第1話 王位簒奪
雪は、王都を優雅に見せるために降っているのではない。その日ばかりは、そう思えた。
白は音を奪い、輪郭を鈍らせ、あらゆるものを“同じ”にしていく。王家の赤絨毯も、金の装飾も、柱に刻まれた紋章も、雪の冷たさの前では等価だった。
世界が、何事もなかったかのような顔で塗り替えられていく。
玉座の間は静まり返っていた。
剣の匂いがしない。代わりに、墨と薬品と金属の匂いが漂う。床一面に描かれた巨大な魔法陣が淡く光り、その脈動のたび空気がほんのわずかに震えた。
そこに整列する魔導官たちは、敵というより裁定者だった。勝者ではなく、“時代の正解”を携えた者たち。
「――以上をもって、統治権の移譲を宣言する」
声は淡々としていた。裁判の宣告よりも事務的で、だからこそ残酷だった。
幼いレオンハルトは、母の手を握っていた。絹手袋越しに伝わる温度が、いつもより低い。母は前を向いたまま、瞬きの回数だけが増えていく。泣いてはいない。泣けないのだ。
父は玉座の前に立っていた。
王冠はない。儀礼の外套もない。腰に剣を帯びた、ただの一人の男として――それでも背筋だけは揺るがなかった。
父は何も言わなかった。反論もしない。抗議もしない。剣も抜かない。
ゆっくりと剣を外し、床に突き立てた。
金属が石畳に触れる音が、信じられないほど大きく響いた。
「……父上」
自分の声が、情けないほど細かった。
父は振り返り、レオンハルトを見た。
怒りはない。悲しみもない。
ただ――目の奥に、決して折れない何かが沈んでいる。
「レオン」
父は短く言った。
「よく見ておけ」
それだけだった。
だが、その言葉は雪より冷たい重さで胸に沈んだ。父が玉座を降りる背中は、あまりに静かで、あまりに誇り高く、幼いレオンハルトの目に焼き付いた。
◇
屋敷を追われた夜、雪は相変わらず降っていた。
広すぎる食堂は灯りが足りず、壁に揺れる影が、まるで見えない客のように三人の周囲を取り囲む。使用人は去った。食器は減った。音は消えた。
金のカトラリーが触れ合う軽い音すらない。沈黙が、皿より重かった。
母がようやく口を開いた時、その声は擦れていた。
「……本当に、世界は魔法の時代なのね」
父は頷いた。それだけで会話が終わってしまいそうな沈黙を、レオンハルトが堪えきれずに破る。
「父上は……負けたの?」
父の手が、僅かに止まった。杯を置く音が、一拍遅れる。
「負けたわけではない」
父は言い切った。
「ただ、選ばれなかっただけだ」
選ばれない。
その言葉が幼いレオンハルトにはよく分からない。ただ、喉の奥がきゅっと狭くなった。
「じゃあ僕たちは……」
父は視線を落とし、息を吸った。言葉を探しているのが分かった。寡黙なのではない。黙って耐えているのだと、その瞬間だけ理解できた気がした。
「お前は、お前だ」
父はレオンハルトの頭に手を置く。
その掌は、剣を握る人の硬さと温かさがあった。
「それ以上でも以下でもない」
母が小さく、笑ったような泣いたような息を漏らした。慰めではない。どうにもならない現実に押し潰されそうな音だった。
◇
没落は音なく進行した。
街に出れば視線が滑る。囁きが背中に貼りつく。
「元王族だ」
「魔法が使えないらしい」
「時代遅れ」
“元”という二文字は便利だった。敬意を剥がし、侮蔑を正当化する。
母は日に日に口数を失った。父は逆に、必要なことだけを言うようになった。怒鳴らない。泣かない。嘆かない。ただ、家の中でだけ、ほんの少しだけ肩が落ちている夜が増えた。
レオンハルトは、その背中を見てしまう。
見てしまうたび、胸の奥で何かが崩れていく。
――尊厳が、崩れさる。
自分が何者なのかを示す看板が剥がれ落ち、地肌を晒していく。晒された地肌に、冷たい視線が突き刺さる。痛みだけが残る。
◇
初めて剣を握ったのは、ある夜だった。
眠れない。何をしても、頭の中に玉座の間が浮かぶ。父の背中が浮かぶ。母の震える手が浮かぶ。
息をしているだけで胸が詰まり、涙が出るわけでもないのに喉が焼けた。
屋敷の裏庭に出ると、空気が肺を刺した。月明かりが雪に反射し、世界が薄青く光っている。
倉庫に残っていた剣を見つけた。父が玉座の間で突き立てた剣だ。
触れた瞬間、冷たさが掌に貼りついた。
それだけで泣きそうになった。
――俺に残っているのはなんだ。
言葉にならない、自分の中に残った最後の何かを引き止めるために剣を振った。
重い。腕が引きちぎれそうだ。足がもつれる。剣先は地面を叩き、雪が跳ねる。
情けない。惨めだ。王家の血をひく者が、剣一本まともに振れない。悔しくて仕方がない。
それでもひたすら振る。
心の内に巣食う薄暗いものから目を背けるように、がむしゃらに振った。
理由は高尚ではない。復讐でも正義でもない。
ただ、これすらなければ本当に自分には何も残らないと知っていたから。
翌日も、その翌日も。
風が吹けば指先が裂け、剣柄が血で滑った。手当てをする金はない。布で巻いて、また振る。
空腹で腹が鳴っても振る。熱が出ても振る。肩が上がらなくなっても、片手で振る。
矯正する──歪む腕を、歪む足を、歪む呼吸を。
自分が崩れる感覚が怖かった。
剣を置けば崩れる。崩れたら、“下”に落ちる。
