階段の下
【階段の下】ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夜の階段は、黒い穴のようだった。
山岸ひかり(やまぎし・ひかり)、高校二年。放課後、母の実家に一人で泊まりに来ていた。
祖母が亡くなってから空き家となったその古い日本家屋は、畳の匂いとほこりが染みつき、空気がどこか淀んでいるように感じられた。
階段は家の中心にある。キシキシと鳴る木の段。狭く、傾斜が急で、いつも下が見えない。
夜、寝つけずに水を飲みに起きたときだった。
廊下の先、階段の上から、トン……トン……と、何かが降りてくる音がした。
誰もいないはずの二階から、ゆっくりと、足音だけが。
(風……じゃない)
明らかに「重み」がある音だった。ひかりは背筋を凍らせ、電気もつけず息をひそめた。
階段の下に立つ彼女の目の前で、最後の一段まで音が降り、止まった。
暗闇の中、そこに“何か”が立っている。
――カラカラカラ……
女の笑い声のような音が、喉の奥で鳴った。
ひかりは無我夢中で部屋に戻り、ふとんにもぐった。朝まで震えながら、目を閉じるしかできなかった。
祖母の死は「階段から落ちての事故死」とされていた。
しかしその日から、ひかりは毎夜、同じ音を聞くようになる。
トン……トン……と、降りてくる足音。
目を閉じていてもわかる。「それ」は、自分の部屋の前まで来て、戸の外でじっと立っている。開けてはいけない――そう直感した。
三日目の夜、彼女は夢を見た。
階段の途中に、女が座っていた。
首が不自然に折れ、顔は見えない。
白い着物。足の指が欠けている。
「見たのね……」
口だけが開いてそう言った。
目が覚めると、足元に冷たい感触があった。
布団の上、彼女の足の間に、人の足跡がついていた。しかも濡れていた。
誰かが、彼女の上を歩いていたのだ。
恐怖に震えた彼女は、逃げるように母を呼びに帰ろうと決めた。
しかし玄関に向かうには、あの階段の前を通らなければならない。
朝でも、階段の下は暗い。日が差しているはずなのに、影が濃い。
なぜか、「誰かが待っている」とわかってしまう。
行かなきゃ……でも――
その時、階段の上から音がした。
ズズ……ズズ……ズズ……
足を引きずるような、這い降りる音。
そして、見えた。
それは、人間の姿をしていなかった。
骨と皮ばかりの女。顔は裂け、目は濁り、指が異様に長い。
「ひかり……ひかり……わたし、まだ降りきってないの……」
女は階段にへばりつきながら、ひかりに向かって這い降りてくる。
「落ちたのよ、ねぇ。首が折れたの……最後まで降りられなかった……だから――」
一緒に落ちて……
女が両手を差し伸べてきた瞬間、ひかりは叫び声をあげて駆け出した。
しかし、気づいてしまった。
玄関の下駄箱の鏡に、自分の背後が映っている。
映っていたのは、自分の肩に手をかけた女の姿――笑っていた。
女の口からは、血と髪が滴り、耳元でこう囁いた。
「今度は……あなたが階段になるの」
朝になって、彼女の姿は消えていた。
だが、古い家の階段には、新しい一段が増えていた。
一段目だけ、まるで誰かの背中のように、柔らかく、湿っていた。
そしてその夜も、トン……トン……と音がする。
階段は、いつも誰かを待っている。
【終】
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