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第二十二話「準備確認は忘れずに!!」



「■■■■…………、これは、なにが」


 戦場において、数多くの魔法をその身に刻まれた英雄が立ち尽くす。

 一呼吸の間に優先事項を把握。

 アリスはまだ間に合う。

 この鉄箱がいつ来ても、恐らくは寸前で切り伏せることができる。


 …………ただ、この感覚は、なんだ。


 天に浮かぶ黒い天体を想像させられた。


 まるで、現実でも見たような錯覚。

 

 雪でもない紙でもない空白に埋もれた世界。

 部屋にいたことなんて忘れて、自分がちっぽけな存在なのだと思い知る。


 そうして気づいた。


 あれは星ではない。


 瞳である。ぎょろぎょろと瞳孔を動かすことなく、ただ我が主のみを映し出す魔眼。

 本能が受け取った景色は不理解と平穏なる矛盾を打ちとめてくる。


 これが当たり前だというように。


 これが、普通なのだと。

 

 目の前にもがき苦しむ少年が繰り返した日々は、万に一つもない奇跡の産物だったのだと。


「やだ、なんで。こん、な。いやだ。だめだ」


 何千回とも否定を繰り返す息子は力の制御が追いついていないのか。

 誰かにこれを仕組まれたのか。

 考えうる限り最悪のパターンである“襲撃”という単語が脳髄を駆け巡る。


 そんなことよりも踏み込んだ。

 矢継ぎ早に生まれてくる邪推を殺してとにかくアリスを抱き抱える。

 何が正解択かしっかりと考えなければならないが、そんなの息子の様子を見ればわかる。


「うぁっ……………ぁ。は。あ。はア゛」

「アリスは無事だ!! 傷は深いが間に合う!! 一分以内に治療室で完治させる!! だから、」

「違う違うんです。出て、違うダメだダメ嫌だ。何も、嫌だ……やめろ考えるな考えるな考えるな考えるな…………!!!!」


 まるで自己暗示するように言葉を吐き出す息子だ。

 白く染まった髪を痛いほど掻きむしって、まつげに覆われた瞼から酷く流血していた。


 …………ああ。嫌になる。


 こんな状況でもわかる。


 これはできない。

 アリスを治すことはできるが、これはきっと時間がかかる。

 あの肉体はありえない速度で再生していた。

 魔法が発動された痕跡もない。無詠唱とは違う、世界がそのまま書き換えられた感じ。


 なにより、この静寂は息子が何かを抑え込んだ故の限られた刹那だ。


 何を守るためにこんなことをしているのか、なんて分かりきってる。

 金髪の少女はまともに思考すらできてない。


 小さな口から血を流して肩を震わしている。


 冷たい本能が息子を放置しておくのが最適解だと囁き出す。

 奥歯が欠けるほど強く噛み締めた。

 痛みに慣れていないアリスは必死に声を出さないで、涙を流しながら激痛に喘いでいる。


「「っ!!」」


 僕はアリスを抱き抱えて部屋を飛び出した。

 それと同時に、我慢できるはずもないと少年に駆け出したライオット。

 入れ替わるようにイレイナと鈴鹿とすれ違うも、視線を送ることすらできず通り抜けた。

 …………瞳孔を激しく揺らしていた二人にはわかってしまっただろうか。


「黒孔雀!! 羽だ!!」

 

 高速の風圧にアリスが苦しまぬように、黒い翼が廊下一様と生え揃う。

 まるで全ての衝撃が管理された薄暗い空間。

 必要な力と不必要な力を分別すると、一足で地下の治療室まで駆け込んだ。

 