誰にも名前を呼ばれない。
誰にも知られない。
誰にも気にもされない。
それは、死より恐ろしかった。
◇
それから数日後。
夜明け前、背後で足音がした。
振り返ると、父が立っていた。外套だけを羽織り、髪は乱れている。寝不足の顔だった。
レオンハルトは剣を隠すように構え直した。叱られる、と直感した。
しかし父は何も言わず、しばらく剣の軌道を見ていた。氷のような沈黙が、呼吸を重くする。
やがて父が一歩だけ近づき、短く言った。
「肘を開くな」
それだけ。
父の指が、ほんの一瞬だけレオンハルトの肘に触れる。正しい角度に押し戻すように。
そしてまた離れ、距離を取った。
「……父上」
呼びかけても、父は頷くだけだった。
それでも、去り際に小さく言う。
「……手が裂けている。布を巻け」
ただそれだけ。
ただそれだけの一言が、レオンハルトには堪えきれないほど温かかった。
剣を振る理由が、ほんの少しだけ変わった気がした。自分が壊れないためだけではない。父のためにも、剣を振らなければならない。そんな傲慢な錯覚が、胸を満たした。
◇
父は時々、夜明け前に現れては、ほんの一言だけ残して去った。
「足を止めるな」
「呼吸を切るな」
「視線を落とすな」
必要なことだけ。
だが、その少なさが逆に父の痛みを伝えてきた。父は喋らないのではない。多く喋るほどの余裕がない。だから寡黙でいる。
レオンハルトはそれを見て、さらに剣を振った。父が壊れないように。
いや違う。──自分が壊れないために。
◇
数年が過ぎた。
屋敷には、剣を振る音だけが残った。雪の日も、雨の日も、風の日も。
剣を振り続けた時間だけが、レオンハルトの足元を固めた。
そんなある日、封蝋の施された一通の文書が届いた。
母がそれを受け取り、封を切る手が止まった。紙の端が震え、封蝋の欠片が床に落ちる。
「……レオン」
母の声は細く、頼りなく、今にも途切れそうだった。
差し出された紙は、丁寧だった。形式に則り、礼儀正しく、言葉遣いだけは整っている。
だが、その整い方がかえって不気味だった。人を人として扱わない時の、完璧さ。
『徴兵令 北方魔獣防衛線 最前線配属』
――最前線。
レオンハルトが息を止めた、その瞬間。
温厚だったはずの父が椅子を蹴り飛ばした。
がたん、と乱暴な音が食堂に響く。今までこの屋敷で聞いたことがない種類の音だった。
父は紙を奪うように掴み、目を走らせる。配属先を確かめた途端、父の顔から血の気が引いた。
「……っ、ふざけるな」
握り締めた指が白い。紙が皺だらけになる。
父は言葉を続けようとして、うまく息が吸えなかった。胸が上下し、目の奥が赤くなる。
「……お前は兵士じゃない」
震える声で、父は言った。
「訓練も受けていない。任官もしていない……そのお前を、最前線に?」
父の言葉が、そこで途切れた。続ければ、意味を口に出すことになる。
この配属は、戦力の配置ではない。帳尻合わせでもない。戻ってこない前提で送り出す、という意味だ。
──つまり、社会的・政治的に邪魔でしかない元王族の“処分”。
父は口元を歪め、壁際の棚を拳で殴った。鈍い音。木が軋む。拳から血が滲む。
母が小さく息を呑み、唇を噛む。止める言葉が見つからない。
父は一度、深く息を吸った。
吸い切れず、吐き切れず、胸の奥で空気が詰まったような呼吸になる。
そして――父は言った。
「……逃げるぞ」
母が目を見開く。
「あなた……?」
父は母の方を見ない。目の焦点が定まらないまま、しかし言葉だけは強引に前へ進める。
「逃げる。今夜だ。荷は最低限でいい。金も要らん。……いや、要る。要るが、そんなものは後だ」
矛盾した言葉が、父の口から次々にこぼれる。
寡黙で、必要なことしか言わなかった父が、初めて言葉を制御できていない。
レオンハルトの胸がきゅっと縮んだ。
──父上が、壊れそうだ。
母が震える声で問う。
「どこへ?」
父は答えられない。答えがないからだ。
王国のどこにも元王族の居場所はない。
父は焦れたように頭を掻きむしり、呻く。
「……どこでもいい。ここに居れば――」
言葉が詰まり、父は口を閉じた。「ここに居れば、お前は死ぬ」と言えなかった。
その沈黙が、レオンハルトの胸を刺す。
父はレオンハルトを見た。
その目は、玉座の間よりもずっと苦しそうだった。
「……レオンハルト。お前は……」
声が割れる。
「お前は、あの連中に殺される必要などない」
その一言で、レオンハルトの中に溜まっていたものが揺らいだ。父はいつも正しかった。いつも冷静だった。いつも「見ておけ」と言った。
その父が今、正しさも冷静さも投げ捨てて、ただ息子を守ろうとしている。
それがたまらなく苦しくて――同時に、温かかった。
レオンハルトは喉の奥が熱くなるのを感じた。泣きそうになる自分に気づき、慌てて息を吸う。
父は続ける。
「……お前の剣は、ここで終わらせていいものじゃない」
父の声は、懇願に近かった。
「頼む。生きろ。生きてくれ……」
母が小さく頷き、泣きそうな顔でレオンハルトを見る。その視線に、逃げろと書いてある。
レオンハルトは、剣を見た。
倉庫の片隅に置かれた、あの剣。父が玉座の間で突き立てた剣。逃げれば、生きられるかもしれない。
だが、そのあとは……?
