第4話「古代文字が紡ぐ、二人の時間」
あの日、アレンさんから初めて金色の感謝の言葉をもらってから、私たちの関係は少しだけ変わった。
相変わらず彼は無愛想だし、彼の言葉は黒を基調としている。けれど、カウンターで交わす言葉が、ほんの少しだけ増えたのだ。
「この文献、記述に矛盾がある。著者は素人か」
「あら、でもその著者は、実際に古代遺跡を旅した冒険家だったそうですよ。現場の視点ならではの発見もあるかもしれません」
「……ふん、どうだかな」
こんな風に、本の感想を言い合ったりするようになった。彼の言葉は皮肉っぽい黒色だけれど、その中に含まれる興味を示す黄色や、知的好奇心を表す青緑色が、以前よりもずっと増えていた。
私も、彼の博識ぶりには毎日驚かされていた。私が何気なく口にした本の情報にも、彼は「それは〇〇時代の文献にある記述だな」とか「その説はすでに別の学者が論破している」とか、的確な補足を返してくる。宮廷魔術師だった頃の彼がいかに優秀だったか、その片鱗に触れるたびに、私は感心すると同時に、彼の現状を少しだけ切なく思った。
そんなある日、私が古い羊皮紙の修復作業をしていると、アレンさんが珍しく書庫から出てきて、私の手元を覗き込んできた。
「何をしている?」
「こんにちは、アレンさん。これは、この図書館ができた頃の蔵書目録なんですけど、虫食いがひどくて。読める部分だけでも書き写しておこうと思って」
私がそう言うと、彼は羊皮紙に書かれた文字を一瞥して、眉をひそめた。
「これは……古代シルヴィア文字か。しかも、かなり古い地方訛りの書体だ。君に読めるのか?」
彼の言葉には、純粋な疑問を示す青色が混じっていた。私を馬鹿にしているわけじゃないのが分かる。
「いえ、全部は……。ところどころ、分からない単語があって、そこで手が止まってしまうんです」
私は困ったように微笑んで、書きかけの紙を見せた。そこには、いくつも空白の箇所がある。
すると、アレンさんは私の隣の椅子にどさりと腰を下ろした。え、と私が驚いていると、彼は私の手から羽根ペンをひょいと取り上げる。
「……貸してみろ。俺が読んでやる」
「えっ、でも……」
「いいから」
有無を言わせない、彼の黒い言葉。でも、その黒はとても力強くて、どこか頼もしく感じられた。
それから、私たちの奇妙な共同作業が始まった。
アレンさんが、羊皮紙に書かれた古代文字を、すらすらと現代語に訳していく。私がそれを、新しい紙に書き写していく。
「……次、『星詠みの塔より飛来せし、銀翼の知識』。この『銀翼』は、比喩表現だな。おそらくは王家からの使者を指している」
「なるほど……」
「その次、『深き森の賢者の、苔むした言葉』……これはエルフ族との交流記録だろう。続きは……」
彼の低い声が、静かな図書館に心地よく響く。私は彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと、必死にペンを走らせた。
時々、私が書き間違えたりすると、「違う、そこの綴りは『L』じゃなくて『R』だ」なんていう鋭い指摘が飛んでくる。彼の言葉は厳しい黒色だけれど、その奥に、教えることへの喜びを示すオレンジ色の光がちらついているのが見えた。
(この人、本当は、誰かに知識を伝えるのが好きなのかもしれない)
宮廷では、きっと多くの弟子を育てていたのだろう。そんな彼の過去に、少しだけ思いを馳せる。
***
何時間そうしていただろう。気づけば、窓の外はすっかり夕焼け色に染まっていた。最後の文字を書き終えた時、私たちはどちらからともなく、ふう、と大きなため息をついた。
「……終わった」
「ありがとうございます、アレンさん。あなたがいなかったら、あと一ヶ月はかかってました」
私が心からの感謝を伝えると、彼の言葉は、今までで一番大きな、輝かしい金色になった。
「別に、君のためじゃない。この貴重な文献が失われるのが惜しかっただけだ」
彼の口から出たのは、いつもの黒い言葉。でも、それはもう、私の心をちっとも傷つけなかった。だって、彼の本心の色が見えているから。これは、彼の精一杯の照れ隠しなのだ。
「ふふ、そうですね」
私が笑うと、アレンさんは少しだけばつの悪そうな顔をして、立ち上がった。
「……喉が渇いた。何か飲むものはないのか」
「え? あ、はい! えっと、お茶なら……」
「それでいい」
私は慌てて席を立ち、司書室の奥にある小さな給湯室でお茶を淹れた。お茶請けに、今朝焼いたクッキーも添えて。
カウンターに戻ると、アレンさんは私たちが書き写したばかりの新しい目録を、真剣な眼差しで読んでいた。その横顔は、とても穏やかに見える。
「どうぞ」
お茶とクッキーを差し出すと、彼は一瞬驚いたように目を見開いた。
「……クッキー?」
「口に合うか分かりませんが……。頭を使うと、甘いものが欲しくなるでしょう?」
私の言葉は、親しみを込めた暖かなオレンジ色。
アレンさんは、しばらくクッキーと私の顔を交互に見ていたけれど、やがて諦めたように一つ手に取った。そして、小さな口でそれをかじる。
「……悪くない」
彼の短い感想は、満足を示す、穏やかな緑色をしていた。
私たちはそれから、閉館時間になるまで、並んでお茶を飲んだ。会話はほとんどなかったけれど、気まずさは全くない。むしろ、今日一日、同じ目標に向かって協力したことで生まれた、確かな一体感がそこにはあった。
古代文字が紡いでくれた、二人だけの特別な時間。
この日を境に、アレンさんは時々、私の仕事を手伝ってくれるようになった。もちろん、「君の仕事が遅いから、見ていられないだけだ」なんていう黒い言葉を添えるのを忘れずに。
でも、私にはもう分かっている。彼の不器用な優しさが、どんな色をしているのかを。
彼の心の書庫の扉は、きっともう、半開きくらいにはなっているのかもしれない。そう思うと、私の心にも、暖かい金色の光が灯るのだった。




