王子、無理なものは無理です
「気持ちが悪いです」
考えるよりも先に、口が動いてしまった。
マリー・クラベルは伯爵家の令嬢である。
マリーの実父クラベル伯爵は今より高い地位を望むことはなく、堅実で、民草のことを考えた領地経営を行っている。マリーにも伯爵令嬢としてふさわしい教育を施してはいるが、娘の幸せを第一とし、無理な政略結婚をとは考えていなかった。
クラベル伯爵家は、クワッス王家に忠誠を誓っている。クワッス国は国土としては大きくないが、王家もまた堅実で民草を第一とした政治を良しとしているからだ。さらにクワッス王家は、富国のために教育を重要視し、貴族や平民が希望すれば通える王立の学校も運営している。クワッス王家の人間は、民草のことをよく知るために必ずその学園に通うことになっており、そうなると自然と貴族の子息令嬢たちも王立の学校に通うようにった。
マリーも例に漏れず、王立の学校に通っていたのだが、彼女にとって唯一懸念があるとすれば、一つ上の学年に第一王子のグエンダルがいたことだろう。王族とお近づきになれるのではと儚い夢を見る下位の貴族令息や令嬢たちもいるが、マリーは関係のない世界とさっさと見切りをつけ、学校生活を楽しんでいた。
身の丈以上のことを望むと必ず手痛い目に遭うのだと小さいころから両親によくよく言い聞かせられていたマリーは、伯爵令嬢の自分が王族と、など夢にも考えることはなかったし、この学校ですてきな出会いがあればという一片の乙女心は持っていたが、その相手が王族になることなど露ほども想像していなかった。
それは学校終わりの、人気の少ない廊下を歩いていた日のことである。すでに生徒たちは下校しているはずの教室から、怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。通常貴族は感情任せに怒りをあらわにすることはないし、学校に通う平民たちも貴族と交じって勉強することを理解しているので、郷に行っては郷に従えの精神でいわゆる荒くれ者はいないはずである。
もしやただごとではないのではないかと、一貴族としてそれなりの正義感のあるマリーはそっと扉の向こうに聞き耳を立てていた。
「聞いているのですか、アンナさん!」
「こわいです、ジュリエッタ様」
「平民のあなたがむやみにグエンダル殿下に近づいてはなりませんと言っているのです!」
聞こえた内容に、マリーは小さく嘆息した。
そして、ここ最近、学校の中で生徒たちの娯楽として囁かれている噂話を思い出す。
平民のアンナ。彼女は非常に男性に好かれやすい容姿をしており、数々の貴族子息に声をかけているのだとか。その中には婚約者のいる男性や、高位の貴族子息も含まれているらしい。そのバイタリティはすごいものだが、他のことにその情熱が向けば後世に名を残すかもしれないのにもったいない話だとマリーは常々思っていた。
そして今、その話題のアンナが第一王子のグエンダルにもちょっかいをかけているらしいということはマリーの耳にも入っていた。第一王子はこのままいけば次代の王になるはずの人である。そんな危険人物によく近づけるものだと、やはりマリーはその情熱に感心すら覚えていた。しかしながら、マリーのように考える貴族子息や令嬢は多くなく、今アンナに注意をしているジュリエッタ・オーベルヌ公爵令嬢のように「不敬だ」という考えが一般的であった。
ジュリエッタ・オーベルヌ公爵令嬢は、筆頭公爵オーベルヌ家のご令嬢であり、グエンダルの婚約者候補とも言われている。彼女の立場も考えると無理からぬことではあるが、さすがに貴族が平民相手に怒鳴りつけるのは見え方によっては身分を笠に脅しているともとらえられかねない。とは言えマリーはただの伯爵令嬢で、この場をうまくまとめられる自信もなかった。
「そもそもグエン様の婚約者でもないんですよね?」
「なんですって……!」
これはまずい。マリーは考えるのをやめ、勢いにまかせて扉を開ける。
「もう下校時刻ですよ」
まるで教室を見回っていたかのように、そしてやり取りも何も聞いていなかったかのように、マリーはそう声をかけた。
さすがの二人も、マリーの突然の登場にぎょっとして口を閉じる。
