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リリアーナの選択  作者: 尾木 愛結
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 この邸に滞在して早二月。


 私の仕事である閨だが、最初のうちは三日おきの間隔だった。

 それが現在では、私の体が慣れてきたせいか連夜という流れになっている。いつも私が先に意識を失ってしまうので、男性と一緒に寝ているのか定かではないけれど。


 それと本人から「旦那様」と呼ぶように言われたので、そう呼ぶようになった。


 旦那様は私の名を呼ぶようになり、優しい声で名を呼ばれると胸の奥が騒めく。口付けも旦那様が教えてくれた。最初は唇を触れ合わせるだけのもの。

 旦那様の舌先が私の唇をなぞり、乾いた唇を湿らせた時は鼓動が高鳴った。その反動で薄く唇が開いた隙を狙い、私の口の中へ弾力のある舌が入ってきた時は、驚きに身を固くしてしまったのである。


 そこから先は頭の中が蕩けるような口付け。

 物語の中では甘い口付けとか濃密という表現が使われているが、これはそんな生易しいものじゃない。互いの舌を絡め合わせ、きつく吸い上げられると意識が保てなくなる。


 私のそんな姿を旦那様は満足げに眺めているのだ。勿論、旦那様の顔は認識できないので表情は分からない。旦那様の纏う空気で察する事が出来る。彼の魔力が私を包む時、何故か意味もなく涙が溢れてしまう。


 旦那様の魔力は私にとって甘美な毒なのだ。



「リリアーナ」



 私の名を囁く声も、きっと甘い毒。

 

 懐妊まで続くと言われたけれど、本当に子が出来るのは難しい。

 先月は月の障りがあったので懐妊には届かず。


 今月は予定日まで余裕あるはずだが、今朝は起きた時から少し熱っぽく感じる。特に体調不良といった感じではなく、完全に目覚めていない状態のふわふわした感覚。


 このまま眠っていても何も言われないだろう。


 私の仕事は旦那様と閨をして子を産む事なのだからーーそれ以外の事は契約にない。

 いつもと少し遅い時間に、ルセが起こしにきた。



「リリアーナお嬢様、おはようございます」


「ルセ……おはよう」


「少し熱っぽいようですね。リリアーナお嬢様、まだ休まれていた方が宜しいですよ」



 私を労わるようなルセに首を傾げて見せた。



「まだ眠いだけだと思うから、湯あみをして頭をスッキリさせたいわ」



 このままベッドの中にいたら再び眠ってしまうだろう。


 ルセに湯あみと着替えを手伝って貰い、朝食を済ませた後は図書室に籠る予定だ。この邸にある図書室は小規模だと聞いたのに、貴族学園と遜色ないほどの大きさと本棚の数に驚く。

 天井まで届く高さの本棚は図書室の壁を覆い、更に均等な配置で本棚が並んでいる。


 ここに滞在している期間内に読みつくせるか。


 私のお気に入りの場所は窓際にある席。

 他の窓は本棚で隠れているが、この窓だけは敢えて残しているのだろう。テラス窓から差し込む光が図書室を明るくしている。本の日焼け防止という意味で窓を潰すのは、学校の図書館も同じだった。


 紙の匂いと静寂さ。

 この空間が堪らなく好き。


 テーブルに本を乗せ、ぱらりとページを捲る。


 私が手にした本はベルニエ国という海産物が豊富な島国の歴史書。この国の言葉は暗号みたいな文字という印象だ。記号を組み合わせて作ったのだろうか。


 私が住むアングラード王国の文字は、世界共通語でもあるので覚えやすい形をしている。アルファベットを覚えたら簡単なのだ。他の国と違って特徴がないので、個人的に物足りなさを感じてしまう。

