第5話 瘴泥熊
作戦会議が行われる詰所は、板壁の隙間から容赦なく冷気が刺し込んでいた。机の上に広げられた地図は紙ではなく油布で、端は擦り切れ、血と泥の指紋が幾重にも重なっている。北方防衛戦線の地図は、情報ではなく“積み重なった消耗”そのものだった。
「吸収型の予兆が出た」
第三魔導兵団第七中隊長、リヒト・ヴァイスハルトは短く言い、地図の一点を指で押さえた。爪が布を沈める。その一点だけが、まるで釘で打ち付けられたように重い。
副官カイ・ローヴェンが、いつもの軽口を探すように口を開き――そして飲み込んだ。場の空気が軽口を許していなかったからだ。
「斥候は二つ。泥臭と、魔力の抜け。さらに地表の湿りが“戻る”速度が早い。……瘴泥熊だろう」
別の士官が、気の滅入る名を口にする。吸収型。魔法を食う個体。討伐の手順は確立されているが、確立されているぶん“歩兵が削られる”ことも確立されている。
特別戦術指揮官、ミラ・アストレアが地図を見下ろした。淡い水色の髪がランプの光を拾い、透明な薄氷みたいに揺れる。顔立ちは整いすぎて、表情の動きが少ないぶん、言葉が冷たく見えた。
「対処はいつも通り。歩兵が瘴泥を削って、内部の硬化核――露出した瞬間だけを狙って術式を叩き込む。……簡単」
簡単。そう言い切れるのは、彼女が“魔法の正解”側にいるからだ。
カイが、机の上の報告書束を指で弾いた。
「でも、“いつも通り”ってことは、歩兵の被害も“いつも通り”ってことですよね。削り役、潰されます」
ミラの瞳が一瞬だけ、氷の底みたいに暗くなる。表情は動かない。だが、ほんの刹那――唇の端が、わずかに固くなった。
リヒトが代わりに答える。
「歩兵の被害をゼロにはできない。吸収型相手に、魔導だけで押し切れば術式が食われ、戦線が割れる。……歩兵が削らなければ、魔導が死ぬ」
理屈は正しい。正しいから残酷だ。
ミラは息を吐いた。感情のためではない。空気を整えるための呼吸だ。自分の内側の不純物を、外へ追い出すみたいに。
「だから、“削る”のを最短にする。露出までの時間を削り、術式投入の窓を増やす。無駄な接触を減らす」
「理想論に聞こえますね」
別の士官が言う。現場の人間は理想を嫌う。理想が破れた瞬間、死ぬのは現場だからだ。
ミラは顔を上げた。
「理想を現実にするのが、戦術でしょう?」
言い切る。傲慢に、当然だという前提で。
だがその傲慢が、いまこの戦線では必要だった。恐怖の上に“正しさ”を置ける者がいなければ、誰も前へ進めない。
リヒトが最後にまとめる。
「決める。歩兵は削り役を二段。盾で前を固定して、鉈で削る班を交代。魔導は露出窓に合わせて術式を分割投入。ミラ、術式はお前が組む。……現地はお前が指揮する」
「当然でしょう。私が来たのだから」
ミラはそう言って、地図の一点を指でなぞった。なぞる指先が、ほんのわずかに止まる。
――ここで、また歩兵が削れる。
その理解が、ほんの一瞬だけ、彼女の顔を辛そうに見せた。次の瞬間には消えた。見間違いかと思うほどの速度で、いつもの冷たい形に戻る。
「行くわ」
◇
補充兵に説明が回ってきたのは、幹部たちの短い会議が終わったあとだった。
係官が指で地図を叩く。
「この辺りに“吸収型”の予兆が出た。斥候が泥の匂いと、魔力の抜けを拾っている。――瘴泥熊だ」
名が出た瞬間、補充兵の中に小さなざわめきが走った。怖さのざわめきではない。諦めに似たざわめきだ。
吸収型。魔法が効かないわけではない。効く。効くが、吸われる。術式が“食われる”。だから厄介だ。
