第四話(レオルド視点)
「おやすみなさい。レオ兄さま」
シェリーにそう言われた時、不意に昔の記憶が蘇ってきた。
チスイコウモリの獣人という理由から学生になるまで友人というものに縁がなかった僕に、初めて友好的に接してくれたのがシェリーの兄であるウィルソン=ラージアスだった。
彼はとても明るくマイペースで、僕が上辺だけの返しや嫌味を言ったところでそんなものは彼を遠ざけるための有効な手段にはならなかった。気が付けば僕の内側にズカズカと入り込んでいて、出会ってからわずか半年でウィルは僕の親友になっていた。
そんな時にウィルの家に呼ばれ、紹介されたのがシェリーだった。
「ほら、可愛いだろ?俺の自慢の妹なんだ!」
ウィルに抱きしめられながらそう言われた小さな女の子は、その小さな手でウィルの腕を解くと俺の前までやって来て完璧な礼をしてみせた。
「シェリルビア=ラージアスです。よろしくお願いします」
紺色の髪を靡かせ、節目がちな藤色の瞳を瞬かせるその少女はなんだか精巧に作られたドールのようで、そこにいるだけで目を奪われるほどの存在感があった。品のある動作も相まって、とてもまだ3歳の子供には見えない。
「シェリーは本当によく出来た妹だ!完璧な自己紹介じゃないか!」
「これくらい出来るよ」
「そんなことない!同じ年頃の子の中でもずば抜けて品があるし可愛い!俺の妹は天才だ!」
「ウィル兄さま。降ろして」
自己紹介が終わるとあっという間にウィルに抱き上げられ、連れ去られるシェリー。歳の離れた妹だからかウィルは彼女を溺愛しているようだが、なんだかあまり性格が似ていない兄妹だと思った。というか、ウィルの両親も穏やかで明るい人たちだったが、妹のシェリルビアは大人しくてあまり可愛げがないように見える。こんなことを言ったらウィルに殺されるだろうが。
その後、シェリーは一人で庭に戻り本を読み始めた。この年頃の女の子はまだ家族に甘えたりするだろうに。彼女は少しマセているんだろうか。そんな事を考えていると、ウィルが隣にやって来てこう言った。
「シェリーは頭も良くて社交にも問題ないんだが、どうやら人付き合いが苦手らしくてな。家族以外には笑顔も見せない。魔力を体内に留めておくことが出来ない極めて稀な症状のせいで茶会にも連れていけないし、同年代の友達も作れないんだ」
「そうですか。君とは正反対の性格なのですね」
「ははは!そうかもな」
「笑うところじゃないですよ」
ひとしきり笑ったあと、ウィルは僕の方に視線を向ける。紺色の髪に藤色の瞳の組み合わせはとても理知的に見えるのに、この男は根っからの武闘派だ。人の細かな心の動きにはいつも気付かず、考えなしに突っ走る。だが、身内に対してはどうしたことか、その鈍感さが成りを潜めるらしい。
「悪いがレオ。シェリーのことを少し気にかけてやってくれないか?うちに来た時だけでいい。どうしてあんな風に他人を遠ざけようとするのか俺には分からないが、あの子にはいつも笑顔でいてほしいんだ」
「僕がですか?きっと怖がらせるだけだと思いますが」
「頼む。どうしてもこのままにしておくのは心配なんだ。それに、シェリーならお前のことも平気だと思うぜ」
「はあ?まぁ、そんなに言うならいいですよ。引き受けましょう」
それから僕は何度かシェリーと話をするようになった。彼女はやはりどこか浮世離れした空気があって、会話していてもなかなか本質を掴めていないようなそんな不思議な感覚があった。でもウィルの言った通り、僕がチスイコウモリの獣人だと知った時も怖がるどころか平然としていたのだ。
「チスイコウモリはやはり動物の血を吸うのですね」
「…僕が怖いかい?」
「いいえ?レオ兄さまは獣人なので、無闇に他人を傷付けるようなことはしません。獣人よりも人間の方がよっぽど臆病で獰猛です」
「シェリーは…変わってるね」
「よく言われます」
その頃にはもうシェリーは僕のことを“レオ兄さま”と言って慕ってくれていた。彼女は人間よりも獣人などの“人間以外の生き物”に関心があるようで、僕がシェリーに会う時はいつも生き物に関する本を読んでいる事が多かった。記憶力も良いのか、出会った頃には既に大人ですら知らないような生き物の知識を何も見ずともペラペラと喋れる程だったのだ。