「あなたは……クラベルさん?」
さすがは公爵令嬢、持ち直すのが早い。
「オーベルヌ公爵令嬢様、覚えていただき光栄で存じます。クラベル伯爵の娘、マリーでございます」
伯爵令嬢として一礼し、マリーはジュリエッタを見る。彼女はすっかり怒りを隠し、公爵令嬢の顔になっていた。
「え、誰なんですか?」
アンナだけはわけがわからないという顔だ。アンナは学年こそ同じだが同じクラスではないので会話したことはない。
「はじめましてアンナさん?マリー・クラベルと申します」
ジュリエッタは軽蔑するような目をアンナに向けたが、すぐに笑みを戻しマリーに声をかけた。
「クラベルさん、ありがとう。もう帰ります」
「はい、わたしも失礼いたします」
おそらくこれ以上何も起こることはなさそうだとマリーは判断し、ジュリエッタに最後に一礼してマリーは教室を後にした。最後まで名乗らなかったアンナは、「たしかにあれは女性から嫌われるだろうなあ」と思いながら。
しかしマリーにとって想定外だったのは、このことをグエンダルが知っていたことである。
「マリー・クラベル伯爵令嬢」
声をかけられたとき、一瞬動揺したが、マリーは伯爵令嬢として一礼した。まさか生涯関わることがない第一王子に名前を呼ばれたからです。
「ごきげん麗しゅう、第一王子殿下」
頭を下げたまま、あいさつをする。さすがに第一王子は無視できない。
グエンダルは令嬢たちが騒ぐだけのことはあり、豊かな金色の髪とエメラルドグリーンの瞳を持ち、肌も白くきめ細やかで背もすらっと高い。一言で言うなら、目立つ。そんな目立つ人物が突然伯爵令嬢に声をかけるなど事件だ。周囲の生徒も動揺を見せないよう、様子をうかがっていた。
「そんなにかたくならないで。グエンダルと呼んでほしい」
「……恐れ多いことです」
マリーはこの状況が理解できず、混乱していた。当然ながらグエンダルとは顔も合わせたことはないし、近づこうとしたこともない。
「アンナとジュリエッタの件を少し耳にして。婚約者候補としてぜひ励んでほしい」
……は?
マリーは思わず上げそうになった頭をそのまま、頬を引きつらせた。
まず、アンナとジュリエッタの件とはおそらく先日の下校時刻の話であろう。そもそも前提として、学校でばらまかれている噂があることをこの第一王子は理解して、その上で放置しているということか?
そもそも、「婚約者候補としてぜひ励んでほしい」とはどういうことか。マリーはそんなこと望んだ覚えはない。
「殿下、ここでは」
「ああ、そうだね。マリー、よければ」
「次の授業の準備もございますので、御前失礼いたします」
学校では多少のことは不敬罪にもならないことを知っていたマリーは、これ以上関わるのは不要とさっさとその場を後にする。
呆然とする第一王子を背にして、マリーは内心ずっと混乱状態であった。何がなんだかわからないが、マリーの中で確実であったのは「いろんな意味であの第一王子と関わるべきではない」ということであった。
「クラベルさん」
第一王子と関わらないでおこうと固く決意したその日の学校帰りの校門で、マリーはまたもや厄介な人物に声をかけられた。
「オーベルヌ公爵令嬢様、ごきげんよう」
「ちょっと、お話よろしいかしら?」
ふつうに嫌である。おそらく第一王子についてに違いないが、こちらとしても何があったのかまったくわかってない。しかしながら今のジュリエッタはあくまでも公爵令嬢の顔をしている。いきなり大声で怒鳴られることもないだろうし、何より公爵令嬢に「よろしいかしら?」と言われてよほどの理由もなく「否」とは言えない。マリーは内心ため息をつきながら、貴族令嬢としての体面を守り、首肯した。
ジュリエッタに連れられたのは、人気の少ない中庭の四阿であった。王立の学校で王族も通うだけあり、設備もそれなりに整っている。この四阿も、主に高位の令息令嬢たちが休息場所として利用しているようだ。
ジュリエッタが優雅に座ったのを見届け、マリーも席につく。
「グエンダル殿下にお声がけいただいたそうですね」
ジュリエッタは貴族の長ったらしい前置きを抜いて、いきなり本題を突きつけた。マリーは面食らいながらも、戸惑いの表情は忘れない。