 私の個人的な感想はともかく、文字は簡単な方が覚えやすい。



「リリアーナお嬢様、昼食の準備が整いました」



 ルセに呼ばれて席を立つ。



「ーーっ!」



 くらりと眩暈を覚え、その場に蹲る。



「お嬢様!」


「大丈夫よ。ちょっと眩暈がしただけ」


「医師をお呼び致します」



 ルセに支えられて寝室へ入ると、着ていた服から夜着に着替えさせられてしまった。


 そして彼女は本当に医師を呼びに行ったらしい。

 いきなり立ち上がったのが原因だと思うが、自己診断は良くないと思い返す。間もなくして医師と一緒に、ルセが寝室へ入ってくる。


 医師は年を重ねた年配の女性だった。



「医師をお連れして参りました」


「大袈裟ね」



 そして医師が私の診察を終えると、ルセと何か会話をしてから寝室から立ち去る。


 続いてルセも寝室から消えていた。

 私はベッドの上で横になっているうちに眠っていたらしい。体を軽く揺さぶられ意識が浮上する。薄く目を開けると旦那様がベッドの脇に腰を降ろし、私の頬に手を当てていた。



「……旦那様?」


「起こしてすまない」



 旦那様の声の様子から心配しているのは分かるが、相変わらず顔がはっきり見えない。


 室内は照明で明るく照らさているのに、旦那様の顔は朧気なのだ。髪色は照明に反射してこげ茶に見える。元から暗い色なのだろう。この国で茶系は比較的に多い髪色なので、旦那様の髪色は特に目新しい色ではなかった。



「リリアーナ、体調はどうだ?」


「怠くて眠い……」



 今にも夢の世界へ落ちていきそう。

 

 夢現でいる私の頬を撫でる旦那様の大きな手。きちんと手入れがされているが、手のひらは意外と無骨である。これは日常的に剣を握っている手で間違いないだろう。均整の取れた体つきは体を動かさないと維持できない。

 普段は書類仕事が多いと聞いている事から、どこかの騎士団の団長と言われても納得してしまう。


 旦那様の言葉が子守歌のように耳に響く。

 夢心地でうとうとしているので、それは比喩でも何でもない。



「懐妊したそうだ」



 最後に呟いた旦那様の声を聞きながら、私は再び眠りに落ちていた。


 その夜から私は旦那様の腕に抱かれて眠っている。お互い夜着を纏っているので、添い寝という形だろうか。こうして腕に抱かれて眠るのに慣れてくると、私は仕事を終了したらどうなってしまう?


