第5話「彼の選ぶ物語と、変わりゆく心の色」
アレンさんが私の仕事を手伝ってくれるようになってから、図書館の空気は目に見えて変わった。
以前は張り詰めていた彼の周りの空気が、少しずつ柔らかくなってきたのだ。もちろん、他の利用者から見れば、彼は相変わらず無愛想で近寄りがたい魔術師のままだろう。けれど、彼の言葉の色を読み取れる私にとっては、その変化は歴然だった。
彼の言葉から、ガラスの破片のような鋭い棘がほとんど消えた。黒い色は相変わらずだけれど、それはまるで上質なベルベットのような、深みのある黒に変わってきている。そして、彼の感情に合わせて、様々な色がその黒の上に浮かび上がるようになった。
私が新しい本について楽しそうに話せば、彼の言葉には興味を示す黄色が混じり、私が仕事で失敗して落ち込んでいれば、心配の色である淡い紫がそっと寄り添ってくれる。もちろん、口から出るのは「本当に君はそそっかしいな」なんていう黒い言葉なのだけれど。
(もう、すっかり彼の言葉の翻訳家だな、私)
そんなことを思いながら、彼の不器用な優しさに触れるたびに、私の心は温かくなっていく。
そしてもう一つ、大きな変化があった。
それは、アレンさんが借りていく本のジャンルだ。
あれほど古代魔術や歴史の専門書ばかりを読み漁っていた彼が、いつの頃からか、物語の本を手に取るようになったのだ。
最初は、私が「これも面白いですよ」と勧めた、古代の英雄の冒険譚だった。
「子供だましだ。こんなもの」
そう黒い言葉で言い放ちながらも、彼はその本を借りていった。そして翌日、少し興奮したような顔でカウンターにやってきたのだ。
「昨日の本だが……主人公の剣の軌道、あれは明らかに古代剣術の『円月殺法』が元になっている。作者は相当な手練れだな」
彼の言葉は、熱のこもったオレンジ色に輝いていた。物語の内容そのものよりも、その背景にある歴史考証に心惹かれたらしい。でも、彼が物語を楽しんでくれたことが、私には嬉しかった。
それ以来、彼は少しずつ、自分から物語を手に取るようになった。伝説の竜を巡るファンタジー、失われた王国を探す探検記、知恵で悪を討つ賢者の物語。どれも、彼の知的好奇心をくすぐるような、壮大な世界観を持つ物語ばかりだった。
そしてある日、彼はついに、一冊の恋愛小説を手に取った。
彼がその本をカウンターに持ってきた時、私は自分の目を疑った。それは、騎士と姫の、甘くて切ない恋物語。この図書館で一番人気の、いわゆる王道の恋愛小説だ。
「……アレンさんが、こういう本を読むなんて、意外です」
思わず、驚きを示す真っ白な言葉が私の口から飛び出した。
アレンさんは、ふいっと顔をそむけ、耳をかすかに赤く染めた。
「……別に。巷で流行っている物語の構造を、研究のため、分析してやろうと思っただけだ」
彼の言葉は、必死に平静を装う黒色だったけれど、その裏側は羞恥心を示すピンク色で透けて見えそうなくらいだった。
(研究のため、ねえ)
思わず笑みがこぼれそうになるのを、必死でこらえる。彼が、自分の感情とは全く違うジャンルの本を手に取った。それは、彼の心の中で、何かが大きく変わろうとしている証拠のように思えた。
地位も名誉も、信じていた魔法すら失い、絶望の中にいた彼。彼の世界はきっと、灰色と黒だけの、色あせたものだったのだろう。だから彼は、確かな知識や歴史という、揺るがない事実だけを求めていた。
でも、今、彼は物語を求めている。誰かが紡いだ、嘘の世界。でも、そこには喜びや悲しみ、そして愛といった、人の心が色鮮やかに描かれている。
彼が、もう一度、人の心を信じようとしてくれている。そんな気がして、私の胸はぎゅっと熱くなった。
貸し出しの手続きをしながら、私はそっと彼に問いかけた。
「あの、アレンさん。もしよかったら、今度……その物語の感想、聞かせてもらえませんか?」
私の言葉は、期待に満ちた明るい黄色。
アレンさんは一瞬、息を呑んだように私を見つめた。彼の瞳が、大きく揺れている。
「……感想だと? こんな大衆向けの、中身のない物語に、語るべきことなど何もない」
彼の言葉は黒かった。拒絶の色。でも、その言葉は震えていて、重さもなく、まるで風に吹かれた煙のように頼りなかった。本当は、誰かと物語について語り合いたい。そんな、寂しさを示す水色の感情が、黒い言葉の隙間から見え隠れしていた。
「そんなことありません。物語に、中身がないものなんて一つもありませんよ。どんな物語にも、作者の魂が、そして読んだ人の心が宿るんですから」
私は、きっぱりと言った。私の言葉は、信念を表す、力強い青色だ。
「だから、アレンさんがこの物語を読んで何を感じたのか、私は、とても知りたいです」
真っ直ぐに、彼の目を見て伝える。
アレンさんは、しばらく何も言えずに立ち尽くしていた。彼の周りを、様々な色の感情が渦のように巡っている。戸惑いの灰色、期待の黄色、不安の紫色、そして、ほんの少しの喜びを示すピンク色。
やがて彼は、諦めたように、小さく、本当に小さく頷いた。
「……気が向いたらな」
それは、今までで一番不器用で、一番優しい、暖かい色をした黒い言葉だった。
彼が帰った後も、私の心臓はどきどきと鳴り止まなかった。
彼が選ぶ本が、彼の心の羅針盤なのだとしたら。その針は今、確かに新しい方向を指し示している。それはきっと、閉ざされた過去ではなく、誰かと共に歩む未来という方向だ。
そして、その未来の隣に、もし私がいることができたなら。
そんな淡い期待を胸に抱きながら、私はカウンターに置かれた一輪挿しの花に、そっと水をやった。蕾だった小さな花が、ほんの少しだけ、ほころび始めた気がした。