逃げた先で父はどう生きる?母はどう笑う?そして自分は、何者として息をする?
“元王族”という烙印は、逃げても剥がれない。どこまでも付きまとう。
追われ、隠れ、怯え、息を潜める。──尊厳が音もなく崩れていく。
それを想像した瞬間、レオンハルトの腹の底に冷たい芯が通った。
剣を振り続けた理由が、そこにあった。
これすら失えば、終わる。
下に落ちる。誰にも認知されなくなる。
父の取り乱した姿が、もう一度胸を打つ。
――父上は、今俺を守ることだけを考えている。
その事実が、レオンハルトの中で何かを決めた。
彼はゆっくりと立ち上がった。膝が、わずかに震えている。
それでも、声は意外なほど落ち着いて出た。
「父上」
父が顔を上げる。
レオンハルトは、剣に手を伸ばした。柄を握ると、冷たいはずの金属が、今夜は熱を持っている気がした。
「俺は逃げない」
母が息を呑む。
父の目が揺れ、怒りと恐怖が混ざった色になる。
「何を言っている」
父の声は叱責ではない。必死の否定だ。
レオンハルトは首を振る。
「父上が初めて取り乱した。……俺のために」
言葉にした瞬間、喉が詰まった。だが、目を逸らさない。
「それを見て、俺は……逃げたくなくなった」
父が何かを言いかけ、言えない。母が涙を堪えるように目を伏せる。
レオンハルトは続ける。
「俺は行く」
「ッ!! 馬鹿を言うな!!」
父の声が割れた。
レオンハルトは一歩、父に近づく。剣を胸の前に抱えるようにして言う。
「俺が行けば、父上と母上は生きられる」
「そんな理屈があるか!」
父が叫び、拳を震わせる。
レオンハルトは初めて言葉を強くした。
「ある!」
自分の声の大きさに、自分が驚く。
だが止まらない。
「俺が逃げたら、俺たちはずっと追われる。父上はずっと頭を下げる。母上はずっと泣き顔を隠す。……それが、“生きてる”と言えるか?」
父の目が見開かれる。言葉を失う。
レオンハルトは息を整え、声を落とす。
「俺には……剣しかない」
その一言が、食堂の空気を変えた。父がゆっくりと唇を噛む。
「剣を捨てたら、俺は終わる。父上が見せた背中まで否定することになる」
父の顔が歪む。
泣きそうな顔をする父を、レオンハルトは初めて見た。
それが決定打だった。
レオンハルトの胸の奥で、何かが固く、鋭く形を取る。
「だから行く」
「……死ぬぞ」
父の声は、もう叫びではなかった。
擦れた祈りだった。
レオンハルトは剣を握り直した。掌の傷が痛む。その痛みが、残酷なほどにこれが現実であると知らしめる。
「死なない」
言い切った瞬間、自分でも傲慢だと思った。だが、そう言わなければ立っていられない。
「必ず──生きて戻る」
父は震える息を吐き、膝から力が抜けたように椅子に手をついた。
寡黙な男が、言葉もないまま崩れそうになっている。その姿に胸が締め付けられる。
それでも、決めた。
母が震える声で言う。
「レオンハルト……お願い……」
レオンハルトは母に向き直り、ゆっくりと頭を下げた。王族の礼ではない。息子としての礼だった。
「……ごめん」
謝罪が口から出た瞬間、涙が出そうになる。だが堪える。ここで崩れたら、全部が嘘になる。
ふと視線を窓の外に向ければ、雪が降り続いている。
世界が等しく白に塗り潰されていく中で、ただ一本の剣だけが、彼を現実に繋いでいた。




