第3話 レオンハルト・グランディオール
夜明けは、容赦なく訪れた。
空が白み、雲の端に薄い光が差し込む。
それだけで前哨基地の空気が切り替わった。昨日まで張り付いていた夜の重さが、ただの待機時間だったかのように剥がれ落ち、兵たちは慌ただしく動き始める。
鉄と油の匂い。
乾いた号令。
布越しに伝わる鎧の冷たさ。
そして遠くで、魔獣の咆哮が地鳴りのように低く響いた。
レオンハルトは列の後方にいた。
支給された鎧は簡素で、身体に合っているとは言い難い。それでも隙が目立たないのは、立ち姿が崩れないからだ。金髪は短く束ねられ、灰色の瞳は眠っていない。腰の剣だけが、場違いなほど静かにそこにある。
前に立つ担当官が掠れた声で読み上げる。
「偵察班の報告。森の縁に魔獣群。規模は中。……だが問題は別だ」
担当官は言葉を切り、唇を舐めた。兵の顔を見ているのではない。兵たちの背後にある“逃げ道”を探す目だ。
「魔力の流れが乱れている地点がある。術式が安定しない。魔導兵団の到着まで、こちらで時間を稼ぐ」
時間を稼ぐ。
その言葉はいつも柔らかい。だが意味は硬い。
――生き延びる前提ではない。
列の中で息が詰まる音がした。誰かが咳払いで誤魔化し、別の誰かが鎧の留め具を必要以上にいじる。手を動かしていないと恐怖が前に出る。
隣の赤茶髪の若者が、声を潜めて言った。
「……術式が安定しないって、それ魔法が効きにくいってことだよな?」
若者は自分の杖を見た。新品の金具が、場違いに光っている。
「第二位階まで使えるって言ったけどさ……外れたらなんの意味もないぞ? なあ、剣って……こんな時、役に立つのか?」
レオンハルトは答えなかった。
言葉は薄い。刃の重さほど確かなものではない。
号令が飛ぶ。
「前進!」
隊列が動き出す。足元の地面は湿り、踏み込むたび泥が靴底に絡みつく。森が近い。視界が狭く、音が吸われる。
だが、“何となく”悪くはない場所だと感じた
魔獣にとってではない。──剣士にとって、だ。
◇
森の縁に差しかかった瞬間、空気が変わった
冷気が濃くなる。匂いが薄れる。
まるで世界の輪郭が一段ぼやけたような――そんな感覚。
「……ここか」
誰かが呟く。
魔法を扱う者ほど、違和感が強いのだろう。若者が杖を握り締め、指先を震わせた。
その時だった。
前方右、茂みが爆ぜるように揺れ、兵が一人引きずり倒された。悲鳴は短い。喉が裂けたような音で途切れた。
魔獣。
狼に似た体躯。だが二回りは大きい。牙は長く、目が異様に澄んでいる。一体ではない。二体、三体――影が連なって跳び出してくる。
「来るぞ!」
怒号とともに魔法が放たれる。閃光、爆ぜる音──しかし、光が霧散した。
火球は途中で散り、氷槍は形を失う。術式板が嫌な高音を立て、魔力石の表面に細い罅が走った。
「くそっ……!」
赤茶髪の若者が杖を掲げ、詠唱を絞り出す。
だが術式が空中で揺れ、定まらない。焦れば焦るほど、手元が狂う。
魔獣が間合いを詰める。
誰かが転ぶ。
誰かが叫ぶ。
隊列が崩れかける。
「うわぁぁあああッ!! 来るなぁぁあああッ!!」
そして―─悲痛な叫びと対照的に、レオンハルトの世界は異様なほどに静かだった。
音が遠のく。血の匂いが鮮明になる。
視界は狭まるのではなく、必要なものだけが残って削ぎ落とされる。
金属の擦れる音が、やけに澄んで聞こえた。
思考はない。
あるのは距離と角度と、次の一手だけだ。
踏み込み、刃が走る。
──恐ろしいほど呆気なく、魔獣の首がぽとりと落ちた。
遅れて血が噴き出した。