 だが、やけに音だけは響く。


 それはアリスも同様だったのか、血で染まった使用人の服をぎゅっと握りしめていた。

 誰だって、大切な人がああなれば危険を冒してまで助けようとする。

 ここにいる皆なら尚更に、その傾向が強いと息子自身もわかっているから。


「出テ行けえ゛ッッ!!!!!!」


 扉の先へと突風が一直線に吹き起こる。

 少年に近づく者は例外なく部屋の外に叩き出され、壁に背中を激突させる。

 すると外壁として立ち塞がった長蛇の鎖。

 一方、シュレイドが囚われた牢屋にて番をする茶髪の男がタイマーをポケットに収めた。


「んじゃ、そろそろ俺らも行くか」


「…………魔女様曰く、【災禍】の精神が壊れるまで1日と少し。まだ猶予はあるけど…………」


「あーお前、作戦あんま聞いてなかったな? あと動かないとはいえ、シュレイドさんの前でそんなこと言わない。大事な人なんでしょうが」


「…………今からその人を殺しに行くのに?」


 別に殺すんじゃねえよ、と手袋を外した男。

 ネクタイを緩めて背を伸ばす。

 ここに収容されてる魔物たちの叫び声も、四六時中響いて体に悪いのだ。


「話し合いにいく。俺らの仲間にならないなってな。俺はちょーやだけどね」

「…………なんで?」

「長くなるぞ?」

「…………いい」

「そう? あれはいつか忘れたけど魔女様がほんっとに浮かれてた時があってな。

  そん時に落とされた日記を開いたんだが、わけわからん文字でいっぱいだった。でも猿でもわかる絵があったんだよ」


 その時の一枚が妙に頭から離れねーのだと、隣に座り込んだ少女へと頭を傾ける。

 すんと何を考えてるのかわからない表情だ。

 しかし、ダボダボの白衣に隠れた手足はなんだか放っておけなくてもどかしかった。


 ………………案外、肌寒いのだ、ここは。


 俺は脱いだ上着を手にぶらぶらさせて、立ち上がった少女と足を運び出す。


「今回自滅特攻したやついるだろ?

  万が一、【災禍】が後先考えず暴走した時に足止めする役目背負った奴。まあアイツは自分で【災禍】ぶっ殺そうとしてたけど」


「…………そう、なんだ?」


「ああ。んでこれ以上、“鎖で抑えてた記憶の反動”とやらを増やさない為に魔女様特製の黒騎士をぶつけた。

  “奴らの霧は万物に対し、原始的な死を呼び覚ます“。

  それが後十年ほど元気だった鎖を一度だけ腐らせた。あとは溜めてた水がどばーっ、だ。結果的に俺たちは攻めに出れる」


 けどこっからは時間の問題だ。

 なんてことをこぼしながらも、背後にて牢屋の砂に埋もれたシュレイドを振り返る。

 …………彼が人間としてあり続けられたのは、【災禍】がいてからこそだ。

 それは否定しないが、それ故に同情もしてしまう。



「アイツがまともに生きてたらな。本当に世界が滅ぶんだってさ」

 


 この星の叡智を授かった月の魔女が、一体何を見たのかはわからない。

 そもそも本当に落としたのか本人に返す前に丸3日ほど悩んだものだった。


 絵なんてただの嘘かもしれない。


 わかってる。

 それは希望的観測だ。あの日記の絵は遠からずも嘘ではないだろう。

 それは12年前にて身に染みているのだ。


「…………?」

「いや、あ。お前、さっきから俺の口みてなかったなー! 結構やばめのこと言ったのによぉぉ!!」

「…………見てた。今からそれを防ぎに行くのもわかってる」

「まじぃか。あー、そりゃ、悪かった」


 男は金髪の少女をチラチラ見ながら、上着をぶらぶらと上下させた。

 世界滅亡を防ぐ方法があるからなんとか安心できるにせよ。

 目の前の苦難はなかなかに度し難いのだ。


“………………”


 既に思考すらおぼつかないシュレイドの瞳から水のような何かがこぼれ落ちる。

 それは本人でさえもわからない。

 ただ、頭の中で輝いた少年の笑みだけが意識を保つ最後の綱だった。



 刻一刻と少年の体は組成から生まれ変わる。



 じくじくと繊細に分解される外皮の痛み、そこから連想する地獄絵図を心に浮かばないように何でもした。

 ベットは深く破れて中身の羽毛が露になっている。

 闘技場の優勝賞である剣を、壊れるまで容赦なく頭に打ち付けた。


 それでも、何もかも止まらない。


 金槌を振り下ろされたような絶え間ない頭痛。

 そこに存在している隙間の休息が、余計に次の痛みへの恐怖を駆り立ててくる。


「はあ、ぁ。はぁ、……ぁ"ぁ"ア"ア"ア"アアアアアアア…………ッッ」

 

