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使用人の私がもふもふな騎士様に抱きつく理由

作者: 夕山晴

 琥珀のように艶やかで鋭い爪で抱きしめられていた。

 キャラメル色のふわっふわの毛に顔を埋め、その感触と、お日様のような匂いを堪能する。


「……もういいだろう?」

「いえ! もう少し! もう少しだけ!」


 エリエンはこの時間が大好きだった。

 少しでも長く、と毎回粘りに粘る。


 が、本来、エリエンが抱きつける相手ではないのだ。


 そう思うと、自重せねばという思いが芽生え、嫌々ながらも手を離す。


「……うう、すみません。ありがとう、ございました……!」

「いや、構わない。ほんの少しの時間だ。そこまで喜んでもらえるならこの毛皮も少しは役に立つということ」

「何を仰るんですか! 最強のクマ騎士隊長様が!」


 クマ騎士隊長──その名で知られるヴァルデマールは、とても強い騎士だった。

 クマの獣人であるため力が強く、そして剣技も素晴らしかった。

 あれよあれよという間に騎士団の隊長にまで成り上がった、獣人の希望。


 今でこそ、人間と獣人は同じ街で同様に暮らしているが、少し前までは違っていた。

 獣人は獣混じりと非難され、待遇も悪かった。


 それが時代の流れか、先王が宣言したのだ。

 人間も獣人も共に生きる仲間だと。

 それからは仲良く──表面上には人間も獣人も変わらず生活できるようになった。


 その証のように、ヴァルデマールは史上初の、獣人の騎士隊長なのだ。


「いや、しかし、君は変わっていると言われるだろう? 獣人に、しかもクマだ──抱きつきたいという人間の娘は珍しいから」

「そうかもしれません、が! みんなの目が節穴なんです! だってこんな素敵な毛並み……触りたいと思うのが普通では?」


 真顔で言えば、ヴァルデマールは困ったように目を細めた。

 そんな姿も素敵ね、とエリエンが胸をときめかせたことは内緒である。


「私なんかのお願いを聞いてくださるクマ騎士隊長様。とてもお優しくて、お強くて」


 クマの姿が愛らしくて! と心の中で付け足して。


「みんなが避ける理由が全くわかりません」

「そうは言ってもな。やはり、獣人と人間では勝手が違うからな。……変わっている君とは考えが違うだろうが」


 獣人はヒト型の獣姿をしている。

 それから、二種類に分類された。人間の姿に変化できる者とそうでない者だ。

 前者の場合は人間──といっても多少、毛や爪、耳などに獣の名残はあるのだが──の姿が普通の人間とそう変わらないため、人間社会に馴染めている。

 獣の姿であっても、ネコやウサギといった小動物系の獣人であれば、恐怖心が薄れるためか受け入れられた。


 より受け入れられにくいのは、大型獣や肉食獣系の獣人。クマもその一つ。


「人間と同じく、服を着て、言葉を話し、二本足で歩こうと……同じにはなれない。私の力が強いのは、非力な人間とは違うから。私がクマであるから、だ」


 そう言うヴァルデマールの服装は、特注品だった。

 簡単に破れないよう細工が施された制服に、人間であれば到底持ち上げられない重く頑丈な剣。

 ヴァルデマールの力をより発揮できるように配慮されたものだが、その特別対応が「やはり獣人と人間は違う」と思わせた。


「別に、いいと思いますけどね。人間と獣人は違うんですから。強い騎士様が私たちを守ってくれるんですし。クマだから、人間だからじゃなくて」


 エリエンはそこが気に食わない。

 自分たち人間とはすこーしだけ姿かたちは違うかもしれないが、それの何が悪いというのか。

 しかももふっもふでいい匂いの毛皮に何の不都合があるというのか。


「そう言ってくれるのはエリエンだけだ。……突然、抱きしめてくれなんて言われた時には驚いたが、今では悪くないものだと思っている」

「ええ……!? 本当ですか! であればもっと長い時間でも私は全然構わないというか、むしろもっとって思うんですが」

「いやそれは」

「ですよね。わかっております。言ってみただけです。クマ騎士隊長様もお忙しい身……こんな私の我儘に付き合っていただけるだけでも奇跡なんですから!」


 初めはエリエンの不注意からだった。

 騎士団の世話係として働く使用人のエリエンは、大量の洗い物が入ったかごを抱えながら洗い場へと向かっていた。

 その日の天気は悪く、雨が降る前にと焦っていたこともあり、注意が疎かになっていたのかもしれない。

