第4話 第三魔導兵団特別戦術指揮官
魔核持ちの巨体が泥の上に沈んだあと、森は一拍遅れて静かになった。
血と泥と、焦げた魔力の臭いが冷気に押し潰されるように薄まっていく。折れた枝の先で雪が崩れ、どこかで鎧の留め具が擦れる音がした。戦いの最中には掻き消されていた小さな音が、今はやけに鮮明で――それがかえって現実を突きつけてくる。
死んでいる。
生きている。
その差が、たった今の剣の軌跡一本で決まったのだと理解させられる。
レオンハルト・グランディオールは剣を鞘へ戻した。左腰の革帯が軋み、金具が小さく鳴る。装備は支給品と同じ、黒基調の簡素な鎧。胸当ての縁も擦り切れ、手甲には泥が乾いている。
ただ――剣だけが違った。
鞘は古い。革は手に馴染むまで擦れ、金具には細かな傷が走っている。だがそれは“粗末”ではない。“使い続けた”痕だ。柄に巻かれた革は何度も締め直された跡があり、握れば重心が吸い付くように手の中心へ収まる。
抜かずとも、纏うその気配はやはり異質。
父が玉座の間で床に突き立てた剣。――最後に残った王家の誇り。
先の戦闘で、誰もが目の当たりにした。
魔法が痩せ、術式が揺れ、火球が散り、氷槍が形を失う中で、魔核持ち魔獣の巨体が跳んだ。
そして、一人兵士の死が確定した瞬間──その剣が、世界の流れをねじ曲げた。
力任せでも、運でもない。刃の置き方、間合いの詰め方、硬い骨板の継ぎ目へ滑り込ませる精度。それは、極限の戦場であっても美いと恍惚してしまうほど。
見た者の目は、もう戻れない。
レオンハルトへ視線が集まるのは必然であった。
魔導兵の硬い目。槍兵の呆然とした目。あらゆる者たちの畏れと救いが混ざった目。
その視線の熱が、肌に触れる気さえする。
――き、気持ち良すぎる……。
胸の奥に、甘い痺れが走った。
誇りではない。高尚な使命感でもない。もっと露骨で、飢えに似たものだ。奪われ続けた者が、ようやく掴んだ水を口の端からこぼさぬように飲み干す渇望。
◇
助けられた槍兵は、泥の上に尻もちをついたまま動けなかった。
死ぬことが決まっていた。魔核持ちが跳び、爪が落ちる。骨が砕け、喉から声が漏れる前に終わる。未来が、確定していた。
なのに──その剣が運命をねじ曲げた。
槍兵は息を吸う。肺が痛む。生きている証拠に胸がひりつく。
目の前には背中がある。金髪が泥に汚れ、黒い鎧が血で濡れているのに、その背中は折れない形をしている。
槍兵は震える指で自分の槍を握り直した。彼が自身と同じ、徴兵された補充兵であることを知っている。自分と同じ、死を待つだけのありふれた兵士の一人に過ぎないと思っていた。
なのに、そのありふれた自分が“生きている”。──彼は特別な人間だった。
彼のそばにいることが生存の鍵だと、本能が理解してしまう。都合の良い錯覚だと分かっていても、この前線では錯覚に縋らねば正気が保てない。
――レオンハルト。
槍兵は心の中で名を繰り返す。祈るように。縋るように。
その瞬間、自分がどれほど惨めで、どれほど切実かも理解してしまう。だが、理解してしまったからこそ、目を逸らせない。
◇
前哨基地へ戻る道は勝利の道ではなかった。
担架が二つ、泥を跳ねながら前を通る。呻き声が漏れ、血の臭いが風に乗る。戦場は終わらない。終わるのは人のほうだ。
兵たちは黙り込んで歩く。勝ったはずなのに誰も笑えない。笑えば次に死ぬ気がするからだ。
それでも視線だけは、レオンハルトから離れなかった。彼が歩けば首が追う。彼が立ち止まれば呼吸が止まる。誰も言葉にしないまま、彼を中心に空気が回り始める。
レオンハルトはそれを浴びた。浴びて、味わった。
気持ちいい、と胸の底が言う。
