀次に故郷である尾張の那古野にちなんだという説や和やかな場所=平和という意味を込めて名古屋とした説もある。
秀次は名古屋城改築と並行して今日まで続く名古屋の町並みを整備した。
防火帯も兼ねた一町広路を定めたのも秀次である。
一町の広さはおよそ100mで、現代では100m道路と呼ばれている。
一町広路は日本橋を起点に東西南北に8本が整備され、幾度となく名古屋の町並みを大火から救うことになった。
広路の中心部には憩いの場として緑地帯(公園)が整備された。
日本の都市計画に公園という概念が導入されたのはこれが初のことである。
現存する日本最古の都市公園として、久屋大通公園もこの時に造られた。
海の玄関口として名古屋港が整備されたが、これは内航路用であり海外との貿易には、横浜港が開かれた。
横浜は後背地の山地によって陸からの風が遮られることから帆船の停泊地に適していたのである。
横浜の向こうには横須賀があり、秀次はそこに日本初の海軍鎮守府(天正18年(1590年))を設置した。
海軍という言葉が日本の公的文書に現れるのはこの時である。
これを以て、後の世の人々は秀次を日本海軍の開祖と称えることになった。
秀次以前の日本には海軍という言葉はなく、水軍とされていた。
海軍という言葉について秀次は、
「陸の見えるところで戦うのが水軍、見えないところで戦うのが海軍」
と明確に定義している。
日本で洋式帆船が初めて建造されたのも横須賀で、中日丸(80トン)が完成したのは天正20年(1592年)のことである。
ただし、中日丸は座礁したポルトガルの商船(ヂア・インテルメヂアリオ号)を回収して再生建造したもので純国産船ではないという意見もある。
そのため、本当の日本純国産洋式帆船としては、文禄3年(1594年)に完成した竜勝丸(120トン)とする場合がある。
さて、秀次が築いた名古屋城は、安土・桃山時代の城郭建築としては最も優れたものであり、戦闘要塞として規模は秀吉の大坂城を上回るものとなった。
城郭建築に高石垣を採用したのも名古屋城からである。
ただし、天守閣は秀吉に遠慮して4層天守となっている。
新造時の名古屋城天守閣は銅葺きの屋根を持ち、最上段には豊臣家の財力を示すシンボルとして黄金の鯱を設えていた。
現代では銅が酸化によって緑色に変化しているが、当初は赤銅であり、黒塗りの壁には赤い漆の装飾を施し、天守には黄金の鯱が鎮座するというど派手な城だった。
秀次が起居する本丸御殿も秀吉好みの金箔装飾を多用した絢爛豪華なものであり、現代では名古屋城天守閣と共に国宝に指定されている。
鯱と本丸御殿に使用された金の総量は5トンにも達する。
侘び茶道を創始した千利休は、名古屋城に茶の湯指導に召し出された際に、黄金趣味に気分を害して途中で退席したことを咎められ、美意識の違いから秀吉と衝突して最終的に切腹して果てた。
秀次に接見したイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは名古屋城を一言で黄金宮と表現している。
名古屋城を見た大名たちは豊臣家の財力を畏怖する共に秀吉へのあからさまな忖度・追従に呆れ果てた。
秀次は関東下向後も秀吉への遠慮を欠かさず、築城を介して秀吉への絶対的な忠誠を表明したと言えるだろう。
ただし、能や茶の湯といった芸術に一言も、二言もあった秀吉は自分好みに仕上がった名古屋城を殊の外喜び、秀次への警戒を緩めたとされる。
特に黄金の便器を大いに気に入り、同じものを自分用に造らせた。
関東入封後によって秀吉と秀次の関係は一時的に安定したが、その後にも紆余曲折があった。
天正19年(1591年)に秀吉は鶴松を失い、豊臣家が再び後継者不在となったためである。
しかし、秀吉は秀次を呼び戻すことはなく、羽柴秀勝を後継者に据えた。
軍歴を重ね政治手腕もある秀次ではなく、敢えて経験不足の秀勝を後継者に据えるあたり、秀吉の秀次に対する警戒心を読み取ることができる。
この時点で、豊臣家には他の後継者候補として羽柴秀俊(後の小早川秀秋)がいた。
秀吉から後継者候補に据えられた二人だったが、その未来は暗いものだった。
秀勝は、秀吉の個人的な野心から始まった唐入り(文禄の役)において総大将として朝鮮半島に渡海し、その地で急死することになった。
日本軍は総大将不在となったが、黒田官兵衛が事態を収拾させ、朝鮮の防衛体制の不備もあって、破竹の勢いで進撃した。
最終的に日本軍は平壌を占領し、鴨緑江まで攻めあがったが、明軍が参戦すると雲行きが怪しくなった。
戦争が膠着状態となる中で、淀君が生んだ第2子が捨丸だった。
捨丸とは、捨て子はよく育つという民間信仰に基づく命名である。