 突風が吹き、重い荷物を持っていたエリエンは見事にバランスを崩したのだ。

 それを格好良く抱き止めて助けてくれたのが、ヴァルデマールだった。


 その時のふわっふわの感触が忘れられず、身分も忘れ、エリエンは懇願した。

 もう一度抱きしめてもらえませんか、と。


 唐突すぎて、ヴァルデマールはもちろん怪訝な顔をした。

 奇妙なモノでも見たように首を傾げたが、あまりの必死さに折れてしまった。


 それからだった。

 一度おいしい思いを覚えてしまったエリエンは人目を憚りつつ、ヴァルデマールを抱きしめに訪れる。

 最強とも謳われるヴァルデマールも嫌とは言わなかったから、エリエンはますます調子に乗り──今ではもう、三日に一度、奇妙な逢瀬は行われるようになっていた。


「ううっ、名残惜しいですが、また! また次もお願いします!」


 三日後の約束を取り付けようとエリエンは握手を求め、ヴァルデマールは苦笑しながらその手を取った。


「必死過ぎないか。こんなもので良ければいつでも構わない」

「騎士隊長様、もう少しこのふわふわの価値を知った方がいいですよ! おかしな人に騙されてしまいます!」

「私を騙す者なぞいないさ。みんな私を怖がって近寄らないからな。私に挑もうとする愚か者はいないだろうよ……まあ、今のところ一番怪しいのは君ということになるが」

「……は! そうですよね! 確かに私は怪しいかもしれませんね。ふわふわをおねだりしているわけですから。ですが、決して私は危害を与えたりは……そもそも力は敵わないのでできませんし」


 わかっているとでも言いたげに、ヴァルデマールはふっと笑った。


「君になら騙されてもいいさ。……まあ、君が私に隠し事は無理だと思うが」


 その一言でまた胸がときめくことになった。






「はあああああぁぁ……! 今日も最高だったわ」


 騎士団の宿舎にある使用人のための休憩室で、エリエンは魅了されたように長い息を吐いた。

 団員の一日の訓練が終わり、夜の食事も終えれば、使用人たちの一日も終わりだった。


 うっとりと目を閉じながら、長いテーブルに肘をつく。


 テーブルの上には食べかけの夕食がある。パンにスープ、肉や魚、サラダなど、身体を作らなければならない騎士とそう変わらないメニューだ。

 もちろん量は比べ物にならないほど少ないが、エリエンは大満足だった。

 この働き口を見つけてくれた幼馴染には感謝している。


 エリエンは孤児院にいた。

 院長も孤児院の仲間もみな優しい人ばかりだったから、少しでも負担を軽くしなければと独り立ちを考え始めた。十四になった頃だった。

 そんな時、幼馴染が声を掛けてくれたのだ。

 同じ孤児院出身であり数年前に独り立ちしていた彼は、自分の働き先で人を募集しているから、とわざわざ伝えに来てくれた。

 そのおかげで今、食べる物にも寝る場所にも困らない生活ができている。


 ガタ、と向かいの席で音が鳴り、エリエンは目を開けた。

 働き先を紹介してくれた幼馴染が座っていた。ルルだ。いつものように呆れて片眉を上げている。


「まーた、クマの話かぁ?」

「ちょっと! クマって言わない! クマ騎士隊長様よ!」

「って言ってもな、獣人だろ?」

「だから何だって言うのよ」


 エリエンのむすっとした顔もいつものことだ。

 ルルは恩人で感謝してもしきれないほどだが、それでも、これだけは許せなかった。


「やめとけって。所詮、獣人。人間とは仲良くなれないんだって」


 ルルは獣人が嫌いらしい。

 栗色の髪を跳ねさせて、ルルはやれやれと首を振った。

 長身ではあるが、細身で、力には自信がないらしく、力仕事ではなく主に事務仕事を任されている。


「何よ! そういう獣人だっているかもしれないけど、人間にだって仲良くなれない人はいるし。クマ騎士隊長様とはもう仲良しだし!」

「何言ってんだ。勝手にそう思ってるだけだろ! お前は強い強いって言ってるけど、それはクマだから当然で……獣人なんて信用ならない」

「ちょっと待って待って。ルルにもクマ騎士隊長様の素敵なところを教えてあげるから! 仕方ないわね」

「は!?」

「よーく聞いてね。クマ騎士隊長様ってとっても優しいの。私のわがままだって聞いてくれるし、転びそうになった私をさっと助けてくれたのよ。それから剣が強いのももちろん素敵だけど、ふわっふわの毛がね、たまらなくて。ずっと抱きしめてられるんだから。ルルだって一度触ったら虜になっちゃうんだから」