恐ろしいほど気持ちいい。
この快感を知ってしまった以上、もう戻れない。
戻りたいとも思わない。“元王族”として視線を避けられていた日々を、身体がまだ覚えているからだ。あの、名を呼ばれない空気。存在が透明になる恐怖。もう二度と味わうものか。
基地の木柵が見えた頃、空気の質が変わった。
魔力の密度が上がる。温度ではない。圧だ。呼吸がわずかに重くなる。兵たちの背筋が無意識に伸び、ざわめきが引いていく。
「……魔導兵団だ」
淡い光が隊列を縁取り、術式板が整然と並ぶ。彼らが歩くだけで、戦場の汚れが“間違い”のように見えてくる。
隊の中心にいる青年将校――第三魔導兵団第七中隊長、リヒト・ヴァイスハルトは馬上から前線の空気を一瞥した。副官カイが軽口を言いかけて口を閉じる。場が違う。
そして、その中心から一人の少女が降りた。
淡い水色の髪。雪の影を溶かしたような色で、光を受けると透明に見える。整いすぎた顔立ちは感情を薄め、薄いからこそ残酷だ。
瞳が冷たい。人を人として測る温度ではなく、価値を測る冷たさ。
兵の何人かが息を呑んだ。魔導兵でさえ、彼女の前では一歩だけ遠慮する。護衛ではない。崇拝に近い間合い。
少女は血溜まりと折れた槍を見下ろし、眉一つ動かさずに言った。
「……汚い。あなたたちは、戦場の整え方すら知らないのね」
叱責ではない。断罪だ。
自分の正しさが前提で、相手を改善する意思がない。あるのは格付けと切り捨てだけ。
リヒトが短く答える。
「被害は抑えた。魔核持ちは処理済みだ」
「……処理?」
少女の唇がわずかに動く。興味の欠片。
「誰が?」
リヒトの視線が自然にレオンハルトへ向く。周囲の兵の目も引きずられるように移る。舞台がまた、こちらへ寄ってくる。
レオンハルトの胸が甘く熱くなった。
――いい。たまらん。そうだ、俺を中心に置け。
表情こそ平静そのものであったが、彼の心の内は、今にも笑い出しそうな昂ぶりで満ちていた。視線が集まるたびに熱が増し、熱が増すほどに自尊心が膨れ上がる。
この場の空気も、恐怖も、判断も、すべて自分を軸に回り始めている。そう思えた瞬間、飢えが満たされていく感覚がたまらなく心地よかった。
少女の視線が、左腰の剣で止まる。
「……剣?」
露骨な侮蔑。価値のないものを見つけた時の、退屈な吐息。
だが次の瞬間、その侮蔑は一拍遅れて濁った。剣が、ただの鉄に見えないからだ。地味だが、妙に“正しい”。古いのに、隙がない。
ただの剣士ではない。直感的にそう理解してしまう。
レオンハルトは一歩前へ出た。見せるための一歩だ。装備が同じでも、立ち方で差が出る。身体が勝手に覚えている。
「そうだ」
「名前は?」
「レオンハルト・グランディオール」
名を口にした瞬間、空気が揺れる。元王族。その称号がべったり貼りついた名。だが今は、それすら利用できる。落ちた者が上がるほど物語は映える。喝采は濃くなる。
少女――ミラは薄く笑った。笑いというより、唇の形だけで他者を踏む仕草だ。
「没落した王族の残骸。今さら剣を握って英雄ごっこ?」
「英雄ごっこで魔核持ちが倒せるなら、誰でもやればいい」
「……馬鹿みたい」
「馬鹿みたいに強い、の間違いだろ?」
兵の間に息を呑む気配が走った。魔導兵の中には露骨に顔をしかめる者もいる。彼らの“正解”は魔法であり、剣が中心になる世界を許せない。
ミラは術式板を軽く掲げた。指先が僅かに動くだけで、空に淡い幾何が咲く。美しい。整っている。完璧で、だからこそ傲慢が似合う。
「偶然を、実力と勘違いしていない? 魔核持ちは、整った術式で処理できる」
ミラは言い切る。
