第2話 前日
出立の朝、雪はやんでいた。
屋敷の屋根の縁に残った白が、鈍い光を返している。踏みしめれば凍った地面が乾いた音を立て、息を吸い込むたび胸の奥がひりついた。空気は薄く、どこか金属の匂いがした。
レオンハルトは庭に立ち、しばらく自分の手を見ていた。
指の節は硬く盛り上がり、皮膚は裂け、薄い布の下で血が乾いて黒ずんでいる。子どもだった頃の柔らかさはもうない。
背もかなり伸びた。
それでも“図体が大きい”という種類の迫力ではなく、冬の空気の中でも姿勢が崩れないせいで、立っているだけで周囲の目を引く。無駄のない肩と背、細い腰――鍛えたというより、削り落として残った形だ。
金髪は乱れたまま結われ、額に落ちる数本が目の上に影を作っている。冷たい光を含んだ髪色は、雪の白と相性が悪いはずなのに、妙に馴染んで見えた。目は灰に近い暗色で、光を受けても温度が上がらない。貴族らしい整った顔立ちは残っているのに、頬の線は痩せ、幼さだけが削がれていた。
昨夜の言葉が、まだ喉に引っかかっている。
――逃げない。
口にした瞬間から、それは引き返せない刃だった。
後悔はない。ないはずだ。だが胸の奥のどこかが、ずっと小さく震えている。硬い鐘の音みたいに、止まらない。
扉が開く音がした。
父が出てきた。外套を羽織り、帯に何も差していない。玉座の間と同じだ。余計な飾りなどせず、必要なものだけを残した姿。
父はもともと大柄ではないが骨格が太い。剣士の体だ。それでも今は、肩の角が僅かに落ちている。髭は剃りきれず、目の下が青い。昨夜の怒りと焦りがそのまま皮膚に残っていた。
父はレオンハルトの腰元へ視線を落とし、短く言った。
「……抜くな」
命令というより、祈りに近い。
「この国は剣を恐れない。だが、剣を抜いたという“事実”には目敏い」
父はそれ以上言わず、視線を逸らした。
母が遅れて出てくる。小さな荷を抱えていた。粗い布の袋だ。昔なら侍女が何人もかりで整えたものを、母は黙って自分で縫い直している。
白い指先は赤く荒れ、髪はきちんと結われているのに、頬は青い。目だけがやたらと静かで、そこに涙の居場所がない。
「これ……」
母は袋を差し出し、途中で言葉が途切れた。
説明した瞬間、それが“最後”の荷になる気がして。
レオンハルトは受け取る。中は軽い。乾いた布の擦れる音が小さく鳴った。
母は笑おうとして、笑えなかった。
代わりに、声だけを整える。
「……行ってらっしゃい、レオン」
帰ってこい、とは言えなかった。
父は少し間を置いて、レオンハルトの肩に手を置いた。硬い掌。剣を握る者の手。
「どんな形でもいい。……生きてくれ」
それだけだった。
レオンハルトは頷き、背を向ける。
歩き出してから、自分の足がわずかに浮ついているのに気づく。寒さのせいにしたかったが、浮つきは体の奥から来ていた。
◇
徴兵の集合地点は、王都外れの臨時詰所だった。
粗末な柵、乱雑な帳簿、乾いた怒号。ここには王家の影すらない。泥の上を踏み固めただけの地面に、靴底が吸い付く。吐く息は白いのに、場の空気は妙に湿っている。
列に並ぶ男たちの顔は硬い。貧しさに慣れた者、罪を隠す者、怯えを飲み込む者。
誰もが、他人の不幸を見て自分を落ち着かせようとしている目をしていた。頬骨が尖り、目の下に影が落ち、口元が乾いている――飢えと不安は、人の顔を同じ形にする。
レオンハルトが列に混じった瞬間、視線が刺さる。
「おい、見ろよ」
背後で声がした。
「……あれ、元王族じゃねえか?」
笑いではない。興味と悪意が混ざった湿った声だ。
視線が背中に貼りつく。指がさされる気配が、皮膚の上を這う。
レオンハルトは振り返らない。振り返った瞬間、相手の土俵に立つ。
代わりに、顎を僅かに上げ、呼吸を整える。目を伏せない。それだけで十分だった。
係官が名を呼び、レオンハルトの前に来た。
脂の浮いた前髪、擦り切れた制服、喉仏の目立つ細い首。紙を扱う手だけがやけに白く、剣も血も知らない指だ。
「レオンハルト・――」
途中で止まる。
続く家名は、もう“公的には”存在しない。
係官は咳払いをして、声の温度を下げた。
「北方魔獣防衛線、前線補充」