「や、ならないし」

「今日なんてね、まるで私の事を何でも知っているかのように、『君になら騙されてもいいさ。……まあ、君が私に隠し事は無理だと思うが』なぁんて台詞を聞けたんだから! もうしんでもいい……まだまだしなないけど」

「ふーん」


 誰かに共有したくてたまらなかった今日のクマ騎士隊長様を話してみたが、ルルは心の耳を塞いだように、自分のパンにかぶりついた。

 不機嫌そうな顔を隠しもしない。


「なあに。私と遊べなくなったから拗ねてんの」

「ふざけんな。そんなことで拗ねるわけないだろーが」

「ええ……? 私とずっと遊びたいからって、この働き先を紹介してくれたんでしょー?」

「調子乗んなよ。おれのが年上だぞ、もうちょい敬えっての」


 ヴァルデマールとの逢瀬が始まってから二ヶ月。

 約束がある日は仕事が終わると一目散に駆けて行った。そしてヴァルデマールが現れるのを今か今かと待ち侘びるのだ。

 結果、同じ使用人であるルルとの時間は減っていた。


「……そういうことじゃない。相手は獣人だろ。しかも人間に変身しない方の。で、大型獣。何考えてるかわかったもんじゃないだろ。あの牙と爪があれば一瞬で引きちぎられる」

「そうね、クマ騎士隊長様は人間にはならない。だけど! それがいいんじゃないの」

「はぁ?」

「考えてみて。ずっとあの毛並みと一緒にいられるのよ。素敵でしょ?」

「お前! 毛が毛がってそれしかないのか! もっと危機感持て! それにあんなのだって男だろ!?」


 ルルの想像力が豊か過ぎて、エリエンは吹き出した。ヴァルデマールには決して聞かせられない声だった。


「ぶっは! ちょっと待って。男性なのはわかってるけど、クマ騎士隊長様が私なんて相手にするわけないでしょ! 何考えてんの、もう」


 目に涙を溜めて笑うエリエンにルルは首を傾げた。


「こんなに通い詰めてるんだから、その、好きなんじゃないのか?」

「ええ、もちろん大好きよ! 愛はとぉっても込めてるし、ずっとそばにいたいとも思う。けど、その男女の恋愛的な意味で、と言われると違うというか。それはクマ騎士隊長様もご存知のはず。そもそもこんな使用人の小娘相手に、クマ騎士隊長様はなんとも思わないと思うし。お優しいから付き合ってくださってるだけ」

「まさか! 何の理由もなくそんなことをするわけが……」

「でしょう? だから言ってるでしょ、とってもお優しいの。一使用人のお願いを聞いてくれるような方なのよ。ルル、偏見は良くないってば。彼は獣人だけど、れっきとした騎士隊長様で、心の無い方ではないんだから」