中世の乳幼児死亡率は極めて高く、七つまでは神のうち(すぐ神の元へ召される)と言われるほどだった。
捨て子がよく育つのも、親から捨てられたことで神の目から逃れられるという俗信である。
秀吉は愛息を守るため、敢えて城内に実子を捨て、家臣に拾わせるという一芝居まで打ったほどだった。
神を欺くという左道に手を染めた秀吉にとって、繰り上がりで後継者となった秀俊を小早川家へ養子に追いやることなど造作もないことだった。
粛清しないだけまだ理性ある対応だったとさえ言える。
秀吉は捨丸を溺愛し、自身の一切を愛息に継承させようとした。
個人的な野心で始めた対外戦争(文禄の役)も手仕舞いにした。
個人独裁の色彩が強かった秀吉政権が、政治機構の整備に着手するのも捨丸誕生の後のことである。
自身の衰えを自覚していた秀吉からの幼い我が子へ権力継承を確実なものとするための措置だった。
問題は一切を受け継ぐべき愛息が1歳の誕生日を迎える前に、神のうちへと旅立ったことだろう。
死因は病死だった。
秀吉は狂乱し、茫然自失となって政務が不可能になった。さらに現代でいうところの生活習慣病(糖尿病)も発症していたとされる。
そのため、秀吉正室のねね(北政所)の命令で、関東から秀次が呼び戻された。
もはや豊臣家には代わりとなる人物は一人しかいなかった。
秀次の手腕によって国政の混乱は急速に終息することになる。
多くの諸大名や豊臣家家臣にとっては、ようやく収まるべきものが収まるところに収まったというところだった。
秀吉子飼いで忠臣の石田三成でさえ、
「当初より、この如くせば(最初からこうしておけばよかった)」
と日記に書き残しているほどである。
秀吉は関白を辞して太閤となり、秀次が2代目武家関白に就任した。
時に文禄4年(1595年)7月15日のことである。
なお、本書では捨丸は病死としているが、書籍によっては事故死と記述する場合がある。
理由は、捨丸の死因が乳児ボツリヌス症の可能性が高いためである。
乳児ボツリヌス症は、蜂蜜などを摂取することで取り込まれたボツリヌス菌が腸内で繁殖して毒素を出すことで死に至る病である。
そのため、現代では乳児に蜂蜜を与えることは禁忌事項とされている。
しかし、中世日本にはその知識はなく、蜂蜜は滋養分に富み、子供の好む甘味ということから権力者の子息への献上品として広く用いられた。
捨丸を死に至らしめた蜂蜜も叔父の秀次からの献上品という説がある。
秀次が乳児ボツリヌス症の存在を知っていて故意に蜂蜜を贈ったとすれば、非常にどす黒い話になる。
そのため、秀次による捨丸暗殺説が提唱されることになったが、蜂蜜を摂取したからといって必ず発症するわけではないので、暗殺説には無理があると言わざるを得ない。
また、乳児ボツリヌス症が広く知られ、公的機関によって禁忌事項とされたのは20世紀後半のことであり、安土桃山時代には思いもよらぬことだった。
それはさておき、愛息の死によって現実政治に興味を失った秀吉だったが、依然として軍権(統帥権)を掌握しており、秀次との二元体制となっていた。
晩年の秀吉は現実と妄想の境界が曖昧となり老害をまき散らしたが、その最たるものが慶長の役と言える。
再び、唐入り(中国征服)の妄想に取りつかれた秀吉は全国の大名に動員を命じた。
本人の希望は、自分が総大将として朝鮮半島に乗り込み、全軍を率いて北京にまで乗り込むか、それが果たされないのであれば討ち死にすることだった。
ある種の集団自殺、無理心中とも言えるかもしれない。
しかし、既に刀を持つことさえ危うくなっていた秀吉が軍を率いることは不可能で、関白の秀次が博多から全軍の指揮をとることになった。
日本軍の総兵力はおよそ25万で、渡海侵攻したのは12万だった。残りは本土に残って補充や兵站業務にあたることになった。
秀次はそのうちの半数に当たる6万を徳川家康に預けて朝鮮へ送り出した。
朝鮮半島への侵攻兵力としては前回(文禄の役)の半分であったが、兵力の大半が徳川勢か、その係累(結城秀康)となり、前回よりも軍としてまとまりがよかった。
秀次は前回の戦い(文禄の役)の反省として、諸侯連合軍の統制には面倒が多いとして、朝鮮半島を北上する主力軍に徳川勢を据えたのである。
また、東海道に広大な領土をもつ徳川家の力を削るという意味もあった。
残りの6万は二手に別れ、琉球、台湾へ同時侵攻した。
琉球侵攻は薩摩勢と台湾侵攻には秀吉子飼いの加藤清正・福島正則を充てている。
こちらは殆ど抵抗もなく、短期間で制圧に成功した。
明は日本軍が前回と同様に陸(朝鮮半島)を渡って本土へ侵攻すると予想しており、琉球、台湾への上陸は予想外の事態だった。
さらに秀次は確保した台湾から福島勢を江南に上陸させ、焼き働きを行わせた。