 本当の、少年など誰も知らなかったのだ。

 そう皆が思った。

 こちらまで元気を貰った笑い声も、どんな子供より活発な姿勢も、そんな表面だけを見てその先のことは触れなかった。


『僕様は悪霊かもしんないかもかも…………』


 そんなことを告げてきた少年の顔をライオットは思い出す。

 今はもう声も形も何もかも手に取れない。

 窓も当然、天井からぶち抜いても鎖が新しい内側の壁となって塞がってしまう。


「…………」


 心臓を刈り取るライオットの召喚剣。


 世の魔法的現象には必ず条件があり、強力なものほどそれは複雑で困難なものとなる。

 この鎖を消滅させるには、あと二つほど条件が当てはまらない。

 ……………………つまり八方塞がりだ。


「…………落ち着け。シュレイドならどうする。アイツは頭がよくきれるだろ。なにをまず考える…………」


 あとからやってきた鈴鹿様は現状を把握すると、即座に的確な役目を振り分けた。

 冷静を保っているものの、小刻みに震えた指と不安定にどよめいていた瞳孔。

 アリスちゃんも、旦那様も、みんなみんな最善を尽くす為に歯を食いしばってる。


「………12年前だ。12年前。これは天からの授かり物じゃないのか? 赤ん坊の頃からあったろう、目の前の鎖は“何だ”。

  本来の創造手はご主人様じゃないのか…………? じゃあ、誰だ」


 なんとか鎖を壊せないか、剣の条件を満たす策を模索する。

 姉貴は姉貴で、中庭の植物をやりくりしてこの鎖を排除しようと身を投げていた。

 …………鎖壁を凍て裂こうとした姉貴を抑えるのは、本当に、大変だったのだ。


 自分の頭が凍りつきかけても魔法の行使を続けていた。


 放っておけば砕け散るほどの凄惨な覚悟だ。

 むしろ、あそこまでして何の影響もない鎖が異常ともいえる。

 あの様子では文字とうり、エルフとしての体を使ってでも調合を進めるだろう。


「くそ、……考えろ…………」


 みんな、ご主人様を救い出すべく全てを捧げてる。

 行方不明となったシュレイドの捜索はスターリー様に一任され、旦那様は四大貴族の禁車庫で必死に情報を集めてる。

 主従契約によりシュレイドの生存は確認されているも、肝心の場所が点でわからないのだ。


 それにもきっと、何か意味がある。


 ことを振り返り今までの状況を俯瞰しろ。


 魔女の使徒として生まれ育った日々も好き嫌いせず全部使え。


 ご主人様に異変が起きたのはいつ? なにか、妙な挙動はなかったか?

 異変が起きる前、よくぼうっとすることがあったと聞いた。ご主人様は何を見ている。

 いや、何を視させられた。

 近日中だ。きっかけは? 魔女の使徒。巫女。魔法。黒騎士…………霧。そうだ。何か、黒い霧をあびてた。ぼうっとしていて、迫る攻撃にすら気づかなかった。あのご主人様がだ。


 思い出せ。違和感がある。


 俺はその時のご主人様の挙動を何度か見たことがある。

 