「対処はいつも通り。歩兵が瘴泥を削る。削って“穴”を作る。穴が開いた瞬間だけ、魔導兵がそこへ叩き込む。分かったな」
いつも通り――その言葉が、ここでは呪いに近い。
歩兵が削る。つまり近づかなければならない。つまり、殴られる。つまり、潰される。
魔力適性のない兵は、これまで壁役以外で役に立ったことがない。北方防衛戦線は、魔獣の中でも強力な個体が多い。普通の前線より“格”が違う。魔法がない者は、最初から消耗品として計算される。
その理屈を、補充兵は口では知らない。だが骨で知っている。だから誰も質問しない。質問したところで、答えは変わらないからだ。
レオンハルトは、説明を聞きながら左腰の剣の位置だけを確かめた。
削る。穴を開ける。そこへ魔法。
――なら、穴を開ける速度を俺が上げればいい。
歩兵の消耗が大きい戦いなら、消耗を減らす戦い方を作ればいい。しかも、誰の目にも分かる形で。
名声は、結果だけでは足りない。結果が“見える”必要がある。誰が見ても自分だと分かる動き――つまり、派手さと理屈の両方だ。
──没落王族として透明にされた日々の反動が、いま一気に噴き上がっていた。
◇
◇
前哨基地の外縁、補充兵の詰所は相変わらず雑然としていた。湿った藁の匂い。乾かない泥の臭い。鎧の金具が擦れる音が、無意味に耳に残る。
レオンハルト・グランディオールは壁際に腰を下ろし、剣の鞘の革を指先でなぞっていた。古い革が、指に吸い付くように馴染む。父の手の温度が、幻のように蘇る。
周囲の会話は、半分が噂で半分が恐怖だった。
「吸収型だってよ」
「瘴泥熊……削り役が死ぬやつ」
「魔導が来るなら勝てるんじゃねえの?」
「勝てる。勝てるけど、歩兵は減る」
誰も“自分が削り役になる可能性”を口にしない。口にした瞬間、現実になるからだ。
レオンハルトは、その恐怖の匂いを嗅ぎながら、胸の奥の別の熱を育てていた。
――いい。怖がれ。怯えろ。
――その中で俺だけが立っていれば、勝手に目が集まる。
表情は平静だった。
だが心の内は、今にも笑い出しそうな昂ぶりで満ちている。視線が集まるたびに熱が増し、熱が増すほど自尊心が膨れ上がる。
この前線の空気も、恐怖も、判断も、すべて自分を軸に回り始める――そう感じる瞬間が、たまらなく心地よかった。
班長が入ってきて、短く言った。
「出撃。吸収型。瘴泥熊。やることは一つだ。削って穴を作れ。穴が開いたら魔導が焼く。以上」
それだけ。
作戦会議の影も、将校の顔も、ここには落ちてこない。
レオンハルトは立ち上がり、左腰の剣の重みを確かめる。
――削る。穴を作る。
――その“穴”を、俺が一番派手に作ればいい。
◇
窪地へ近づくほど、空気が湿った。冷たいのに重い。肺が鈍る。吐いた息が白くならない瞬間がある――魔力の密度が薄い場所では、世界の“反応”まで痩せる。
先に、瘴泥熊の匂いが来た。
泥の臭い。獣の臭い。焦げたような魔力の残滓。喉の奥がいがらっぽくなる。
そして“山”が動いた。
熊。
全身が黒い泥膜で鎧のように覆われ、動くたび泥が垂れ、地面を腐らせる。歩く度に魔導兵の術式板が痩せ、光が細る。
「削れ!」
班長が叫んだ。盾兵が前へ出る。斧兵が続く。槍兵が間合いを測る。
泥膜に斧が叩き込まれる。
べちゃり、と嫌な音。
削れたのか、ただ泥を塗り広げただけなのか、分からない。
瘴泥熊の腕が振り下ろされた。
盾が受けた。衝撃が骨に響く。盾兵が沈む。足が泥に取られて体勢が崩れた。
