第2話「沈黙の司書と無口な魔術師」
アレン・クロフォードさんが図書館を訪れるようになってから、一週間が過ぎた。
彼は毎日、決まって午後の日差しが一番穏やかになる時間にやってきて、閉館間際まで専門書庫に籠もり、そして数冊の本を借りていく。その間、私と交わす言葉はほとんどない。
「これを」
「はい」
「……」
「どうぞ」
カウンターでのやり取りは、まるで定型文のようだった。彼の言葉は相変わらず黒く、ぶっきらぼうだ。けれど、最初の日のような、刺し貫くような鋭さは少しだけ和らいだ気がする。言葉の奥に見える金色の光も、ほんの米粒ほど、大きくなったような……いや、これは私の願望かもしれない。
(でも、灰色はずっと変わらないな……)
彼の言葉の底に沈む、後悔を示す重い灰色。それはまるで、彼の心にずっしりと乗っかったままの、消えない重石のようだった。
彼が書庫にいる間、私はカウンターからそっと彼の様子をうかがっていた。彼は本当に集中して本を読んでいて、その横顔はまるで彫刻のように美しい。けれど、時折ふと顔を上げた時の瞳には、深い孤独と、どこか諦めに似た色が浮かんでいるように見えた。
宮廷魔術師という華やかな世界から、こんな辺境の町へ。彼の失ったものは、きっと地位や名誉だけじゃないはずだ。積み上げてきた自信も、未来への希望も、何もかもを奪われてしまったのかもしれない。そう思うと、胸がちくりと痛んだ。
私にできることなんて、何もない。私はただの司書で、彼が求める本を正確に手渡すことしかできないのだから。
だから私は、せめて彼がこの場所で、誰にも邪魔されずに本と向き合える時間を提供しようと決めた。必要以上に話しかけない。彼の世界を邪魔しない。それが、今の私にできる最大限の配慮だった。
***
その日も、アレンさんはいつものように書庫から数冊の本を抱えて降りてきた。相変わらず難しい顔をしている。
「これを頼む」
カウンターにどさりと置かれたのは、やはり古代魔術に関する専門書ばかりだった。私は黙って頷き、一冊ずつ貸し出しの手続きを進める。
最後の一冊に手を伸ばした時、ふと、あることに気がついた。それは、彼が前回借りていった本の中に挟まっていた、一枚の栞だった。うちの図書館で使っている、何の変哲もない厚紙の栞だ。
でも、その栞が挟まれていた頁が、私の目を引いた。
それは、古代魔術の中でも特に難解とされる「言霊魔法」に関する記述がされている部分だった。言霊魔法とは、言葉そのものに魔力を乗せて事象を操る、伝説級の魔法。使いこなせる者は、神話の時代以降、一人もいないとされている。
アレンさんは、こんな魔法に興味があるんだろうか。
私は手続きを終えた本を彼に差し出しながら、思い切って声をかけてみた。
「あの、クロフォード様」
私の声に、彼の肩がぴくりと揺れる。彼がこちらを向くと、その瞳には「何か用か」という強い警戒が浮かんでいた。彼の心から、暗い紫色の言葉が生まれかけているのが見える。
(しまった、余計なことだったかな……)
でも、一度口に出してしまったら、もう後には引けない。私はできるだけ穏やかな、澄んだ水色の言葉を紡ぐことを意識した。
「もし、言霊魔法にご興味がおありでしたら……こちらの本もおすすめです」
そう言って、私はカウンターの下から一冊の古い本を取り出した。それは、魔術書ではなく、一冊の詩集だった。
『風の言葉、光の歌』
大昔にこの地方で活躍した、名もなき詩人の作品を集めたものだ。この詩人は、言葉の持つ力を信じ、自然のあらゆる声を詩にしたと言われている。言霊魔法とは違うけれど、言葉が持つ根源的な力について、何かヒントになるかもしれない。私が個人的に大好きな一冊だった。
アレンさんは、私が差し出した詩集と私の顔を、訝しげに何度も見比べた。彼の頭上には、巨大なクエスチョンマークが浮かんでいるように見える。
「……詩集だと? 俺が魔術の探求をしているのが分からないのか。こんなもの、何の役にも立たない」
吐き捨てられた言葉は、真っ黒だった。けれど、その黒はなんだか薄くて、水で滲んだみたいに輪郭がぼやけている。そして、言葉の端っこが、ほんの少しだけ好奇心を示す明るい黄色に染まっていた。
(本当は、少し興味があるんだ)
そのことが分かると、なんだか嬉しくなった。
「そうかもしれません。でも、この詩集に収められている詩は、どれも言葉が生きているみたいに、きらきらと輝いているんです。魔術とは違うかもしれませんが、言葉の力を信じる、という点では、きっと何か通じるものがあると思います」
私の言葉は、確信に満ちた柔らかな緑色をしていた。植物が芽吹くときのような、生命力のある色。
アレンさんは、しばらく黙って詩集の古びた表紙を見つめていた。彼の周りを、迷いを表す灰紫色の靄が取り囲む。借りるべきか、借りざるべきか。彼のプライドが、興味とせめぎ合っているのが手に取るように分かった。
やがて彼は、ふう、と小さくため息をついた。
「……まあ、いいだろう。そこまで言うなら、読んでやらないこともない」
そう言って、彼はひったくるように詩集を手に取った。その言葉は、ぶっきらぼうな黒色だったけれど、以前のような鋭い棘はどこにもなかった。まるで、照れ隠しをしている子供みたいだ。
彼はそのまま踵を返し、図書館から出て行こうとする。
「あ、あの!」
私は思わず呼び止めていた。
「手続きがまだ……」
彼はぴたりと足を止め、ばつが悪そうにこちらを振り返る。その顔が、夕日でほんのり赤く染まっているように見えたのは、きっと気のせいじゃない。
無言でカウンターに戻ってきたアレンさんのために、私は詩集の貸し出し手続きをした。その間、私たちは一言も口をきかなかったけれど、気まずい沈黙ではなかった。むしろ、どこか温かい空気が流れているような気がした。
手続きを終え、今度こそ図書館を出ていく彼の背中を見送りながら、私は小さく微笑んだ。
彼は、私が差し出した本を受け取ってくれた。
たったそれだけのこと。でも、それは私にとって、分厚い氷にほんの小さなひびが入ったような、大きな一歩に思えた。
彼の言葉の奥にある、あの小さな金色の光。いつか、あの光が黒い棘を溶かして、彼の本当の言葉の色になる日が来るだろうか。
そんなことを考えながら、私は閉館作業を始めた。静かな図書館に、古書の匂いと、私の小さな期待が満ちていた。無口な魔術師様との静かな日々は、まだ始まったばかりだ。




