表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
没落王族は鍛えあげた剣で名声を欲しいままにするつもりだったのに何か思ってたのと違う  作者: 白雪ユキミ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/5

第5話 瘴泥熊

 作戦会議が行われる詰所は、板壁の隙間から容赦なく冷気が刺し込んでいた。机の上に広げられた地図は紙ではなく油布で、端は擦り切れ、血と泥の指紋が幾重にも重なっている。北方防衛戦線の地図は、情報ではなく“積み重なった消耗”そのものだった。


「吸収型の予兆が出た」


 第三魔導兵団第七中隊長、リヒト・ヴァイスハルトは短く言い、地図の一点を指で押さえた。爪が布を沈める。その一点だけが、まるで釘で打ち付けられたように重い。


 副官カイ・ローヴェンが、いつもの軽口を探すように口を開き――そして飲み込んだ。場の空気が軽口を許していなかったからだ。


「斥候は二つ。泥臭と、魔力の抜け。さらに地表の湿りが“戻る”速度が早い。……瘴泥熊だろう」


 別の士官が、気の滅入る名を口にする。吸収型。魔法を食う個体。討伐の手順は確立されているが、確立されているぶん“歩兵が削られる”ことも確立されている。


 特別戦術指揮官、ミラ・アストレアが地図を見下ろした。淡い水色の髪がランプの光を拾い、透明な薄氷みたいに揺れる。顔立ちは整いすぎて、表情の動きが少ないぶん、言葉が冷たく見えた。


「対処はいつも通り。歩兵が瘴泥を削って、内部の硬化核――露出した瞬間だけを狙って術式を叩き込む。……簡単」


 簡単。そう言い切れるのは、彼女が“魔法の正解”側にいるからだ。


 カイが、机の上の報告書束を指で弾いた。


「でも、“いつも通り”ってことは、歩兵の被害も“いつも通り”ってことですよね。削り役、潰されます」


 ミラの瞳が一瞬だけ、氷の底みたいに暗くなる。表情は動かない。だが、ほんの刹那――唇の端が、わずかに固くなった。


 リヒトが代わりに答える。


「歩兵の被害をゼロにはできない。吸収型相手に、魔導だけで押し切れば術式が食われ、戦線が割れる。……歩兵が削らなければ、魔導が死ぬ」


 理屈は正しい。正しいから残酷だ。


 ミラは息を吐いた。感情のためではない。空気を整えるための呼吸だ。自分の内側の不純物を、外へ追い出すみたいに。


「だから、“削る”のを最短にする。露出までの時間を削り、術式投入の窓を増やす。無駄な接触を減らす」


「理想論に聞こえますね」


 別の士官が言う。現場の人間は理想を嫌う。理想が破れた瞬間、死ぬのは現場だからだ。


 ミラは顔を上げた。


「理想を現実にするのが、戦術でしょう?」


 言い切る。傲慢に、当然だという前提で。


 だがその傲慢が、いまこの戦線では必要だった。恐怖の上に“正しさ”を置ける者がいなければ、誰も前へ進めない。


 リヒトが最後にまとめる。


「決める。歩兵は削り役を二段。盾で前を固定して、鉈で削る班を交代。魔導は露出窓に合わせて術式を分割投入。ミラ、術式はお前が組む。……現地はお前が指揮する」


「当然でしょう。私が来たのだから」


 ミラはそう言って、地図の一点を指でなぞった。なぞる指先が、ほんのわずかに止まる。


 ――ここで、また歩兵が削れる。


 その理解が、ほんの一瞬だけ、彼女の顔を辛そうに見せた。次の瞬間には消えた。見間違いかと思うほどの速度で、いつもの冷たい形に戻る。


「行くわ」



 補充兵に説明が回ってきたのは、幹部たちの短い会議が終わったあとだった。

 係官が指で地図を叩く。


「この辺りに“吸収型”の予兆が出た。斥候が泥の匂いと、魔力の抜けを拾っている。――瘴泥熊だ」


 名が出た瞬間、補充兵の中に小さなざわめきが走った。怖さのざわめきではない。諦めに似たざわめきだ。

 吸収型。魔法が効かないわけではない。効く。効くが、吸われる。術式が“食われる”。だから厄介だ。


「対処はいつも通り。歩兵が瘴泥を削る。削って“穴”を作る。穴が開いた瞬間だけ、魔導兵がそこへ叩き込む。分かったな」


 いつも通り――その言葉が、ここでは呪いに近い。

 歩兵が削る。つまり近づかなければならない。つまり、殴られる。つまり、潰される。

 魔力適性のない兵は、これまで壁役以外で役に立ったことがない。北方防衛戦線は、魔獣の中でも強力な個体が多い。普通の前線より“格”が違う。魔法がない者は、最初から消耗品として計算される。