次の一撃が来る。受けきれない。
「っ……!」
槍兵が反射で踏み込んだ。槍先が震える。怖さが腕へ出る。
熊の泥膜に槍は弾かれ、泥が粘りついた。
次の瞬間、熊の体重がその槍兵へ落ちる――
その前に、黒い鎧が割り込んだ。
レオンハルトだ。
剣が抜ける音が、異様に澄んでいた。
剣の音が澄むはずがない。戦場は騒音の塊だ。
それでも澄んで聞こえたのは、彼の動きが無駄を削ぎ落としていたからだ。
レオンハルトは“厚い泥”を斬らない。
意味がないからだ。
熊が腕を上げる。泥膜が引き伸ばされ、継ぎ目が生まれる。
そこへ刃を置く。
泥が裂ける。
裂けた瞬間、泥膜がずるりと剥がれ落ちた。
「……は?」
近くの斧兵が目を見開く。
歩兵が命を削って“削る”工程を、剣が一太刀で短縮した。
熊の腕がもう一度来る。
レオンハルトは受けない。半歩ずらし、腕の外へ滑り込み、肘の内側へ刃を通す。
泥膜の下、硬い皮膚が一瞬露出する。
そこへ――
「そこ、通す!」
遠くからミラの声が飛んだ。術式の光が細く走り、露出部位へ突き刺さる。
吸われる。痩せる。
それでも“穴”がある分だけ、通る。
熊の動きが鈍る。
鈍った瞬間、歩兵が息を取り戻す。盾兵が立ち直る。槍兵が槍を引き抜く。
槍兵は、震える手で自分の槍を握り直した。
死ぬはずだった。踏み潰されて終わるはずだった。
なのに生きている。
目の前にある背中。金髪が泥に汚れ、黒い鎧が血と泥で濡れているのに、背中だけは折れない形をしている。
そして赤い瞳が、一瞬だけ横を向いた。凍ったように冷たいのに、底に熱があった。
確かに、その背中に英雄を見た。
熊が吠え、泥が跳ねる。
レオンハルトは笑っていた。声には出さない。だが口元が僅かに歪む。まさしく戦闘狂のそれだ。
――もっと。
――もっと見ろ。
――もっと怯えて、もっと俺を頼れッ!!
泥膜が裂ける。露出部位が増える。
歩兵の“削り役”が、本来なら腕を砕かれ、足を取られ、消耗していく工程が、異様に短く済んでいく。
ミラの魔法が要所へ刺さる。
刺さるたび、熊の泥膜が焼け、剥がれ、動きが止まる。
ミラは、現場で理解していた。
この戦いは歩兵の損耗を前提にしている。
なのに、歩兵が異様に生き残っている。
原因は一つしかない。
――レオンハルト・グランディオール。
認めたくない。
魔法が正解だ。魔法の時代だ。剣は古い。
そう思いたいのに、目の前の事実がそれを許さない。
熊が倒れかける。
だが吸収型はしぶとい。泥膜の奥へ魔力が逃げ、核が守られる。魔法だけでは決め切れない。
「核が奥だ。もう一段、穴を――」
ミラが言いかけた瞬間、レオンハルトが踏み込んだ。
熊の胸郭の下端。泥膜が薄い、呼吸孔の“縁”。
そこへ剣先を滑り込ませる。
抵抗が跳ねた。泥膜の奥の硬いものが刃に噛みつく。
だがレオンハルトは引かない。体重を落とし、剣を捻り、隙間を広げる。
――届く。
赤い瞳が細くなる。
その瞳は、怖さではなく快楽で濡れていた。
剣が、さらに奥へ入った。
次の瞬間、瘴泥熊の巨体が、ぐらりと沈む。泥が溶け落ち、山が崩れるように地面へ落ちる。窪地が揺れ、腐った泥が跳ね上がる。
静寂が一拍遅れて落ち、そして──笑った。
「アーハッハッハッハ!! 尊敬しろ、この俺を尊敬しろ!!」
声が冷気を震わせ、泥の匂いを割った。
一拍。二拍。
誰かが、息を呑んだ。
別の誰かが、乾いた喉を鳴らした。
そして歩兵の列の端で、助かった槍兵が――祈るように小さく繰り返した。
「……尊敬、しろ……?」