赤が白い息の中で踊り、泥に吸い込まれる。
次。
背後の気配。
振り返らず、刃を引く。
胴が裂け、魔獣が地面を転がった。音が少ない。あまりに静かだ。
三体目。
跳躍。軌道を読み、刃を振る。
魔獣は空中で真っ二つとなった。
「け、剣士ッ!」
叫び声が聞こえる。声の主を確かめる余裕はない。
視界の端で兵が倒れるのが見えた。魔獣が迫る。
距離を測る。間に合う。
踏み込み、刃を走らせる。
魔獣の頭部が地面に転がった。
助けられた兵が呆然と見上げてくる。だが、その目の意味を読んでいる暇はない。次が来る。
――まだ、来る。
呼吸は乱れていない。
身体が軽い。剣が、進むべき場所を知っている。
そう錯覚するほど、抵抗がなかった。
誰かが勇気を振り絞って前へ出る。槍先がぶれる。魔獣はそれを見逃さない。
レオンハルトは迷いなく間に入った。
刃が走り、魔獣が崩れる。
その繰り返しが続いた。
時間の感覚が消える。何匹倒したのか分からない。ただ、ひとつ確かなことがあった。
縋るように続けた素振り。
凍える夜、手の皮が裂けても止めなかった型稽古。
剣を握り続けた日々が、今この瞬間、刃の軌跡として返ってきている。
――俺は、間違っていなかった。
胸の奥で鳴り続けていた鐘の音が、少しだけ高くなる。不安の音ではない。それは高鳴りの音だ。
◇
突然、熱と光が森を覆った。
術式が、今度は揺れない。
濁っていた空気が押し流され、世界の輪郭が一気に鮮明になる。
魔導兵団だ。
地面に巨大な陣が刻まれ、閃光が走り、残った魔獣は瞬く間に薙ぎ払われた。炎の壁が森を舐め、氷が退路を塞ぎ、雷が止めを刺す。
圧倒的な、時代の力。
兵たちは安堵の息を漏らしかけ――しかし、その息が喉で止まった。
森の奥が、もう一度揺れたのだ。
今度の揺れは枝葉が擦れる軽い音ではない。地面が歪むような、重い振動。
魔導兵団の先頭――第三魔導兵団 第七中隊長、リヒト・ヴァイスハルトが、馬上で僅かに視線を上げた。
隣で副官カイ・ローヴェンが、冗談めいた調子で言いかけ、すぐ喉を詰まらせる。
「……あ、嫌な予感のやつですこれ」
次の瞬間、森から“それ”が出た。
狼の形をしている。だが、サイズが違う。
四肢の一本が人の胴ほどもあり、背中には黒鉄のような骨板が幾重にも重なっている。歩くたび、骨板が擦れ合って乾いた音を立てた。
目は凍り付いた水面のように光を反射し、感情の温度を拒んでいた。
周囲の魔獣が、まるで従兵のように一歩退く。
そこで気づく。
これは“群れ”ではなく、“統率”だ。
誰かが呻く。
「……魔核持ち」
魔核――魔力の核を内に抱え、常識の枠から外れた個体。
それを確認し、リヒトが短く命じた。
「陣、再展開。中心をずらせ。術式、三段。拘束から入れ」
魔導兵たちが散り、術式板が光を増す。
だが“魔核持ち”は、こちらの準備を待たない。
地面を蹴った。
巨体が跳んだ瞬間、風が裂ける。
狙いは魔導兵団の中央――術式の要だ。
「散開!」
カイが叫ぶ。普段の軽口が剥がれ、声が鋭くなる。
魔導兵たちが跳ぶ。間一髪で躱す。だが一人、足が遅れた。
巨狼の爪が落ちる。
落下の速さが異常だった。空気が裂け、爪先が光を引きちぎる。
間に合わない――誰もが思った、その刹那。
剣が動いた。
レオンハルトは、考えるより先に踏み込んでいた。
世界が静かになる。
さっきまでの戦闘とは質の違う静けさだ。濁りが一層深く、空気が重い。
魔核持ちの周囲だけ、魔力が渦を巻いている。触れずとも圧が分かる。呼吸のたび胸の内側が押される感覚。