 どや顔を披露したが、ルルには響かなかったようだ。

 ぐ、と言葉を詰まらせ、変わらない不機嫌な顔で溜息を一つ落とした。


「…………つまりエリエンは、あのクマの毛が好きということで合ってるか?」

「ええ? もちろん!」

「あのクマのことではなく?」

「え? クマ騎士隊長様=ふわっふわ、でしょ」

「…………………んじゃ、ふわふわの毛じゃなくなれば? たとえば、ゴワゴワだったりカチカチだったり」

「うーん? 正直なところ、魅力は半減するかしら。クマ騎士隊長様はとても紳士だから好きなことには変わりないけどね」


 ここだけの話だからね! とエリエンは唇に人差し指を当てると、それきりルルは口を噤んだ。

 眉を歪ませたまま与えられた食事に手を付けるのを見て、エリエンもそれに倣う。

 魅力をわかってくれないことにイライラしながら食べていると、あっという間に平らげそうである。


 そんな時、食事中の二人に声が掛かった。

 どうやら先のやりとりも見られていたらしい。


「はは、大変だねぇ、ルル」

「うっさいな」

「な、ちょっと、ルル……! そんな言葉遣いは」


 ルルの仕事の上司、クルトだ。

 長めのシルバーの髪を後ろに束ね、眼鏡をかけた男性は、ちょっとした有名人だった。


 すでに騎士職からは退き事務仕事をしているが、かつて騎士隊長まで務めた人物──ヴァルデマールのせいで騎士隊長の座を降りることになったと噂される人間だ。団員たちにも一目置かれているようだった。

 ニ十は年上だというのに、すらりとした長身の身体は長年積み重ねてきた訓練の賜物か、引き締まっていて、衰えを微塵も感じさせない。


「ふっふ、エリエン、相変わらずクマ騎士隊長にぞっこんじゃないか」


 噂だけ聞くとヴァルデマールを嫌っていそうなクルトだが、話してみるとそんなことは一切なかった。

 目をキラキラとさせながらヴァルデマールのことを話すエリエンに、話しかけてきてくれるほどだ。初めて声を掛けられたときには心臓が飛び出るかと思った。


「そうなんですよ~。どんどん素敵なところが見えてくると言いますか! ずっと素敵だと言いますか! とにかくずっと触っていたい。こんなお話を笑って聞いてくれるのはクルト様だけなんです! さぁ、どうぞどうぞお座りください」


 使用人の休憩室で元騎士隊長を椅子に座らせる。

 おかしな状況ではあるが、見慣れた光景でもあった。


「そうだろう? あの毛並みの良さをわかってくれる若い女性がいたとは私としても嬉しいよ。こんな話をこんな場所でできるとは思いもしなかった。いろいろ私も噂されているからねぇ、なかなか正面切ってヴァルデマールのことを話してくれる人間はいないんだよ、おかしな遠慮をしているようでねぇ」


 それからはテーブルに肘をついて口を尖らせるルルを無視して、二人でヴァルデマールを褒めちぎった。

 共感してもらえる相手との会話はなんと楽しいことだろうか。


「わかりますー! でもどうしてあんなに、良い噂を聞かないんでしょうか」


 ヴァルデマールの噂と言えば、血も涙もないとか冷徹だとか、そういう悪意があるものが多かった。

 獣人だからという先入観や、評判を落とすためにあえて流されたものなのだろう。

 が、本人と話せば、すぐにでも払拭されそうなものである。噂と実際のヴァルデマールは全然違うのだ。


「ああ。自分の事はなかなか話さない奴なんだよねぇ。訓練が終われば誰とも話さず帰るんだよ。ちょっとばかり頭が固いというか」

「へえ! そうなんですねぇ。くぅ、やっぱりクルト様には、クマ騎士隊長様も子供っぽく感じられたりするんでしょうか。私はただただ格好良いなあって思うだけなんですけど。あともふもふが可愛いなって」