そんな彼女を見ている内に、いつも表情を動かさない彼女の笑っているところを見てみたいと思うようになった。何か贈り物をすれば喜んでくれるかもしれないと考えたが、女性に贈り物をした事などないので何を渡せばいいのか悩んでしまい、結局実際に手渡せたのは思い立ってから3ヶ月は経った後だった。記念日など関係なく渡そうと思っていたが、シェリーの誕生日が近かった事もあり誕生日プレゼントとして渡すことにした。
「シェリー。その、5歳の誕生日おめでとう」
「これ、私に?」
包装紙を綺麗に剥がしていくシェリーは、中から現れた物を見て目を輝かせた。
最初はドレスや人形も考えたのだが、彼女がそういった物を貰って喜んでいるところを想像出来なかったのでやめた。今回僕が贈ったのは獣人の生態について記された本で、学術的なことにも触れて書かれた正確なものだ。ただひとつ問題なのは、この本が些か5歳が理解するには難易度が高いということだった。しかしシェリーは本のページを何枚かめくって中を確かめたあと、パッと僕を見上げて言った。
「どうしてレオ兄さまは私が欲しい物が分かるの?レオ兄さまだけじゃない。お父さまやお母さま、ウィル兄さまも私が本当に欲しいと思っているものを贈ってくれた」
「それは…家族なら普通のことじゃないのかい?」
「でも私はまだ5歳なのに。生まれてから5年しか経ってない。それなのに私が欲しいものを理解してくれて、それをわざわざ誕生日に贈ってくれる。どうしてそんな事が出来るの?」
シェリーは何故か本当に疑問に思っているのか、表情や声色にはわざとらしさがない。まるで愛を知らずに生きてきた人間が、急に愛を与えられて戸惑っているかのように見えてこちらが困惑する。何故と言われてもそんなの答えは一つしかない。
「それはシェリーがとても愛されているからだよ。だから君に喜んでもらいたいと思ってみんな贈り物を選んだんだ。君はまだ5歳だと言うけれど、5年も側にいれば欲しい物くらい分かるものだよ」
「そう、なんだ」
「でも僕は君と出会ってまだ半年だからね。贈ったものに満足してもらえたか心配なんだ。僕からの贈り物はどうだったかい?」
僕がそう問いかけると、シェリーは本を大事そうに抱え直して言った。
「嬉しい。とっても…。素敵な贈り物をありがとうレオ兄さま」
その屈託のない笑顔は年相応の女の子で、僕の中のシェリーに対するイメージがガラリと変わった瞬間だった。思えばあの時が、僕にとって彼女という存在が特別なものに変わるきっかけだったのだと思う。
でもそのわずか2年後に両親と兄を一度に亡くして、シェリーから笑顔が消えてしまった。無理もない。目の前で愛する家族が死んでいくのを見てしまい、自分だけが生き残ったのだ。
発見された時のシェリーは全身泥だらけで、土砂に埋まった家族の遺体の側に倒れていたそうだ。シェリーは意識を失うまで懸命に手で土砂を掻き分け、回復魔法を使って家族の命を救おうとしていたようだった。あんなに小さな体で魔力を使い果たせば最悪死に至る。しかも元々魔力が勝手に体内から放出され続けてしまうシェリーでは持っている魔力量も少ない。シェリーはその事を理解していたはずだ。それでも、自分の命と引き換えにしてでも家族を助けたかったのだろう。
僕だってウィルにもう二度と会えないという事実に世界の終わりのような絶望を感じた。けれど、事故の後に初めて会ったシェリーのあの廃人のような様を見て、僕が彼女を守らなくてはと思ったのだ。僕は20歳の時に両親を流行病で亡くしていたけれど、あの時はウィルが支えになってくれた。だから今度は僕がウィルに報いる番なんだ。
それから僕はシェリーの後見人となり、同時にラージアス領の代理領主となった。ウィンターナー領とラージアス領の両方を治めるのは苦労したけれど、父の遺してくれた知識と優秀な部下のおかげでなんとか苦難を乗り越えることが出来た。
朝も昼も夜も休む暇無く働き詰めの中、シェリーが久しぶりに僕の部屋を一人で訪ねてきた。身だしなみをきちんと整え、自分の足で凛と立つ姿はまるで出会った頃のシェリーのようだった。