「はい、恐れ多いことで……」
「まさかクラベルさんも婚約者候補とは存じませんでした。同じ候補同士、交流しておきたいと思いまして」
ジュリエッタは優雅に笑っているが、その心の中には何が渦巻いているのか。マリーは一瞬考えようとしてすぐにやめた。
「候補だなんて。私も何のことかわからず、混乱しております」
これは本当のことである。
「まあ。候補になるだけでもすばらしいことだわ。そんな風におっしゃらないで」
「私はとくに力もない伯爵令嬢ですから、まさか第一王子殿下のお側に仕えたいなど、考えたこともございません」
これも本当のことである。
「……謙虚でいらっしゃるのね」
しかし、ジュリエッタにはそう見えていないようだ。これは厄介なことになってしまったと思っていたら、特大燃料にしかならない危険人物に声をかけられる。
「ジュリエッタ、マリー、何をしてるんだい?」
うわ、とマリーは思わず出そうになり、慌てて口をおさえた。第一王子のグエンダルが微笑みをたたえ、音もなく現れたのである。ジュリエッタはすぐに立ち上がって礼をとったので、マリーも慌ててそれにならった。
「そんなにかしこまらないで。よかったら仲間に入れてほしいな」
……なら自分は今すぐ帰りたい、と言えるわけもなく、マリーはこの流れにひとまず身を任せることにした。
ジュリエッタはもうマリーのことは見ておらず、グエンダルの気を引こうとにこやかに話しかけている。どうやらジュリエッタはグエンダルに恋をしているようだ。グエンダルのためならば、それこそ何でもしてしまうのかもしれない。
「ところで、マリーには本当に感謝しているんだ」
いきなり話題が自分のことになり、マリーは緊張を高めた。
「アンナのこと。噂にはなっているけど、平民だからと突き放すのも悪いと思って」
やんわり断る術くらい身につけとけよ、とは言えない。
「ジュリエッタの気を揉ませてしまったことも悪いと思って」
「そんな、グエンダル殿下……」
だったらちゃんとフォローしとけよ。マリーのストレスゲージが上がっていく。
「ジュリエッタがアンナを呼び出したと聞いてどうなるかと思ったんだけど、マリーが機転を利かせてくれたと知って、僕のために本当にありがとう」
「まあ、そうだったんですの。たしかにクラベルさんなら、側妃となるのも問題ないかもしれません」
「マリー、そういうことだから」
マリーをよそに勝手に二人で盛り上がり、グエンダルがそっとマリーの手をにぎる。
これが、マリーの限界であった。
「気持ちが悪いです」
ぽかんとするグエンダルとジュリエッタを見て、しまったとは思った。しかし、動き出した口は止められない。
「そもそもアンナさんとのお噂は第一王子殿下自ら払拭なさってはいかがですか?オーベルヌ公爵令嬢様が悋気を起こされぬよう気遣われるのも第一王子殿下が行うべきかと存じます」
「マリー?」
「わたしがあの日声をかけたのは、余計な揉め事を起こさないためで殿下のためではございません。そもそもわたしは婚約者候補になりたいなど、露ほども思ったことはございませんし、これからも思うことはないと家名に誓って断言いたします」
「クラベルさん、ちょっと」
「臣下の諫言として最後に申し上げますが、そのようにあいまいな態度を取って、どなたにもいい顔をするのが王族としてあるべき姿なのでしょうか?もう少し、ご自分の立場をご理解されたほうがよろしいかと存じます」
マリーはそう言うと、さっと立ち上がり最上の礼をする。
「それでは御前失礼いたします」
その日、マリー・クラベルはその足で退学を願い出て、クラベル伯爵と相談の上で領地に引っ込むことを決定した。あの第一王子が万が一あの状態のまま次代の王となるならば、クラベル家はいつまでも忠誠を誓うことはできない。民草のためにも、近隣諸国とのパイプをつくる必要がある。その役をマリーが申し出たのだった。
あの四阿での一件のあと、グエンダルも引っ込みがつかなくなったのか、王家を通じて婚約者候補の勅命が下ったが、その頃には隣国の侯爵家との縁組をさっさと決め、隣国王家に忠誠を誓うことにしたクラベル家とマリーに、死角はなかったのである。