 思い出してにへらと笑うと、これまで我慢していたルルがテーブルを拳で叩いた。


「……おれは! 認めないからな。クマの獣人だなんて!」


 声を掛ける間もなく、休憩室を後にするルルを見送って、クルトは腕を組んだ。


「ううーん? やりすぎたかねぇ」

「いえいえ! ルルはクマ騎士隊長様を好きになるべきなんです! 何をそんなに気に入らないのか……まさかクマ騎士隊長様に何か言われたわけでもないくせに」

「ルルはルルで思うところはあるんだろうねぇ。まぁ気の済むまで好きにすればいいさ」


 クルトは愉しげに目を細めたが、エリエンはルルの態度が気に入らない。

 上司に対する態度も、ヴァルデマールに対する態度もだ。


「クルト様……! ルルとクマ騎士隊長様、どっちの方が好きなんですか!? 一緒にルルをクマ騎士隊長様好きにしましょうよ……!」

「ええ? 他人の好きをどうこうできないでしょ。それに、私が今一番興味があるのは、エリエンだからさ」


 にこりと笑って軽く流されたので、エリエンも同じく微笑んだ。


「……まあ! クルト様にそんなこと言われたら胸がときめきますね!」

「ううーん? 頬の一つでも染めてくれていたら、満点だったのにねぇ」

「大変申し訳ないんですが、やっぱりクマ騎士隊長様と比べてしまうと」

「正直すぎる、減点」


 真顔で返した元騎士隊長に臆することなくエリエンは笑って。

 それからもやいのやいのとヴァルデマールと、ついでにルルの話もしつつ、楽しい夜は過ぎていった。




「なあ、エリエン。なぜルルにヴァルデマールを好きになってほしいんだい? 何か特別な理由でも?」


 興奮して話し尽くしたのち、クルトはふと思いついたように首を傾げた。

 エリエンはぱちぱちと目を瞬かせた。


「クルト様はルルが獣人を嫌う理由をご存知ないんですか?」

「──ああ。だねぇ」

「たぶん、私のせいなんですよ、ルルが獣人を嫌いになったのは」

「……へえ?」


 今度はクルトが目を見開く番だった。


「ここへくる前、私は孤児院にいました。クルト様もご存知の通り、ルルと同じ孤児院です。そこで兄妹のように過ごしていました」

「ああ、らしいねぇ」


 頷いてくれるクルトを見ながら、エリエンは幼い頃を思い返した。

 静かな森のそば、近くには川も流れている。自然の中に佇んでいた孤児院。


「いつも笑顔で溢れていました。院長先生も優しくて、一緒に生活していた子供たちも仲良くて、とても楽しくて」

「それは……恵まれていたねぇ」

「そうなんです! 良い孤児院でした。……だけど一度だけ、みんなから笑顔が消えてしまったことがありまして」


 それがルルの獣人嫌いの原因だ。とくにクマの獣人であるヴァルデマールに嫌悪感を抱く理由。


 エリエンは空気が悪くならないよう努めて明るい声を出した。


「私、一度、森でクマに襲われたことがありまして」

「え?」

「野生のクマは生息しない森だったので、獣人に違いないって。そのときの傷がこれです」


 シャツをめくって脇腹を見せた。

 そこには爪痕──その古傷が残っている。


「私は驚いて気を失ってしまったのであんまり覚えていないんですが、けっこう酷い傷だったようで。で、そんな状態の私を運んでくれたのがルルだったらしくて……だからその時のこと、よく覚えているんだと思います」


 だから私がクマ騎士隊長様に近づくの、嫌なんだと思うんです。


 思い出すのは飛び散った鮮血と、逃げていくクマの後ろ姿。

 腹部だったから生死を彷徨ったらしい。それを間近で見たルルにはきっと許しがたく辛いことなのだろう。


 へへ、と頬を掻く。

 変な気遣いはしてほしくなかった。


「でももう痛くもなんともないですし、そんなことがあった割には獣人にも、クマにも拒否感はないんです。クルト様もご存知のとおり、クマ騎士隊長様に抱きつくくらいですから!」


 服の上から、ポンと傷跡を叩いた。

 これは本当に、昔のものなのだ。


「私ももう気にしていないことをいつまでも引き摺っていられるの、嫌なんですよね。ルルには過去にばかり囚われていてほしくないって思ってるんです」

「なるほど……しかし、ルルの気持ちもわからなくもない、かな」

「え!!!! クルト様まで??」

「そりゃあ、可愛い女の子に傷跡が残ってる。ずっと消えない傷だ。……許せないだろうねぇ」

「私は全っ然、気にしてないんですよ?」

「それでもだ」


 神妙な顔をようやく解き、クルトは笑顔を見せてくれた。


「ルルはエリエンのこと、大好きなんだから」


 それは、エリエンも知っていたことだったが、クルトの口から聞くと妙に気恥ずかしく感じられて、もごもごと口を閉ざした。




 ◇◇◇




 エリエンがいつものようにふわふわを堪能していると、ヴァルデマールは身をよじった。


「なあ、君はクマが怖くないのか?」


 埋めていた顔を上げると、そこにはヴァルデマールの顔がある。

 心底、不思議でならないといった表情だ。


「え? クマ? 怖いですけど?」

「は?」


 ヴァルデマールは優しく抱き締めていた手を離す。

 なくなった温もりが寂しく、もう一度手を引き戻した。


「もちろんクマ騎士隊長様は怖くありませんよ。意思疎通ができますから」

「?」

「野生の、ただのクマは怖いです。あとは獣人は獣人でも悪人であれば、もちろん怖いですよ。たぶん私とは会話をしてくれませんから」

「会話ができれば平気なのか? ……傷跡が、あるだろう?」


 過去の話を知り、気遣ってくれているのかと納得した。


「確かに傷跡はあります。怪我をしましたが、別にトラウマは無くて。獣人だからとか、クマだからとかそういう理由で恐怖を覚えたりはしないんです。──私は」

「私は?」

「はい。私が怪我をした時に介抱してくれた幼馴染がいるんですが、彼の方がトラウマになってしまったみたいで……獣人も、クマも、苦手なようなんです。私ばかり元気で申し訳ないくらい」