 その理屈を、補充兵は口では知らない。だが骨で知っている。だから誰も質問しない。質問したところで、答えは変わらないからだ。

 レオンハルトは、説明を聞きながら左腰の剣の位置だけを確かめた。

 削る。穴を開ける。そこへ魔法。


 ――なら、穴を開ける速度を俺が上げればいい。


 歩兵の消耗が大きい戦いなら、消耗を減らす戦い方を作ればいい。しかも、誰の目にも分かる形で。

 名声は、結果だけでは足りない。結果が“見える”必要がある。誰が見ても自分だと分かる動き――つまり、派手さと理屈の両方だ。

 

──没落王族として透明にされた日々の反動が、いま一気に噴き上がっていた。


 ◇


 前哨基地の外縁、補充兵の詰所は相変わらず雑然としていた。湿った藁の匂い。乾かない泥の臭い。鎧の金具が擦れる音が、無意味に耳に残る。


 レオンハルト・グランディオールは壁際に腰を下ろし、剣の鞘の革を指先でなぞっていた。古い革が、指に吸い付くように馴染む。父の手の温度が、幻のように蘇る。


 周囲の会話は、半分が噂で半分が恐怖だった。


「吸収型だってよ」

「瘴泥熊……削り役が死ぬやつ」

「魔導が来るなら勝てるんじゃねえの?」

「勝てる。勝てるけど、歩兵は減る」


 誰も“自分が削り役になる可能性”を口にしない。口にした瞬間、現実になるからだ。


 レオンハルトは、その恐怖の匂いを嗅ぎながら、胸の奥の別の熱を育てていた。


 ――いい。怖がれ。怯えろ。

 ――その中で俺だけが立っていれば、勝手に目が集まる。


 表情は平静だった。

 だが心の内は、今にも笑い出しそうな昂ぶりで満ちている。視線が集まるたびに熱が増し、熱が増すほど自尊心が膨れ上がる。

 この前線の空気も、恐怖も、判断も、すべて自分を軸に回り始める――そう感じる瞬間が、たまらなく心地よかった。


 班長が入ってきて、短く言った。


「出撃。吸収型。瘴泥熊。やることは一つだ。削って穴を作れ。穴が開いたら魔導が焼く。以上」


 それだけ。

 作戦会議の影も、将校の顔も、ここには落ちてこない。


 レオンハルトは立ち上がり、左腰の剣の重みを確かめる。


 ――削る。穴を作る。

 ――その“穴”を、俺が一番派手に作ればいい。


 ◇


 窪地へ近づくほど、空気が湿った。冷たいのに重い。肺が鈍る。吐いた息が白くならない瞬間がある――魔力の密度が薄い場所では、世界の“反応”まで痩せる。


 先に、瘴泥熊の匂いが来た。

 泥の臭い。獣の臭い。焦げたような魔力の残滓。喉の奥がいがらっぽくなる。


 そして“山”が動いた。


 熊。

 全身が黒い泥膜で鎧のように覆われ、動くたび泥が垂れ、地面を腐らせる。歩く度に魔導兵の術式板が痩せ、光が細る。


「削れ!」


 班長が叫んだ。盾兵が前へ出る。斧兵が続く。槍兵が間合いを測る。


 泥膜に斧が叩き込まれる。

 べちゃり、と嫌な音。

 削れたのか、ただ泥を塗り広げただけなのか、分からない。


 瘴泥熊の腕が振り下ろされた。


 盾が受けた。衝撃が骨に響く。盾兵が沈む。足が泥に取られて体勢が崩れた。

 次の一撃が来る。受けきれない。


「っ……!」


 槍兵が反射で踏み込んだ。槍先が震える。怖さが腕へ出る。

 熊の泥膜に槍は弾かれ、泥が粘りついた。

 次の瞬間、熊の体重がその槍兵へ落ちる――


 その前に、黒い鎧が割り込んだ。


 レオンハルトだ。


 剣が抜ける音が、異様に澄んでいた。

 剣の音が澄むはずがない。戦場は騒音の塊だ。

 それでも澄んで聞こえたのは、彼の動きが無駄を削ぎ落としていたからだ。


 レオンハルトは“厚い泥”を斬らない。

 意味がないからだ。


 熊が腕を上げる。泥膜が引き伸ばされ、継ぎ目が生まれる。

 そこへ刃を置く。


 泥が裂ける。

 裂けた瞬間、泥膜がずるりと剥がれ落ちた。


「……は?」


 近くの斧兵が目を見開く。

 歩兵が命を削って“削る”工程を、剣が一太刀で短縮した。


 熊の腕がもう一度来る。

 レオンハルトは受けない。半歩ずらし、腕の外へ滑り込み、肘の内側へ刃を通す。


 泥膜の下、硬い皮膚が一瞬露出する。

 そこへ――


「そこ、通す!」


 遠くからミラの声が飛んだ。術式の光が細く走り、露出部位へ突き刺さる。

 吸われる。痩せる。

 それでも“穴”がある分だけ、通る。


 熊の動きが鈍る。

 鈍った瞬間、歩兵が息を取り戻す。盾兵が立ち直る。槍兵が槍を引き抜く。


 槍兵は、震える手で自分の槍を握り直した。

 死ぬはずだった。踏み潰されて終わるはずだった。

 なのに生きている。

 目の前にある背中。金髪が泥に汚れ、黒い鎧が血と泥で濡れているのに、背中だけは折れない形をしている。

 そして赤い瞳が、一瞬だけ横を向いた。凍ったように冷たいのに、底に熱があった。

 確かに、その背中に英雄を見た。


 熊が吠え、泥が跳ねる。

 レオンハルトは笑っていた。声には出さない。だが口元が僅かに歪む。まさしく戦闘狂のそれだ。


 ――もっと。

 ――もっと見ろ。

 ――もっと怯えて、もっと俺を頼れッ!!