──前線補充。つまるところ最前線。
列の中で空気がわずかに沈む。
誰も声を上げない。ただ、何人かの喉が鳴る。唾を飲む音だけが妙に大きい。背中の汗が冷え、首筋を伝う感覚が生々しい。
係官は気にすることなく印章を押した。紙に押し付ける音が乾いている。レオンハルトは受領の印を押した。指が汗で僅かに滑る。
――逃げない、と言った。
だから、ここで目を逸らすな。
◇
北方へ向かう輸送隊は馬車の列だった。
冬の道はぬかるみ、車輪が泥を噛むたび鈍い衝撃が背骨まで伝わる。荷台には人が詰め込まれ、息と汗と不安の匂いが混ざり合う。
揺れで肩がぶつかるたび、誰かが小さく舌打ちをした。苛立ちではない。怖さの置き場所がないだけだ。
隣に座った若い男が、レオンハルトの腰元をちらりと見て露骨に顔をしかめた。
赤茶の髪。そばかすの散った頬。まだ肉のついた口元が、怖さを隠すために軽口を選んでいる。目は落ち着かず、頻繁に瞬きをする。腰には短い杖。先端の金具が新品の光をしていた。
「……剣? マジで?」
声は軽いが、目は笑っていない。
自分の価値を守るために他人を下げる、そういう類の目だ。
「今どき、魔法なしで生き残れると思ってんのか?」
レオンハルトは視線を向けた。相手はそれだけで少し得意になる。怯えが薄まるからだ。
「……杖を持ってるんだな」
レオンハルトがそう返すと、男は胸を張った。
「おうよ。第二位階魔法までなら使える。詠唱短縮もできるぜ?」
誇らしげな声。
それがこの時代の通貨だ。金貨よりも、名よりも、価値を持つ。
男は、わざとらしく息を吐いた。
「元王族って、魔法使えねぇんだろ? じゃあさ、最前線って――」
「黙れ」
向かいに座っていた年配の兵が、低い声で遮った。
髪と髭に白が混じり、頬に古い裂傷が走っている。右手の小指が短い。斬られたのだろう。
目だけが澄んでいて、荷台の空気と噛み合っていない。戦場を知っている目だ。
「ここは軍だ。身分の話は不要だ」
若い男は舌打ちし、視線を逸らす。それでも小声で吐き捨てた。
「……剣振り回して終わりだろ」
レオンハルトは言い返さなかった。言い返せば争いが生まれる。争いは消耗だ。
彼は布の下の指をゆっくり曲げ伸ばしし、痛みで頭を冷やす。自分の中の熱が暴れないように、呼吸の回数を数える。
今さら考えても仕方がないことは、考えないようにした。
◇
日が傾きかけた頃、列の外側を別の部隊が追い抜いていった。
魔導兵団。
発光する術式板、胸当ての刻印、腰に提げた魔力石。彼らが行軍するだけで、周囲の空気の粘度が変わる気がした。温度ではなく圧だ。存在感の圧。
隊列の先頭にいた青年将校が、荷台の徴兵兵を一瞥した。
同情も嫌悪もない。道端の石を見るような無関心――そう見えたのは最初だけだった。
将校の視線が、ふっと“ほどける”瞬間がある。
荷台を流す眼差しが、剣のところで止まった。
ほんの一瞬。
だが、止まり方が違う。
珍品を見る目でもない。嘲る目でもない。
将校は馬上から身をわずかに乗り出し、レオンハルトの手元を見た。剣そのものではなく、姿勢。肩の落とし方。肘と手首の角度。重心。
そこだけを、無駄なく抜き取るように。
「剣か」
独り言のような声。
しかし、その声には微かな熱があった。
隣を走る副官が、軽く鼻で言う。
「今どき、剣を持ち込むとは。怖いもの知らずか、ただの――」
「違うな」
将校は被せるように短く言った。
副官が言葉を止める。
将校は表情を変えないまま、視線を外さず続けた。
「……あれは、剣を持っているんじゃない。剣を捨てていないだけだ」
意味を噛み砕く説明はしない。
だが副官の背筋が、わずかに伸びた。
将校は最後に、レオンハルトの顔まで確かめるように見てから、ふっと口元を動かした。笑みではない。
読めない、何かの確認を終えた顔だ。
「面白い」
それだけ言って、すぐ前を向く。
魔導兵団は淡い光を揺らしながら遠ざかった。
残された荷台には、言葉にならない感情だけが沈殿する。
「あいつらが本命だ」
誰かが呻くように言う。
「俺らは……」
続きは言えない。言えば現実になる。
代わりに短い吐息が落ちた。笑いではない。逃げ場のない吐息。