 いつもみたいに変なことや変な声とか変な動作じゃなくて、なにか、違和感を抱くものが…………。


「……」


 ご主人様は、ことあるごとに間を置いていた。

 例えば馬車ほどある巨大な猪がきたとき。街中で荷物を背負った馬車が通り過ぎた時。

 本人でさえもわからないような感じで、ふと立ち止まっていた。


 ふざけたとかではなく。


 何か。


 違う。


 そもそも、ご主人様を、別のものとして。見てしまってるんだ。

 ご主人様はお前とおんなじ人間だろ。

 心に引っかかった言葉を記憶を頼りに喉から捻り出せ。

 子供の頃に嫌というほどみた夢だ。


 ぼろ紙にたくさんバツを書いた。


 雨が降ってて蝋燭の火が象徴的だった。

 誰かの家族とか、自分が殺すターゲットの顔写真。

 たくさん。たくさん。たくさん。

 どこかに山でも作れるんじゃないかってほど、殺した人を記した紙をお前は残したんだ。


 今だからこそ、そこから抜け出せないことに疑いもしなかったのだとわかった。

 ご主人様も、自分でさえ気づかずに隠していたものがある。


「……………………………トラウマ……」


 それを封じ込める何かを盗んだのか。

 もう向き合う時だ。

 彼は、自分のことを悪霊だと言っていた。きっと記憶の量は想像以上ある。


 何年か、何十年か。


 そんな膨大な水を今の今までに堰き止めれる代物なんて、考えられるのは一つだ。

 厄災たる巫女と正面切って戦えた事実。決して瞳を自分から見せなかったご主人様。


 思い出せ。


 あっただろう他にも“厄災“として言い伝えられてきた奴らが。

 この世の摂理を創り出した十柱。彼らは次元を超えた先で器として顕在している。

 それを教えてくれた魔女の使徒がいたはずだ、お前には。


「ニ体目は生物の在り方を許し、いやこれじゃない。六体目も違う。五体目。七体目は完成を…………そうだ…………四」


 螺旋状の定めを抱きしめた四体目。

 ……………今感じてる“ありえない”なんてのは単なる現実逃避だ。

 お前のご主人様を視ろ、こんどこそ。


「……」


 俺は息を呑んで立ち上がった後、虚空から一振りの黒剣を抜き出す。

 さっきから流れる汗が瞳にこぼれ落ちた。また瞬きなんてさせず、刹那の拒絶すらも許さない。


 ((((((((((((


 ひとまず、致命傷を背中に受けたアリスは一命を取り留めた。


 回復薬にて跡形もなく傷が癒えるも、背中にガラスが突き刺さる感触は拭えない。

 つまり恐怖症の問題だ。

 アリスはいま触っている食器に対しても、ありえない震えをきたしている。


「アリス」

「っ、すみません…………平気です」


 せめてできることをしましょうと、隣で調理をしていた鈴鹿様が手を止めた。

 火を止めて腰を下ろす。

 すると、私の視線まで目元を合わせてこういうのだ。


「貴方は私の息子が傷つかないように、声を必死に我慢してくれた。もう十分頑張ったわ」

「…………いえ、私は、っ、まだ」

「それじゃあ一緒にいきましょう。割れ物は私が持つから、お箸お願い」

 

 いつもとは違って穏やかな口調で鈴鹿様は対応してくれている。

 …………シュレイドさんなら、なんとかできたのだろうか。

 ご主人様が認めていた彼を思い返すに、臆病でも出来ることをして困難な状況を何度も潜り抜けていたのだ。それも幾つも。

 

「…………」


 昨日の演奏会でも、この大事な今だって何も出来ない自分が嫌になる。

 鈴鹿様がいなかったらイレイナさんが暴走していたけど、本当は母親である彼女が一番飛び出したい筈だ。

 でも、それを優先すべきことではないとわかってるから此処にいる。

 しかし、いかなる時も清潔だったキッチンの汚れ具合が鈴鹿様の動揺を証明していた。


「…………私、あの子から母親と思ってもらったことないの」


 ふと扉を出た先でそんな声が聞こえた気がした。

 ………………いや、気がした、ではない。

 あまりにも想像してなかったセリフに、聞こえないふりをしようとしたのだ。


「っ、鈴鹿様…………それは。……寂しいですよ」


 どんな言葉をかけようにも正解がわからない。

 でもいてもたってもいられずに、感情だけで言葉を選んでしまった。


「……誰でもない。私が苦しめているのはあの子なのに?」

「……なんで……そんなこと思うんですか」


 しかし、ここで止まるのはだめだと思う。

 頭が真っ白になったけど、初めて鈴鹿様が返事に秒間を開けていた。

 心の何かを打ち明けるのを悩んでいるように。


 …………私は意地悪な人間だ。


 冷静さを必死に取り繕う時だけしか、掘り起こせない本音がある。

 このまま進めば取り返しのつかないことになるという悪寒。

 だから、例え本人が望んでない本音でも。ここで聞き出さないといけない気がしたのだ。

 

「…………あの子が、私を母上って呼ぶことあるでしょう?」


 料理が乗ったお盆を手にして、廊下の壁にずりずりと座り込んだ鈴鹿様。

 涙が溢れないように上を向きだす。

 まるで自分には進む資格がないとでもいうような絶望の顔だった。

 

「私が、あの子に呼ばせていた。それもあの子はわかってる」

「…………どういう意味ですか」

「■■■■は、本当は、赤ん坊の頃に死んでたの。…………流産だった」


 あの雨の日、どこからか現れた鎖が赤ん坊に吸い寄せられていく光景が巡る。

 …………流産だった?