 最初から期間限定の契約である。


 こんな風に誰かの腕で眠る事を教えるなんて酷いと思う。

 私の胎内で子は順調に育ち、安定期が入る頃にまた閨をする機会が増えた。無事に懐妊したら終わりだと思っていたのだが、私の認識が間違っているのかも分からない。


 一般的にこれが普通の事なのか。


 いよいよ臨月に差し迫ってきた頃、私はベッドの上から起き上がれなかった。体中に感じる倦怠感と頭痛は、魔力欠乏症の症状に近い。


 そしてーーその数日後に、私は男児を出産した。


 医師の話では非常に珍しい安産だったらしい。子の魔力量が多いのに母体が健康でいるのは稀な事のようだ。ほとんどの母体は子に魔力を吸われて命を落とす。


 それでもベッドの上から起き上がれないのだから健康と言えないだろう。


 私が産み落とした子は乳母が見つかるまで、私が授乳をする事になった。予定していた乳母の都合が悪くなったのか、それとも私が子を産んだ時期が早まったせいだろうか。


 ルセは私に色々と教えてくれるが、肝心な事は一つも教えてくれない。


 初めて腕に抱いた子の感想は、本当に自分が産んだ子だろうかーーだった。

 こんなに間近で見ているのに顔の認識が出来ない。この子も旦那様と同じく認識阻害の魔法が掛けられている。私に情が移らない為の対策なのか。


 まだ目が開かない新生児だが、おそらく目が開いても瞳の色は分からないままだろう。




 子が生まれてから一月半が過ぎる。


 最近とくに思うのは、この赤子は自分の親が分かるようだ。

 私と旦那様の気配を感じない時、この子は泣き止まない。旦那様が邸で仕事をしている時は、彼の執務室にベビーベッドを置いていると聞く。


 旦那様が不在の時は、私の気配を感じるギリギリの距離にベビーベッドが置かれていたらしい。


 私が感じるのは邸内にある子供の魔力のみ。

 どの場所にいるかと聞かれても説明しにくいのだ。ただ邸内にいる事は魔力を通じて分かる。きっと子供も同じ感覚なのだろう。


 私と違って生後一月半の無垢な赤子だ。

 一人ぼっちでいるより、安心できる相手に傍にいて欲しいと訴えているのだと思う。


 私は授乳以外で子に接する事が出来ない。

 母親としての自覚も足りないのだ。元より出産した後は、子供との縁が切れるといった契約。私は子を産み落とす為に雇われた立場で、子の母親になる契約をしていない。


 それはきっとーー旦那様の妻になる人の役目。


 旦那様が独身なのか既婚者なのか、私は知らない。独身者であれば結婚せずに後継者を手に入れたかった。既婚者であれば、相手に子ができにくい体質という理由も有り得る。


 その妻が見ず知らずの相手が産んだ子を愛しむかは分からない。私は子の顔が分からないので、どちらに似ているのかも知らないのだ。ぼんやり顔の輪郭が伺える程度で、髪の色も目の色も判別出来ない。


 少しずつ体調の回復が見られるものの、当初の一年という期間が延びてしまっている。


 夜は相変わらず旦那様と共にしていた。

 私の刺繍は相手を癒す効果はあるが、私には無効の産物といった所か。


 おかげで体の回復が遅い。


 せめてものお詫びとして、私はルセが提案していた青紫色の薔薇をモチーフにした刺繍を刺す。ハンカチは勿論、枕カバーにブランケット。刺繍に飽きたらレース編み、それに飽きたら刺繍ーーと交互に作業する。出来上がったものは、クローゼットの目立たない場所に保管した。


 その一番下には使って貰えないと分かりつつ、クラバットにも刺繍を刺した。裁縫箱の中に入っていた上質の布。最高品質の布はとても柔らかい素材で、大きさもスカーフとして仕えるものだったので刺繍を入れたのである。


 首に巻いて折り返す面に薔薇の模様。黒い生地は青紫色を引き立たせるのに理想の色だった。


 ルセがいない時にベッドから抜け出し、こっそりと隠すようにクローゼットの隅へ積み上げる。このクローゼットの中身も不要になるので、そのうちルセが片づける事になるだろう。


 青紫色の薔薇をモチーフにした品々が多い中、ルセの為に刺した翡翠色の生地に金色の刺繍糸で葉と蔦で模様を作り、彼女のイニシャルを入れておく。


 私が去った後に誰かが使ってくれたら良い。


 学生時代に利用していた雑貨店の店主から、毎回プロ並みだと褒め言葉を頂いていた。買い取って貰う為に作っているのだから、普段以上に気を遣って丁寧に仕上げるのは当然の事である。


 その店主にしてみれば、貴族学校の学生という事も含まれていたかもしれない。

 私が持ってくる商品は店頭へ出すとすぐに品切れになるようだ。


 そういった事もあり、雑貨店の店主は相場より高く買い取ってくれたので感謝している。


 商品として通用する私の刺繍やレース編みは、この邸で不要なら処分しても構わない。その時に少しでも高額で売れるように、丁寧に心を込めて作業を続ける。


 ベッドから出られずに刺繍とレース編みに没頭している中、ようやく乳母が見つかって私の手から子が消えた。


 乳母は最初に契約していた者が名乗り上げたらしい。


 やはり私が予定より早く出産した事で、乳母の出産時期と重なってしまったようだ。

 私と同じ時期に出産したのに、乳母の方が私より早く動けるようになったのは、子が持つ魔力の違いだろうか。


 ルセから教えてもらったが、子供はぐずる事無く乳母の手に身を委ねていたらしい。あれほど私か旦那様の気配を感じないと泣き止まなかったのに。

 これも子供の成長と言うものなのか。


 思いがけず三か月近くも子の傍にいられたが、邸から子供の魔力の気配が消えてなくなると、何か物足りない気持ちを抱くようになった。ずっと感じていた気配がなくなるのは寂しい。



「リリアーナ、体調の方はどうだ?」



 ぼんやりと宙を眺めていたので、旦那様の気配に気づかなかった。



「こんなに長居をして申し訳ありません。体調の方は特に問題がないのですが、魔力欠乏症の方が重症らしく、なかなか回復せずに迷惑をかけてしまいました」


「医師は欠乏症だけが問題で、体調の方は異常がないと言ったのか?」


「はい」


「そうか」



 旦那様が私を腕に抱きしめる。


 いつもの石鹸の香りに安心してしまう。この温もりに慣れてしまった。心地の良い体温に包まれて眠るのは、あと何回あるだろう。もう既に終わりが近づいている。


 数日前からベッドから起きて、邸の中を動き回れるようになっていた。魔力欠乏症は人によって症状は変わるが、回復に三か月もかかるのは特に珍しくないらしい。私のように子を出産して三か月で回復した方が珍しいようだ。ほとんどの者は半年くらい時間がかかると聞いて、私の方が驚く。