レオンハルトは目を閉じる。父の取り乱した顔が浮かぶ。母の震える声が浮かぶ。
胸の奥が軋む。それを、自分の中で静かに折り畳む。折り畳めなければ、進めないから。
◇
夜、野営。
焚き火は少なく、火の周りには人が群がった。熱を奪い合うように肩を寄せる。空は深く暗く、星が刺すように冷たい。
火の粉が舞うたび、誰かが反射で肩をすくめる。落ち着かない夜だ。
レオンハルトは焚き火から少し離れた場所に座り、膝に剣を横たえた。鞘の冷たさが布越しに伝わる。
眠れる気がしない。眠れば、夢に玉座の間が出る。父の背中が出る。
背後で足音がした。
昼に絡んできた若い男が、酒臭い息を吐きながら立っている。頬が赤く、瞳の焦点が甘い。怖さを酒で溶かし、余った分を他人にぶつけに来た顔だ。
「なあ、元王族」
声は軽いが、芯が湿っている。
「お前さ、なんで参加したんだ?」
レオンハルトは答えない。
答える義務がない。それでも、男は勝手に続けた。
「逃げりゃよかったじゃん。コネとか……あー、ねぇか。元だもんな」
下卑た笑い声が静かに響く。
周囲の視線が遠巻きに集まる。誰も止めない。止めれば自分が標的になる。
戦場へ向かう前の人間は、自分の恐怖を他人に押し付けたがる。
レオンハルトは立ち上がった。
剣は抜かない。父の言葉が脳裏をよぎる。
「……退け」
低い声。
男の口が一瞬止まる。
それでも虚勢で一歩近づく。顔が近い。酒の匂いが鼻を刺す。
「剣で脅す? 抜けよ。抜いたら――」
レオンハルトは動かない。
抜かない。だが、退かない。
それだけで空気が張り詰めた。火のはぜる音が、やけに大きい。男の瞳の奥に、僅かな揺らぎが生まれる。
――何だ、こいつ。
自分より弱いはずの相手が、微塵も崩れない。
それが、途轍もなく不気味だ。
「やめとけ」
横から年配兵が入った。
「明日から地獄だ。今ここで削り合うな」
男は舌打ちし、肩をぶつけるように去っていった。
焚き火の音だけが残る。レオンハルトは息を吐き、膝の力が抜けそうになるのを堪えた。
剣を抜かずに済んだ。
だが胸の奥がざらつく。皮膚の内側を砂で擦られたように。
――こういうものから、目を逸らさずに歩く。
それが、生きるということ。
レオンハルトは布の下の掌を確かめた。
血が滲み、鈍い痛みがじんわりと広がった。
◇
数日後、北方戦線の前哨基地が見えた。
木柵。見張り塔。泥と血の匂い。
空には灰色の雲が垂れ込み、風が冷たい針のように肌を刺す。
門をくぐった瞬間、怒号が飛び交った。
「担架を運べ!」
「弾薬を! 魔力石が足りん!」
「補充兵! こっちだ!」
兵士たちの目は虚ろだが、手は止まらない。
ここでは命が安い。安いから回転が速い。
レオンハルトたちは整列させられ、担当官の前に立たされた。
担当官は背が低く、顔色が悪い。鎧は整っているのに泥がこびりつき、指先は常に震えている。長く前線にいるが、慣れたのではない。すり減っただけだ。
「第一波、前線補充。歩兵に編入。武器は各自。魔法適性なしは――」
言葉が切れ、担当官の目がレオンハルトの剣で止まる。
ほんの一瞬、口角が動いた。笑みではない。計算だ。
「……魔法適正なしは前へ。前へ出れば役に立つ」
その場に短い沈黙が落ちた。
誰も笑わない。笑える余裕がない。ただ、数人が視線を逸らす。別の数人が唇を噛む。理解は共有されている――前へ出る者の意味が。
レオンハルトは表情を動かさなかった。
担当官は続ける。
「明朝、出撃」
「生き残りたいなら、祈れ。魔導兵団が間に合うことをな」
それで解散だった。
レオンハルトは基地の空を見上げた。
雲の向こうに太陽はあるはずなのに、光は届かない。この場所は空まで重い。
彼は腰の位置を確かめるように帯を押さえ、呼吸をひとつ深く落とした。
――俺は剣しかない。
それは弱さの告白ではない。確認だ。
自分がどこまで落ちても、手の中に残るものの確認。
そして、ほんの小さく思う。
――だったら、剣に全てを懸けるしかない。
風が吹く。木柵が軋む。
遠くで、魔獣の咆哮のような音がした。
明日が来る。その事実だけが、やけに鮮明だった。