 いやでも、魔女の使徒が彼を殺そうとしていた時は。


「アリス。私と初めてあった時のこと覚えてる?」

「…………はい」

「あの時ね、心臓が止まるほどびっくりしたの。夢かと思った。あの人も同じ。

  腕の中で死んで、火葬する為の桶に入れた息子が、生きてたんだから」

「……………………………」


 ………………………………死者の復活。死亡の誤認。

 なんて発想はない。

 胸の中にすとんと落ちた。

 ずっと。

 ずっと。

 笑顔の裏で。

 ご主人様は、ずっと前から何度も“自分の秘密”について密かに暗示をしていたのだ。


「あの子を、■■■■として扱っていた。どこにも、あの子の居場所はなかった。あの子は、優しいから、このままでいいって…………深く踏み込むのが、怖かった」

「…………………………」


 それは、屋敷の全員が思っていたことだった。

 無意識のうちに、そんな空気を読んでいて最後まで隠し通すつもりだった。


 ご主人様は自分の弱音を口にしたことがない。


 できること、できないことじゃない。

 疲れたとか。

 痛いとか。

 嘆くこともしなくて、子供みたいな口調で誰よりも活発な笑顔を振り撒いていく。

 だから、もう少しならいいのではと思っていた。


『…………………………僕様は大丈夫だ! さきにいっててくれ!! すぐだから!!』

 

 彼だって人間だ。辛い時に辛いといいたいだろう。

 苦しいときに苦しかったと言いたいだろう。

 そんな相談もできない状況が、ご主人様を追い詰めた。


「私が名付けた子はいないって、もっと早く認めて、本当の意味で。あの子を、抱きしめれば良かった」

「…………」

「私の息子が、本当に笑えていた日なんて、あったかって…………このまま。だと。あの子は」


 瞼には収まりきらない涙が頬を伝っていた。

 こちらを振り向く鈴鹿様に近づく。

 まるでガラスに対する恐怖を焼き付けられたように震える手。

 それをもう片方の手で抑えて、言うべきことを鈴鹿様にいうのだ。


「…………それは、わかりません。私も。逃げちゃいましたから」

「……」

「だから、聞きにいきましょう。ご主人様が好きだったご飯持って…………できることを繋げて、ご主人様に届けるんです。…………私も。もう逃げません。………………だから」


 …………ああ、悔しいなぁ。

 こんな。こんな。ことしかできない自分がほんっっとうに嫌になる。

 やはり、泣いていたのは私もだったらしい。昨日の観客席で泣いてしまった時みたいだ。


 鈴鹿様に微笑むと涙がこぼれ落ちる。


 声なんて喉が震えて、ちゃんと話せているかわからない。


「…………」


 鈴鹿様は涙を拭くことなく立ち上がる。

 すると、廊下をすたすたと歩いてまたこんなことを言うのだ。

 ついていく足がふと止まる。


「情けないところを見せたわね…………でも、ありがとうアリス」

「………………こちらこそ。踏み込みすぎました」

「私から折れたの。でも今は平気よ。一緒に、あの子にご飯を届けにいきましょう」


 立ち上がった鈴鹿様の背中は、どうにも遠く感じられた。

 …………私のしていることが父親の真似事だったからだろう。

 2歳だった頃の視界はぼやけたままだ。

 微笑みながら抱きしめてくる名も知らない父親を、何度殺しにいこうと考えたか。


 名付けた母は知らない。

 もう肉親なんていない。

 ゴミを漁り続けてなんとか食い繋ぎ、とっくに消えていた両親を心底恨み続けた一年。


 それでも。


 その経験のおかげで今に繋げられたのだから、一体私は何者なんだろうと思う。

 …………ご主人様の居場所にもなっていなかった。

 お姉さんぶって。

 ご主人様から折れるのを待っていた姑息な自分に、何ができるのかと問わずにはいられないのだ。


 これまで夢にまで見た光景が刹那で脳裏に蘇ってくる。

 

 とある春のこと。


 発熱して床に伏せたご主人様に、休憩を挟みながらも24時間看病をしていたイレイナさん。

 キッチンでは、鈴鹿様が美味しいお粥を作っていた。

 それを食べたご主人様はふやけた笑みをしていた。

 