 泥膜が裂ける。露出部位が増える。

 歩兵の“削り役”が、本来なら腕を砕かれ、足を取られ、消耗していく工程が、異様に短く済んでいく。

 ミラの魔法が要所へ刺さる。

 刺さるたび、熊の泥膜が焼け、剥がれ、動きが止まる。


 ミラは、現場で理解していた。

 この戦いは歩兵の損耗を前提にしている。

 なのに、歩兵が異様に生き残っている。

 原因は一つしかない。


 ――レオンハルト・グランディオール。


 認めたくない。

 魔法が正解だ。魔法の時代だ。剣は古い。

 そう思いたいのに、目の前の事実がそれを許さない。

 熊が倒れかける。

 だが吸収型はしぶとい。泥膜の奥へ魔力が逃げ、核が守られる。魔法だけでは決め切れない。


「核が奥だ。もう一段、穴を――」


 ミラが言いかけた瞬間、レオンハルトが踏み込んだ。

 熊の胸郭の下端。泥膜が薄い、呼吸孔の“縁”。

 そこへ剣先を滑り込ませる。


 抵抗が跳ねた。泥膜の奥の硬いものが刃に噛みつく。

 だがレオンハルトは引かない。体重を落とし、剣を捻り、隙間を広げる。


 ――届く。


 赤い瞳が細くなる。

 その瞳は、怖さではなく快楽で濡れていた。

 剣が、さらに奥へ入った。

 次の瞬間、瘴泥熊の巨体が、ぐらりと沈む。泥が溶け落ち、山が崩れるように地面へ落ちる。窪地が揺れ、腐った泥が跳ね上がる。

 静寂が一拍遅れて落ち、そして──笑った。


「アーハッハッハッハ!! 尊敬しろ、この俺を尊敬しろ!!」


 声が冷気を震わせ、泥の匂いを割った。

 一拍。二拍。


 誰かが、息を呑んだ。

 別の誰かが、乾いた喉を鳴らした。

 そして歩兵の列の端で、助かった槍兵が――祈るように小さく繰り返した。


「……尊敬、しろ……?」


 ふざけた言葉が、ふざけて聞こえない。

 助かった命の重さが、その言葉に“意味”を与えてしまう。


 ――瘴泥熊が倒れ伏している。


 その現実が、遅れて兵たちの身体に落ちてきた。

 泥の山みたいな巨体が、呼吸もしない。爪も、牙も、もうこちらを裂かない。瘴気じみた臭いだけが残っており、そこに死の気配はない。

 理解した瞬間、誰かの喉が勝手に鳴った。


「……勝った、のか?」


 答えは要らなかった。

 同じ言葉が、別の喉から、もっと大きくこぼれる。


「勝った……! 勝ったぞ! 熊が、倒れたぞ……!!」


 その声が合図になった。

 堰が切れる。押し殺していた息が、一斉に吐き出される。


「うおおおおおおっ!!」

「生きてる! 生きてるぞ!!」

「やった……やったぁぁぁ!!」


 勝利の叫びが爆発した。

 喜びというより、恐怖の反動だ。死ぬはずだった者が、生き残ってしまった時の、理屈のない噴出。