――魔法が揺れる理由は、これだ。
刃を抜く音が、やけに澄んで聞こえた。
レオンハルトは落下点へ入る。
爪が描く軌道を“追う”のではなく、“先に置く”。そこへ自分の身体を合わせていく。
刃が走った。
骨板と骨板の境目――一瞬だけ現れる隙間を縫う。
通る。だが軽くはない。硬い抵抗が刃に噛みつき、手首から肘、肩へと震えが返る。
爪が僅かに軌道を狂わせた。
それだけで救われた魔導兵が転がり、地面を這う。
生きた。
だが巨狼は止まらない。
今の一太刀を“見た”というより“感じ取った”ように、巨体が踏み込みを変えた。
骨板が擦れ、低い唸りが腹の底を揺らす。
次の攻撃が来る。速い。重い。
ただ速いのではない。相手の身体そのものが武器だ。ぶつかるだけで骨が砕ける。だから角度をつけていなした。──誰に教わるでもなく、そうすべきだと理解していた。
レオンハルトは距離を詰めた。
近づけば、隙が見える。
剣は割れない。なら開ける。
最初に狙うのは、足。
前脚の関節。骨板の重なりの薄い内側。
刃を滑り込ませ、腱を断つ。
――重い。
刃が沈む感覚がある。切れた手応えはある。
だが巨狼は倒れない。
倒れないまま、怒りでも痛みでもない“圧”を増した。
魔力の渦が膨らみ、周囲の空気がさらに濁る。兵の何人かが息を詰まらせ、膝をつきかけた。
「……拘束、効かない!」
魔導兵の声。術式が噛み合わない。
糸のような拘束陣が伸び、巨狼の足元でほどける。魔力の乱流が術式を“ねじる”。
カイが歯噛みするように言う。
「中隊長、これ術式が――!」
「分かっている」
リヒトは馬上で動かない。
動かず、ただ一点を見ている。レオンハルトの剣の軌跡を。
巨狼が吠えた。
音が暴力だ。鼓膜が震え、胸が鳴る。
次の瞬間、尾が来た。
鞭のようにしなる。槍の穂先が付いたような尻尾が横薙ぎに振り抜かれ、木の幹が裂ける。直撃すれば、人間は形を保てない。
レオンハルトは退かない。
半歩だけ入って、尻尾の“根元”へ視線を移す。振り切るために、必ず体幹がねじれる。そこに遅れが出る。
遅れた瞬間、刃を走らせた。
尻尾の継ぎ目。深くは入らない。入れない。
だが“切り込み”は入った。
巨狼の尾が僅かに鈍る。
それで十分だった。
巨狼が前に出る。
踏み込みのたび地面が沈む。
レオンハルトは息を整え、足場を選ぶ。泥の深い場所には入らない。踏み込みが鈍る。
逆に、木の根が露出した硬い土を拾い、そこへ巨狼を誘う。
――誘う。
自分でも驚くほど自然に、戦いが組み立てられる。
努力──それだけでは説明のつかない、異様なほどの剣の才。
巨狼が跳んだ。
真正面から来る。死が近い。
レオンハルトは、わずかに身を引いた。
引いて、見せた。──「逃げる」と。
巨狼の意識が一瞬、前に伸びる。獲物を押し潰す感覚を先に確定させようとする。
その瞬間、着地点が“浅く”なる。
レオンハルトはそこへ入った。
刃が下から走る。腹ではない。
腹は頑強な骨格に守られている。
肋の隙。胸郭の下端。剣先が入る“穴”が一瞬だけ開く。
だが入った瞬間、巨狼の身体が反射で締まった。筋肉が刃を挟みに来る。
――挟まれる。
レオンハルトは即座に刃を抜かない。抜けば弾かれる。
代わりに、体重を落とし、剣を“捻って”隙間を広げる。
刃が鳴る。金属が嫌な音を立てる。
だが、手応えが変わった。
そこに、熱があった。魔力だ。
胸の奥に“核”がある。魔核持ち――その中心。
しかし、ここで終わらない。
巨狼が暴れる。
爪が薙ぎ、牙が噛みつこうとする。レオンハルトの外套が裂け、肩口に熱い線が走った。血が滲む。