ふざけた言葉が、ふざけて聞こえない。
助かった命の重さが、その言葉に“意味”を与えてしまう。
――瘴泥熊が倒れ伏している。
その現実が、遅れて兵たちの身体に落ちてきた。
泥の山みたいな巨体が、呼吸もしない。爪も、牙も、もうこちらを裂かない。瘴気じみた臭いだけが残っており、そこに死の気配はない。
理解した瞬間、誰かの喉が勝手に鳴った。
「……勝った、のか?」
答えは要らなかった。
同じ言葉が、別の喉から、もっと大きくこぼれる。
「勝った……! 勝ったぞ! 熊が、倒れたぞ……!!」
その声が合図になった。
堰が切れる。押し殺していた息が、一斉に吐き出される。
「うおおおおおおっ!!」
「生きてる! 生きてるぞ!!」
「やった……やったぁぁぁ!!」
勝利の叫びが爆発した。
喜びというより、恐怖の反動だ。死ぬはずだった者が、生き残ってしまった時の、理屈のない噴出。
膝から崩れる者もいた。槍を掲げる者もいた。互いの肩を叩き、鎧を叩き、泣き笑いの声が泥の窪地に跳ね返る。
そして、その熱が――一点へ収束する。
熊の上に立ち、両腕を広げて笑う男へ。
誰かが叫んだ。名ではない。まず、言葉だった。
さっき、たしかに聞いた言葉。
「……尊敬、しろって……!」
それが波になる。
恥も体裁も、今はどうでもよかった。ここでは“正しさ”より“縋り”が勝つ。
生き残ったという事実が、その言葉を祈りに変える。
「尊敬するぞ……!」
「俺もだ! お前はすげー!」
「お前のおかげで助かった! ありがとうー!」
叫びが重なり、太くなり、群れになる。
笑い飛ばすはずの台詞が、今は合言葉みたいに響く。
誰かが勝手に、拳を突き上げた。誰かがそれに続いた。次々と、腕が上がる。
そして――歩兵の列の端で、助かった槍兵が、震える喉で叫んだ。
「──レオンハルト! アイツの名は、レオンハルト・グランディオールだ!」
その名が落ちた瞬間、空気がさらに爆ぜた。
「レオンハルト!! レオンハルト!!」
「レオンハルト!! レオンハルト!!」
「レオンハルト!! レオンハルト!!」
ミラは、遠くからその光景を見ていた。
嫌悪ではない。苛立ちでもない。
ただ、理解してしまう。
――この男は、戦場の空気を奪う。
奪われた空気の中で、人は縋る。
縋りはやがて形になる。
ミラは薄く目を細めた。感情は見せない。だが、ほんの一瞬だけ、口元が硬くなる。
認めたくない。
けれど、認めるしかない。
北方防衛戦線で、魔法を持たない兵が壁役以外で役に立ったことはない。なのにレオンハルトは違う。
それがどれほど異常で、どれほど危険で、どれほど――人の心を狂わせるか。
彼女は、才に恵まれたががゆえに理解してしまった。
そしてその理解が、胸の奥をわずかに痛ませた。
――面倒なことになりそう。
ミラはそう判断し、すぐに表情を整える。冷たい指揮官の顔に戻る。
「撤収。次の予兆地点へ移動する。……隊列を崩さないで」
命令が落ち、兵たちが動き出す。
だが動きながらも、視線だけはレオンハルトに吸い寄せられ続ける。
レオンハルトはそれを見て、心の内側だけで笑った。
――皆が俺を見ている。たまらねぇ……。
喝采は、戦果のあとに来るのではない。
戦果と同時に、もう芽を出している。
自分の名が、次から次へと“必要”になっていく。
この戦線で、それは生存の方程式になる。
レオンハルトは左腰の剣を軽く押さえ、歩き出した。
泥の冷たさが靴底から上がってくる。
その冷たさが、逆に現実を確かにした。