 膝から崩れる者もいた。槍を掲げる者もいた。互いの肩を叩き、鎧を叩き、泣き笑いの声が泥の窪地に跳ね返る。

 そして、その熱が――一点へ収束する。

 熊の上に立ち、両腕を広げて笑う男へ。

 誰かが叫んだ。名ではない。まず、言葉だった。

 さっき、たしかに聞いた言葉。


「……尊敬、しろって……!」


 それが波になる。

 恥も体裁も、今はどうでもよかった。ここでは“正しさ”より“縋り”が勝つ。

 生き残ったという事実が、その言葉を祈りに変える。


「尊敬するぞ……!」

「俺もだ! お前はすげー!」

「お前のおかげで助かった! ありがとうー!」


 叫びが重なり、太くなり、群れになる。

 笑い飛ばすはずの台詞が、今は合言葉みたいに響く。

 誰かが勝手に、拳を突き上げた。誰かがそれに続いた。次々と、腕が上がる。

 そして――歩兵の列の端で、助かった槍兵が、震える喉で叫んだ。


「──レオンハルト! アイツの名は、レオンハルト・グランディオールだ!」


 その名が落ちた瞬間、空気がさらに爆ぜた。


「レオンハルト!! レオンハルト!!」

「レオンハルト!! レオンハルト!!」

「レオンハルト!! レオンハルト!!」


 ミラは、遠くからその光景を見ていた。

 嫌悪ではない。苛立ちでもない。

 ただ、理解してしまう。


 ――この男は、戦場の空気を奪う。


 奪われた空気の中で、人は縋る。

 縋りはやがて形になる。

 ミラは薄く目を細めた。感情は見せない。だが、ほんの一瞬だけ、口元が硬くなる。

 認めたくない。

 けれど、認めるしかない。

 北方防衛戦線で、魔法を持たない兵が壁役以外で役に立ったことはない。なのにレオンハルトは違う。

 それがどれほど異常で、どれほど危険で、どれほど――人の心を狂わせるか。

 彼女は、才に恵まれたががゆえに理解してしまった。

 そしてその理解が、胸の奥をわずかに痛ませた。


 ――面倒なことになりそう。


 ミラはそう判断し、すぐに表情を整える。冷たい指揮官の顔に戻る。


「撤収。次の予兆地点へ移動する。……隊列を崩さないで」


 命令が落ち、兵たちが動き出す。

 だが動きながらも、視線だけはレオンハルトに吸い寄せられ続ける。

 レオンハルトはそれを見て、心の内側だけで笑った。


 ――皆が俺を見ている。たまらねぇ……。


 喝采は、戦果のあとに来るのではない。

 戦果と同時に、もう芽を出している。

 自分の名が、次から次へと“必要”になっていく。

 この戦線で、それは生存の方程式になる。

 レオンハルトは左腰の剣を軽く押さえ、歩き出した。

 泥の冷たさが靴底から上がってくる。

 その冷たさが、逆に現実を確かにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