焼き働きとは、軍兵による放火、略奪のことである。
長江下流域沿岸の江南は河川交通で中国中の物産が集まる最も富裕な地域であり、これを狙わないという手はなかった。
ちなみにこの時、福島勢が略奪して秀吉に献上した戦利品には曜変天目茶碗があり、現在は国宝に指定されている。
本土への直接攻撃を受けた明は右往左往することになった。
通報を受けて明軍がかけつけたころには放火、略奪を終えた日本軍は船で移動しており徒労に終わるばかりか、守りを固めたとして日本軍は防備が硬い場所を避けて放火、略奪を繰り返した。
福島正則は秀次に宛てた書状の中で、
「今日よりは 日々に家宅を 焼き尽くさむ」
と述べて、獲得した膨大な略奪品(人間を含む)を本土へ移送した。
上陸襲撃を繰り返す日本軍について、明の史書はまるで北方騎馬民族のようだったと記している。
たしかに日本人とモンゴル人は容姿が似ているので、そのような印象を受けても不思議ではない。
ただし、成吉思汗は馬に乗って攻めてきたが、日本人は船に乗って攻め来た。
このような攻勢が可能となったのは、秀次が建設した豊臣海軍が一応の形になっていたことを示している。
もちろん、軍船の全てが洋式帆船で固められていたわけではなく、時期的には和船の方が圧倒的に多かった。
しかし、軍の質はそれまで日本国内の陸戦における補完戦力でしかなかった水軍とは全く異なる次元の存在となっていた。
秀次は、日本の軍事史において、「海軍」というものを使った戦争のあり方を示した最初の人物であると言えるだろう。
また、日本軍は直轄の海軍兵力の他に私掠船御免状を発給して国内で燻っていた海賊衆を積極的に動員した。
私掠船御免状とは、国家公認の略奪/殺人許可証である。
発給を受けるには上納金を納める必要はあったが、私掠船御免状は秀吉の海賊禁止令以後、下火になっていた日本の海賊勢力を復興させることになった。
日本の海賊衆は遠く海南島や北京の海の玄関口である天津にさえ出没した。
本土への直接攻撃を受けた明は、朝鮮半島への派遣兵力を沿岸防備に振り向けた。
そのような手抜かりを歴戦の名将である徳川家康が見逃すはずもなく、徳川勢は明軍を撃破して漢城を陥落させた。
時に慶長3年(1598年)7月のことである。
日本軍は台湾・琉球を掌握して中国沿岸の広い範囲に脅威を与え、朝鮮の首都漢城を占領して、大坂城に山のように戦利品を積み上げた。
しかし、秀吉の命脈は既に尽きていた。
慶長3年8月18日、豊臣秀吉は大坂城で波乱の生涯を終えた。
今の際のうわ言が記録に残っており、秀吉は軍を率いて明を滅ぼし、北京の王宮で後陽成天皇を饗応する夢を見ていたとされる。
遺言として自分が死んだ後も唐入りを続けるように繰り返し念押していた。
なお、秀次は躊躇なく遺言を無視して、朝鮮半島から全軍を撤退させた。
ただし、体裁として唐入りは一時中止という形式を整えている。
そのため歴代の豊臣関白は毎年正月の年中行事として家臣から唐入伺いの儀を行う羽目になった。
唐入り伺いの儀とは、家臣が唐入り再開の伺いをたて、関白が「未だ時期尚早」と回答するというノイローゼになりそうな行事である。
ただし、琉球、台湾はそのまま軍事占領を続け、私掠船御免状も継続して発給したので、中国沿岸では日本軍と明軍の紛争が続くことになる。
秀次は朝鮮半島の占領地をあっさりと手放したことを批判されたが、渡海した多くの大名はこの措置を合理的なものとみなした。
朝鮮半島があまりにも貧しく、封土として得ても何の旨味もない土地であることを実地で学んでいたためである。
戦争を起こした秀吉も朝鮮半島の征服には興味がなく、明への通り道程度にしか考えていなかった。
ただし、そこに住む朝鮮王国の人々にとっては異なり、漢城無血開城を条件とした裏取引によって朝鮮軍が内通したことにより、日本軍は明軍から追撃を受けることなく撤退することができた。
朝鮮半島からの全軍撤退は同年11月までに完了し、博多で秀次は盛大な慰労会を催した。
これは秀吉の葬式を兼ねていた。
秀吉は没後、朝廷から正一位の神階と「豊国大明神」の神号が与えられ神となったため通常の”葬儀”が行われなかったためである。
翌、慶長4年(1599年)1月に秀次は愛知の名古屋城にて慶長の役に対する論功行賞を行った。
論功行賞を与える、授かるということは、鎌倉の代から武士にとって御恩と奉公という主従関係を規定する行為である。
これによって豊臣秀次政権が正式に発足することになった。
以後、全国の大名は名古屋に妻子を人質として集住させることとなり、政治の中心は大坂から名古屋へと移った。
そのため、日本史において以後の時代区分を愛知時代と称することになる。