 …………募った罪悪感はそれほどまでに大きかったのか、みんな勘違いしている。


 夏には夜中に襲撃してきた暗殺者をひっそりとライオットさんが倒していた。

 私は血を見るのが怖いから、その後の死体処理なんて考えるだけでも影で座りたくなる。


 …………だから何もできなかった。


 秋は魔物が活性化する時期だ。

 いくら屈強な戦士といえども、犠牲者は毎年出ていた。

 屋敷でも戦える人は引っ張りだこ。

 ライオットさんでも体力の限界が見えてくる持久戦になる。


 元気に笑っていたご主人様も、きっと疲れていたのだろう。

 死にかけた者を助けた話は何度も街中で耳にしたが、魔物の討伐に出て帰らなくなった人も何人か聞いた。


 噂に流れるのは、血に塗れた死体を抱いていたご主人様だ。

 当時は、まだ遊び盛りの子供だった。

 “英雄の息子”としか評判が下されてなかった頃。


 しかし数分歩けば魔物と遭遇する谷から、大人一人を担いで降りたのだ。


 ご主人様の強さはそこから知れ渡るようになった。

 来年もこんなことが続くのかと、ご主人様の部屋の前で立ち尽くしていた自分。

 ………………ノックをして、何かを話し合おうと何度も思った結果がそれだったのだ。


 しかしその半年後にやってきたシュレイドさんが、事態を急変させた。

 何百回もの試作を兼ねて作った魔法の罠。

 それが魔物の軍勢を全体の三分の一まで減らすことに成功していたのだ。


 無論、ご主人様は何かの魔法を介して地形すら罠に変えることができる。

 だがそれは山に訪れる他の生物や人間も同様だ。

 下手に罠を張って生態系を崩すことをご主人様は悩みに悩んで、結局、自分がひっそり山に籠る作戦を実行していた。


 でも、魔物は空気に含まれた魔素から不意に生まれてくるものだ。


 その背中を見かけて追いかけていっても、足手纏いにしかならなかった。

 シュレイドさんが張った“魔物だけを殺す罠“がなければ、私を庇ったご主人様は死んでいたかもしれない。

 …………そんな気にさせないのが、ご主人様のいつもの笑顔だった。


『ふはははははははははははは!!! やっぱりあの傭兵か! なんだ随分と面白い奴がきたな、アリス!!』

 

 あまりの興奮で動かざるを得ないように、横になった体でバタバタと暴れていた。

 そこは山の中で笑い声がよく響く。

 あと落ち葉と一緒に下へと流され『ははは、はははあぁぁぁぁぁぁぁーー!!?』木々が蔓延る傾斜の下にゆっくり連れ去られていくのだ。

 

『な、なにやってるんですかぁ!?』

『先に帰るぞー!お前も信じて流れてこーい! たのしいぞーー!!』

『ま、魔物が出て危ないですよーーー!! ちょわ、す、滑っっ…………にぎゅああああああ!』


 落ち込んだ人ですら自分から立ち上がらせて、前を向かせる人。

 ご主人様はいつだって自分を変えなかった。


 散々叫びながら山の下に流された後、隣で横になったご主人様とつい笑ってしまう。

 先に帰るなんて言っておきながら律儀に私を待っていたのだ。

 最悪の場合、ご主人様に突き放されて会えないのだと心のどこかで思っていたのに。


『にぎゅああああああ、ですって、っ、ひはははははははははは!』

『はあ、だって、はあ、怖く、ふ、ふ、はははは。あははははははははははは!!』


 …………ご主人様が、本当の意味で私を拒絶することなんてなかった。

 ご主人様に救われてきた。

 なのに。

 彼がどんなポリシーを胸にして、なんでこんなに助けてくれるのかと聞きさえもできなかった。

 

「「!!!」」


 故に、例え“それ”を感じても止まるわけにはいかなかったのだ。

 ………………思考が歪む。

 なんの予兆もなく目の前に降ってきた黒い雪が、何よりも大切なものだと体が叫んでいる。


 あまりの刹那で世界がゆっくり動いていた。


 本能が記憶なんて忘れろと強引に足を止めようとしてくる。

 でも鈴鹿様はお盆を落とすことなく、食事が落ちないギリギリの速さで駆け出すのだ。


 もう、決して逃げることなどしないように。

 

「…………」

「急ぐわよ」


 自分のしていることが、間違っている。

 人のいない廊下で何百人もの亡者の手が背後に絡みついてくる。

 それは錯覚のようでも、現実として。

 “禁を破るな“

 “おこがましい“

 “祈りなさい“

 “祈るんだ”

 “祈れ“

 “悪人め”

 “後悔するぞ”

 “まだ助かる”

 “はやく止まれ”

 自分が、主役の敵役に定められたような感覚。原始的な生への欲求がすり替えられたイメージ。


 黒い雪は積もることなく下に通過していく。


 そんな絶対的な制止に撃ち止められても、血が出るほど唇を噛み締めて走るのだ。


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