第6話「雨の日の来訪者と、不器用な優しさ」
その日は、朝から冷たい雨が降り続いていた。
図書館を訪れる人もまばらで、私とアレンさんは、まるで世界に二人きりにでもなったかのような静けさの中で、それぞれの時間を過ごしていた。
アレンさんは、先日借りていった恋愛小説を、もう一度読み返しているようだった。時折、眉間に深いしわを寄せたり、かと思えば、ふっと息を漏らして口元を緩めたり。物語の世界にすっかり入り込んでいるのが、その横顔から伝わってくる。
(感想、聞いてみたいな……)
でも、彼が集中しているのを邪魔するのも悪い気がして、私はカウンターで黙々と本の整理を続けていた。
カラン、とドアベルが鳴ったのは、そんな静寂を破る突然の出来事だった。
入ってきたのは、幼い兄妹だった。びしょ濡れになった外套を着て、不安そうな顔で辺りを見回している。この辺りに住んでいる子供たちで、時々絵本を借りに来る顔なじみだった。
「こんにちは、リリアナお姉ちゃん」
お兄ちゃんのほう、確か名前はトム君だったか。彼が、小さな声で私に挨拶をした。
「こんにちは、トム君、アンナちゃん。どうしたの、そんなに濡れて。風邪をひいちゃうわ」
私は急いで乾いた布を持ってきて、二人の髪や服を拭いてあげる。私の言葉は、心配を示す淡い紫色を帯びていた。
「あのね、お母さんにお使いを頼まれたんだけど、急に雨が強くなっちゃって……。雨が弱まるまで、ここで待っててもいい?」
「もちろんよ。暖かいミルクでも淹れてあげましょうね」
私が笑顔でそう言うと、二人はほっとしたように顔をほころばせた。
給湯室でミルクを温めていると、ふと視線を感じた。振り返ると、書架の陰からアレンさんがこちらを窺っている。私が気づくと、彼はさっと身を隠した。
(見てたんだ)
彼の行動がなんだかおかしくて、私はくすりと笑ってしまった。
温かいミルクを飲んで落ち着いた兄妹は、絵本の棚へと駆けていった。二人で楽しそうに本を選んでいる。その姿を、アレンさんが遠巻きに、しかし、とても優しい目で見守っていることに、私は気づいていた。
その時だった。
妹のアンナちゃんが、一番上の棚にある絵本に手を伸ばそうとして、バランスを崩してしまったのだ。
「きゃっ!」
アンナちゃんの小さな体が、ぐらりと傾く。本が数冊、彼女の頭上めがけて落ちてくる。
「危ない!」
私が叫ぶのと、何かが素早く動くのは、ほぼ同時だった。
気づいた時には、アレンさんがアンナちゃんを抱きかかえ、落ちてくる本から庇うように背を向けていた。ごん、と鈍い音がして、数冊の分厚い絵本が、彼の背中に叩きつけられる。
「……っ!」
アレンさんが、痛みに顔をしかめる。
「アレンさん! 大丈夫ですか!?」
私は慌てて駆け寄った。アンナちゃんはきょとんとした顔で、自分を助けてくれた黒い服の男性を見上げている。
「……大したことはない」
アレンさんはアンナちゃんをそっと床に降ろすと、何でもないというように立ち上がった。彼の言葉は黒かったけれど、それは痛みを隠すための、虚勢の色だった。
「アンナ、大丈夫だった?」
トム君が泣きそうな顔で妹に駆け寄る。アンナちゃんはこくこくと何度も頷き、そして、アレンさんを見上げて言った。
「お兄ちゃん、ありがとう」
純粋な感謝の言葉。それは、太陽みたいに明るくて暖かい、混じりけのない黄金色をしていた。
その眩しいほどの金色の言葉を浴びて、アレンさんは、まるで魔法にかけられたみたいに固まってしまった。彼の瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれている。
彼は、子供からこんなにも真っ直ぐな好意を向けられた経験が、今までなかったのかもしれない。
「……別に。俺はただ、本が傷つくのが嫌だっただけだ」
やがて我に返った彼は、そっぽを向いて、棘だらけの黒い言葉を吐き出した。でも、その言葉は全く重くなくて、風船みたいに軽かった。彼の耳が、真っ赤に染まっているのが見えたから。
トム君は、そんなアレンさんの前に立つと、深々と頭を下げた。
「妹を助けてくれて、ありがとうございました!」
トム君の言葉もまた、力強い金色をしていた。
二つの金色の言葉に囲まれて、アレンさんは居心地が悪そうに身じろぎをしている。彼の周りを、戸惑いや照れの感情が、ピンクや紫の靄になって取り巻いていた。その光景は、なんだかとても微笑ましかった。
「……君たち、早く家に帰りなさい。親が心配するぞ」
彼はそれだけ言うと、そそくさと自分の席に戻ってしまった。その背中は、逃げるように見えた。
子供たちが帰った後、図書館にはまた静寂が戻った。私は、先ほど彼が背中に本を受けた場所を心配して、彼の元へ歩み寄った。
「アレンさん、本当に大丈夫ですか? 背中、見せてください」
「いらん、お節介だ」
彼の黒い言葉が、私を拒絶する。でも、私はもう、彼の言葉の色に惑わされたりはしない。
「お節介でも、心配なんです。あなたが、私の図書館で怪我をするのは、私にとっても辛いことですから」
私の言葉は、真摯な思いを込めた深い青色。
アレンさんは、はあ、と大きなため息をついた。それは、諦めの色をした、白い息だった。
「……好きにしろ」
私は彼の後ろに回り、そっと彼の服をめくった。背中には、本の角が当たったのだろう、赤黒い痣が痛々しくできていた。
「ひどい……。すぐに冷やさないと」
私がつぶやくと、アレンさんは静かな声で言った。
「これくらい、昔に比べれば……」
彼の言葉は、過去を懐かしむような、セピア色をしていた。宮廷魔術師だった頃は、もっと危険な任務もたくさんあったのだろう。
私は何も言わずに、濡れたタオルを持ってきて、そっと彼の痣に当てた。ひんやりとした感触に、彼の肩が小さく震える。
「……なぜ、そこまでする」
しばらくして、彼がぽつりと言った。
「君にとって、俺はただの利用者に過ぎないはずだ」
彼の言葉は、純粋な疑問を示す、透明な色をしていた。
私は、彼の背中にタオルを当てたまま、静かに答えた。
「あなたは、優しい人だからです」
「……何?」
「言葉は不器用で、いつも黒くて棘だらけですけど……あなたの本当の色を、私は知っていますから」
私の言葉は、確信に満ちた、柔らかな金色。
アレンさんは、何も言わなかった。ただ、彼の背中から、今まで感じたことのないほどの温かい熱が、私の手に伝わってきた。それはきっと、彼の閉ざされた心の扉が、また一つ、音を立てて開かれた証拠なのだろう。
雨はまだ、降り続いていた。でも、私たちの周りには、まるで陽だまりのような、穏やかで優しい空気が満ちていた。




