第3話「貸し出された本と、貸し出されない心」
詩集を貸し出した翌日、アレンさんは少し気まずそうな顔で図書館にやってきた。
彼の言葉は相変わらず黒くて無愛想だったけれど、私と目を合わせる瞬間、ほんの少しだけ視線が揺らぐのが分かった。昨日の詩集の一件を、彼なりに意識しているのかもしれない。
(かわいいところ、あるじゃない)
なんて思っていることがバレたら、きっと軽蔑の色をした真っ黒な言葉を投げつけられるだろうから、私は平静を装って彼を迎えた。
彼はその日、いつものように古代魔術の専門書を数冊借りていった。詩集の感想を口にすることはなかったけれど、返却された本の栞が、一番最後の頁に挟まっていたのを見て、私はこっそり嬉しくなった。全部、読んでくれたんだ。
それからというもの、私とアレンさんの間には、奇妙な習慣が生まれた。
私が、彼が研究しているテーマに関連しそうな、少しだけ専門分野から外れた本をそっとカウンターに用意しておくのだ。
例えば、彼が古代兵器の魔術回路について調べている時は、伝説の鍛冶師の生涯を描いた英雄譚を。古代薬草学の文献を読み漁っている時は、エルフの森の植物図鑑を。
私は別に、彼に何かを教えようとか、そういうおこがましいことを考えていたわけじゃない。ただ、彼が没頭している研究の世界を、少しだけ広げるお手伝いができたらいいな、と思っただけだ。物語や図鑑の中にだって、思わぬ発見の種が隠れていることは、司書である私が一番よく知っている。
アレンさんは最初、私が差し出す本を訝しげに見ていた。
「またか。君は俺を何だと思っているんだ」
そんな風に、不満を示す黒っぽい紫色の言葉を投げかけてくることもあった。でも、最終的にはいつも、黙ってその本も一緒に借りていってくれるのだ。そして次の日には、必ず読了した証である栞を最後の頁に挟んで返却してくる。
私たちは、本を通して会話をしていた。
言葉を交わさなくても、彼がどんなことに興味を持ち、どんなことに心を動かされたのかが、私には何となく分かった。英雄譚を返却した時の彼は、どこか晴れやかな顔をしていたし、植物図鑑を返した時は、その日の彼の言葉の黒色が、いつもより心なしか淡かった。
彼の言葉の色も、少しずつだけれど変化していた。
相変わらず基本は黒。皮肉や自嘲が混じった、棘のある色。でも、その黒の濃度が、日によって変わるようになった。私の言葉に反応して、ほんの一瞬、戸惑いの灰色が混じったり、興味を示す黄色が差したりする。そして、どんなに黒い言葉の中にも、あの小さな金色の光は、決して消えることなく瞬き続けていた。
***
ある雨の日。
その日は珍しく、図書館に私とアレンさんしかいなかった。外は土砂降りの雨で、窓を叩く雨音だけが、静かな室内に響いている。
アレンさんはいつものように書庫に籠もっていたけれど、閉館時間が近づいても降りてくる気配がない。心配になって様子を見に行くと、彼は高い脚立の上で、一番上の棚にある本を読もうと奮闘していた。
彼は魔力の大部分を奪われている。だから、昔なら魔法でひょいと取り出せた本も、自力で取らなければならないのだ。
「あ、危ない!」
彼がバランスを崩して、脚立がぐらりと揺れた。私は思わず駆け寄り、脚立の足を押さえる。
「……っ、余計なことをするな」
アレンさんは体勢を立て直し、忌々しげに私を見下ろした。その言葉は、焦りを表す赤黒い色をしていた。他人に弱みを見られたことが、彼のプライドを傷つけたのだろう。
「すみません、でも、お怪我をされたら大変ですから」
「君には関係ないだろう」
吐き捨てられた言葉は、突き放すような冷たい黒。でも、その奥に、羞恥を示すピンク色がほんのりと混じっているのが見えた。
(ああ、この人は。不器用なだけなんだ)
私はなんだか、愛おしいような気持ちになった。
「関係なくなんかないですよ。利用者の皆様の安全を守るのも、司書の仕事ですから」
私は精一杯の笑顔で、澄み切った水色の言葉を紡いだ。
「それに、その本、私が取ります。言ってくださればよかったのに」
「君のような小柄な女に取れるとでも?」
アレンさんの言葉は相変わらず黒い。でも、棘はもうどこにもなかった。
「ふふ、司書の腕力をなめてはいけません。毎日の本の出し入れで、結構鍛えられてるんですよ」
私はそう言って、ひょいと脚立を登り始めた。アレンさんが驚いて何か言う前に、目的の本をさっと抜き取り、彼に手渡す。それは、彼がずっと探していたらしい、幻の魔導書だった。
アレンさんは、呆然と本を受け取った。そして、初めて、私に向かって黒以外の色の言葉を放った。
「……すまない」
それは、とても小さくて、か細い声だった。言葉の色は、感謝を示す、透き通るような金色。まるで、冬の朝の陽だまりみたいな、暖かくて優しい色。
私は、そのあまりの美しさに、一瞬、息をするのも忘れてしまった。
今まで彼の言葉の奥にずっと見えていた、あの小さな金色の光。それが今、彼の本当の言葉として、私に届けられたのだ。
「……どういたしまして」
やっとのことでそれだけを返すのが精一杯だった。私の言葉は、喜びでキラキラと輝くピンク色になって、彼の周りをふわりと舞った。
アレンさんは、少しだけ顔を赤らめて、すぐにそっぽを向いてしまったけれど。
その日、彼は珍しく閉館時間まで私とカウンターで話をした。といっても、会話のほとんどは、先ほど手に入れた魔導書の内容について彼が一方的に語る、というものだったけれど。
専門的で難しい話だったけど、彼の言葉は生き生きとしていて、熱意を示す鮮やかなオレンジ色に輝いていた。私は、そんな彼の横顔を眺めているだけで、幸せな気持ちになった。
彼の心は、まだ誰にも貸し出されていない、鍵のかかった書庫のようなものかもしれない。
でも、今日、私はその鍵を、ほんの少しだけ回すことができたんじゃないだろうか。
外では、いつの間にか雨が上がっていた。窓から差し込む西日が、図書館の床に落ちる私たちの影を、そっと一つに結んでいた。