痛みが、逆に意識を澄ませた。
世界がさらに静かになる。
痛みも恐怖も、全部が遠い。
必要なのは一手。
魔核まで“届かせる”一手だ。
巨狼が体を捻る。剣を抜かせないために、筋肉が刃を締め付ける。
なら、締め付けるために必要な“支点”を壊す。
レオンハルトは、足を切った。
さっき断った前脚の腱――その反対側。
今度は深く、確実に。
再び、魔核を狙った刺突。刃が沈んだ。
骨と腱が同時に切れる鈍い手応え。
巨狼の体勢が崩れる。
剣先が、熱の中心へ吸い込まれていく。
抵抗が、最後に一度だけ強く跳ね返った。
それを体幹で受け止め、押し切る。
――届いた。
熱が一瞬、爆ぜた。
光ではない。音でもない。
身体の内側で、何かが“割れる”感覚。
巨狼の動きが止まる。
止まったまま、遅れて――崩れる。
黒鉄のような巨体が地面へ沈んだ。
雪と泥が跳ね、森の空気が一瞬だけ凍る。
静寂。
魔導兵たちが息を止めていた。
兵たちも息を止めていた。
時間だけが遅れて追いつく。
副官であるカイが、信じられないものを見る顔で呟く。
「……いや、ちょっと待ってください。魔核……刺しました? 今、刺しましたよね? 剣で? え?」
誰も答えない。答えが存在しないような空気だ。
レオンハルトは剣先から滴る血を見た。
自分の肩口の血を見た。痛みはある。だが、震えていない。
そして、そこに“手応え”が残っている。
今の一連は偶然ではない。勘でもない。
誰も倒せない相手を倒した。
魔核持ちの魔獣を倒した。
――俺は、強い。
理解した瞬間、胸の奥で眠っていたものが息を吹き返す。
奪われたはずの誇り。押し潰されたはずの価値。
それが一気に膨らみ、熱を持つ。
レオンハルトの喉の奥から、笑いがせり上がった。
最初は小さく。
「……ハッ」
次に、抑えきれず。
「……ハハッ」
そして、決壊する。
「アーハッハッハッハッ!!」
笑いが森に響いた。
上品でもなければ、賢しらでもない。欲望に忠実で、厚かましく、誇り高い笑いだ。
レオンハルトは胸を張った。
視線の先に、敵も味方もいない。ただ“世界”がある。世界へ向かって、宣言する。
「俺はッ!! 俺こそがッ!! レオンハルト・グランディオールだッ!!」
その声が落ちた瞬間、風が止まったように静かになる。
次いで、誰かが息を呑み、誰かが笑い、誰かが呆然とした。
カイが耐え切れずに噴き出す。
「うはー、これは芸術点高いですよ」
「カイ」
リヒトの声は短い。
「はいはい。黙ります黙ります。……でも中隊長、今のは黙れませんって。だって魔核持ちですよ? 普通は――」
カイの軽口が途中で止まった。
リヒトが、馬上からレオンハルトを見ていた。
遠目でも分かる。あれは評価ではない。
確認ではなく、確信だ。
レオンハルトも、ふと視線を上げる。
戦場の喧噪が戻りかけた瞬間、静かに一点へ焦点が合う。リヒトと、目が合った。
ほんの一瞬。
言葉はない。だが互いに理解する。
リヒトの口元が僅かに動いた。笑みではない。だが、冷たいままでもない。
「……面白い」
それだけを残し、彼は部隊へ命じた。
「前線を押し戻す。今だ」
世界が再び動き出す。
その中心で、レオンハルトはまだ笑っていた。
膨張した自尊心が胸の中で熱を持ち、同時に冷たい覚悟も生まれる。
──俺は、剣技を磨き続ける。
剣だけが、自分を何者かにしてくれると知ったから。
これが崇高な精神でも、ましてや正義なんてものではないことは、レオンハルト自身が最もよく分かっていた。