言い切れるだけの才能と実績を彼女は確かに持っていた。
「――私が来た以上、この前線は“正しい形”に戻る。あなたたちは恐れる必要はない。恐れるべきは、私の邪魔をすることよ」
命令ではない。宣言だ。世界が自分に従うのが当然だと信じて疑わない声。
魔法を持たぬ兵たちは反射的に目を伏せた。否定できないからだ。魔法の時代に、魔法を持たない者は最初から“格下”に配置される。彼らはそれを骨で知っている。
だからこそ――その列の中で、レオンハルトへ向ける視線が再び増えた。剣で魔核持ちを落とした男。魔法の天才に踏まれても立っている男。
魔法を持たぬ者たちにとって、それは希望ではない。もっと切実なものだ。自分が“数”ではなくなる可能性だ。
ミラは、その視線の流れまで含めて不快そうに息を吐いた。
「あなたは次の出撃で、私の術式の外へ出ないで。勝手に動いて死なれると、場が汚れる」
汚れる。
その言葉が、空気ではなく神経を撫でた。
魔法を持たぬ者たちは反射で視線を落とし、魔導兵は当然のように無表情を作る。ここで逆らえば、命が消える。軍はそういう場所だ。
レオンハルトは表情変えない。表情を変えず、脳内では思考が加速する。如何にして名声を得るか、という思考が。
肩の裂傷が熱く疼く。血が鎧の内側を伝い、冷えていく感覚が生々しい。
その痛みすら、今の自分を“見せる”材料に変わると知っている。
彼は一拍だけ置き、そして──
「あぁ、分かった」
短い。雑でもない。反発の棘もない。
むしろ、気味が悪いほど従順だった。
ミラがわずかに目を細める。勝った者が見せる満足ではない。違和感を嗅ぎ取った獣の目だ。
「……本当に分かってる?」
「分かった、と伝えたはずだが?」
軽い挑発。声の温度は落ち着いているのに、言葉だけが薄く刃を含む。従っているのに、折れていない――その矛盾が、場を妙に冷やした。
ミラの視線が鋭くなる。怒りではない。計測だ。
この男は従順に見えて、どこかで自分を“中心”に置いていない。そう気づきかけている目。
レオンハルトはそこで視線を外した。
――外した先には、人がいる。
担架。血。泥。折れた槍。
そして、助けられた槍兵がこちらを見ている。目の焦点が合っていないのに、視線だけが縫い付けられている。命を拾った人間の目だ。
魔法を使えない兵たちも、言葉にできないものを喉に詰まらせたまま、こちらを見ている。誰もが、あの剣を見た。あの剣の凄さを目の当たりにした。
レオンハルトは、その視線を――受け取った。
拍手はいらない。賞賛の言葉もいらない。
“見られている”という事実だけで十分だ。胸の奥が満たされていく。
――命令は守る。喝采は奪う。
術式の外に出るな、というのなら出ない。
出ないまま、術式の内側で戦果を挙げればいい。
ミラはまだ訝しげにレオンハルトを見ていた。従順すぎる。反骨が見えない。なのに折れている感じがしない。
その違和感が正しい。
折れていない。
ただ――次の勝ち方を選んだだけだ。
レオンハルトは歩き出した。ミラの横を通り過ぎるでもなく、追いかけるでもなく、真正面から“観客”の方へ向かう。
助けられた槍兵が、思わず息を吸った。
その音が小さく響く。まるで祈りの始まりみたいに。
レオンハルトは左腰の剣を、軽く確かめるように指先で押さえた。鞘の古い革が、指に馴染む。父の手の温度が一瞬だけ幻のように蘇る。
抜くべき瞬間が来た時に――誰の名が叫ばれるか、もう決まっている。
遠く、白い空の奥で魔獣の咆哮が響いた。
それは次の舞台の開幕の合図に聞こえた。
レオンハルトは胸の奥で静かに笑う。
今の彼にとっては、それすら世界の祝福のように思えた──。