「レオ兄さま…いいえ、レオルドさん。長らくご心配をおかけして申し訳ありませんでした。だけど、もう大丈夫。今もまだ寂しい気持ちはあるけど、レオルドさんのおかげで前を向く勇気が出たの。今日まで本当に、ありがとうございました」
そう言って笑うシェリーの姿に、一瞬ウィルの笑顔が重なる。ああ、やっぱり兄妹だ。
「シェリー。君の笑顔がまた見られて嬉しいよ。でも寂しくなったらいつでも僕を頼っていいんだよ。僕たちはもう家族も同然なんだから」
「うん…」
そう言って、10歳になったシェリーの体を抱きしめる。彼女を引き取ってから3年が過ぎ、あの頃より身長も高くなっているがまだまだ子供だ。実際この3年間は笑うことは愚か、僕の前で泣く事もまともに食事を取る事もなく、ラージアス家からシェリーに着いてきたメイド達が介助してなんとか食事を摂らせている状態だった。
でも、あんなに塞ぎ込んでいた彼女が「もう大丈夫」と言って笑ってくれるまでに回復したのだ。嬉しくないわけがなかった。サングラスの奥で涙が滲むのをシェリーに悟られないように必死に堪えた。
それからと言うもの、シェリーは以前よりも笑顔の回数が増えていた。元々家族や僕以外には笑わない彼女が、メイドや執事にも笑顔を見せるようになったのだ。僕たちに心配をかけまいと無理をしているんじゃないかと思い、それと無くメイドに聞いてもらったところ、みんなに安心してもらいたいからという理由ともう一つ“レオルドさんにも笑顔になってもらいたいから”という理由だったらしい。それを聞いた僕はあまりの愛おしさでこっそり泣いた。シェリーの純粋さが忙しさに擦り減っていく僕の心に沁みた。
そして彼女が12歳を迎えた頃、突然シェリーに対する見合いの申し入れが届くようになった。まだ社交界にも顔を出していないというのに、気の早過ぎる連中だ。一体どこの馬の骨だと確認したところ、どれもシェリーが出席したお茶会に同伴していた親族や、主催者の家の者ばかりだった。恐らく彼女の外見に惹かれた物たちだろう。
まぁ、シェリーを選んだ趣味の良さは褒めてやる。が、聡明なシェリーを外見だけで判断するような輩に嫁になんてやれるわけがない。それに、シェリーがきちんとした教養を身につけた後はラージアス領の統治権を彼女に返そうと思っているのだ。彼女の支えとなるか、もしくは自身で正しく統治できる力量のある者でなければシェリーには相応しくない。そもそもシェリーが誰とも結婚を望まない可能性だってある。その時は今と変わらず僕が彼女を支えればいい。というか本当はそうしたいくらいだ。
こんな事はシェリーにはとても言えないが、この頃から僕はシェリーに対して家族愛とは違う愛情を抱いていることに気付いていた。きっかけなら沢山あった。だけど、シェリーと他の女性たちには決定的に違う部分があったのだ。それはチスイコウモリの獣人である僕を他の生き物と差別しないことだ。彼女は生き物が好きだからという理由で人間も獣人もそれ以外の生き物も全て“同じ生き物”として捉えている。人間や獣人はどうしても同種で集まって他種族を差別するものだが、どういうわけかシェリーは出会った頃からその当たり前にあるはずの感覚が備わっていなかったのだ。
でもそのおかげで僕はチスイコウモリの獣人である自分のことを受け入れられた。シェリーがチスイコウモリの吸血行為をただの“食事”と捉え、それが生きるために必要なことで、けして“残虐な性質”だからではないということ。そして獣人の僕の場合は食事は人間と変わらないという事をすぐに理解してくれたからだ。普通の人間ならこうはならない。そのせいで僕はずっと他人と馴染めなかったのだから。
彼女を好きになった理由はそれだけではないけれど、やはりそこが一番大きい。当たり前に僕を受け入れてくれる唯一無二の少女。簡単に手放せるわけがなかった。
「残念だけど、君たちには渡せないなぁ」
僕はシェリー宛の見合いの手紙を一枚ずつ丁寧に引き裂いて捨てた。シェリーは僕のことを優しくて穏やかな大人だと思っているだろうけど、本当はそんなことない。
「君のためなら僕はなんだってするよ。シェリー」