 ーー回復に三か月もかかったのに早い方なのか。


 魔力欠乏症が悪化すれば枯渇症を引き起こし、最悪の場合は命を失う。


 こうして無事でいられたのは、奇跡に近いと言われても実感できずにいる。

 私の体調が回復するまで三か月もかかったのは予定外だが、いよいよ明日の午前中に邸を去る事が決まった。


「もう完全に回復されております」と、医師から太鼓判を貰ったのである。


 邸の図書室にある本を全て読破できなかったのは残念だが、ここへ来て一年半もの間で人生経験を積んだと思う。これまで好んで読んでいた歴史書や魔導書の他に、各部門の専門書に目を通すようになった。地理学や薬草学に帝王学といった分野を知り、私の知識的欲求が疼いたのは言うまでもない。


 薬草学だけは座学だけではなく、その過程を実験してみないと答えが出ないと思う。季節や気温によって環境が変わっても、同じ物を作り続けられるのか。乾燥させる時間も気温に寄って変わる。それと湿度や日照時間によって品質に変化はないのかーーと、薬草学の実験を想像するだけで楽しい。


 両親が許可してくれたら、他国の学校へ行く選択肢も追加しておこう。


 実家の借金を完済するまで無理な話だと思うが。

 この一年半の間、父や兄たちと連絡を取っていないので、借金が減ったのか分からない。私の名義で仕送りがされているはずだから、少しは返済の足しになっている事を願うばかりだ。


 実家の借金がなくなれば、十七歳になった私は自由に動けるだろう。


 この国での成人は男性だと十八歳で、女性の成人は十六歳である。

 十七歳の私は成人済み。


 本来は成人を祝うお披露目パーティーや、王宮で開かれる舞踏会で正式なデビュタントをしなければ、たとえ年齢が十六歳を過ぎても国は大人として認めてくれない。この法律は貴族女性に当たるもので、平民には該当しないのだ。


 私は貴族としての柵や社交に全く興味がないので、刺繍とレース編みで生計を立てながら自由に暮らしたい。


 その為のステップとして、他国へ留学してみるのも楽しそうだ。

 この国だけではなく、他国で流行している刺繍のモチーフが知りたい。

 それと他国の文化にも浪漫を感じる。



 そしてーーこの邸で過ごす最終日の夜、旦那様が私の体を求めてきた。


 私が邸に滞在するようになって、最初の頃は数日おきに旦那様が現れて体を求めてきていたが、数か月もしないうちに連夜それが行われるようになったのである。


 旦那様が私に触れていなかった期間は、臨月間近になってからだと思う。


 私の懐妊が分かってから安定期に入るまでの期間を合わせると、この一年半で数え切れないほど、旦那様と濃密に肌を合わせてきた事になる。


 ーー思い返しても恥ずかしい!


 旦那様にとって私は子を産むだけの道具。

 頭では理解している。



「リリアーナ」



 こんな風に甘い声で囁くのは気のせい。


 ーー惑わされては駄目だ。


 道具なら道具らしく、旦那様に応えるべきだろう。



「旦那様」



 だけどーーここを離れたら彼とは二度と会えない。


 ならば最後の思い出に彼と肌を合わせる。純潔を失い異性の味を覚えてしまった私の体。おまけに未婚で出産した経験もあるのだから、まともな結婚は望めないだろう。

 そして望んではいけないのだ。


 ここへ来たのも仕事をすると決めたのも、全て私が選んだ選択である。


 ーー今夜の事は忘れない。


 旦那様の息遣いと体温、そしてーー私に触れる大きくて無骨な手。この一年半の間、私を道具として扱っても良かったのに、旦那様は大切に扱ってくれた。

 この手に守られていると勘違いする程に。



「ーーーてくれーーお前は私のものーーーーー」



 旦那様の声が遠くに霞んで良く聞こえない。

 私は甘い倦怠感と旦那様の体温に包まれて、意識を閉ざしたのだった。





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