「……そうか。しかし君だけでも元気でよかった。その彼もそう思うのではないか?」

「そうだったらいいんですけど」


 そう苦笑しつつ、ヴァルデマールを窺った。

 エリエンにケガを負わせたクマは今も鮮明に思い出せる。

 腹部に爪が刺さった瞬間、ひどく狼狽えた様子で、慌てて手を引っ込めていた。そして顔を絶望に歪ませ、走り去った。


 わざと傷つけたわけではないとすぐにわかった。

 あまりの動揺っぷりに、痛みに苦しみながらも、どうか気に病まないでほしいと思ったほどだ。

 見ず知らずのクマ相手だったが、揺らぐ金の瞳が馴染み深く、親近感が湧いたのもある。


 ──憎めなかった。

 だからトラウマにもならない。なるものか、と思ったから。


 記憶と一致するはちみつ色の瞳をじっと見つめた。


「……クマ騎士隊長様のことはもちろん本当に好きですけど、実は、私がクマ騎士隊長様と仲良くしていれば、ルルもちょっとは気にならなくならないかなって思ってるんです。内緒ですよ。クマ騎士隊長様も気にしないでくださいね。本当にこんな傷跡、なんともないんです。昔の事ですし、すっかり忘れてくれたらいいなと思うくらい」


 そう言ってヴァルデマールをぎゅっと抱きしめた。


 彼は、自分勝手なエリエンを咎めることもせず「そうか」と頭を撫でてくれた。

 その柔らかい毛と肉球は気持ちよくて。

 目を瞑ったエリエンには、歪むヴァルデマールの顔は見えなかった。







 それから、ヴァルデマールはエリエンの元へ現れなくなった。

 忙しいのかと思ったが、訓練は通常通りに終わっており、緊急の事件もないらしい。

 日にちを間違えたのかとも考え、何日か待ってみたが、約束の日もそうでない日も、ヴァルデマールは姿を見せることはなかった。


 ふわふわを失ったエリエンはすっかりとしょげていた。


「嫌われちゃったのよ……私が余計な話をしたばっかりに……」


 聞いてくれるのは──聞かせているのは、ルルとクルトだ。

「落ち込んでるエリエンは珍しいねぇ」と興味本位でやってきたクルトだったが、早まったと後悔していた。


「ヴァルデマールも忙しいんじゃないか」


 そんなフォローも、エリエンはさっと否定する。


「いいえ! だってこっそり訓練所も見てきました! 定時で終わり、帰られたのをしっかりとこの目で見たんです!」

「……自分の仕事は?」

「今はそれどころじゃないので!」


 正常な判断力が落ちているエリエン。

 クルトは諦めてルルへと顔を向けた。どうにかしろ、という意味だったが、全く伝わらない。


「ほらな! 獣人なんて気を許しちゃダメなんだ。あいつらは簡単に人を裏切る」

「ルル」

「とくに、ヴァルデマールは」

「──ルル!」


 叱咤されるとルルは口を押さえた。

 幾度か咳払いをして、「とにかく」と言い直した。


「獣人なんてロクなもんじゃない。これを機に近づくのをやめろ、エリエン。どうせ向こうもエリエンに近づいてほしくないんだろ」


 冷たい物言いに、エリエンは止めを食らった。

 頭の中で必死に違うと言い続けたが、そうとしか思えなかった。


 気づいてくれたらいいと思ったけれど、気づかれてはいけなかったのよ。


 エリエンはぽつりと呟く。


「…………自分のことを恨んでるって、そう思われちゃったのかもしれないわ」


 最後に頭を撫でてくれたとき、ヴァルデマールの手は優しかった。──まるで壊れ物に触れるように。


 思えば、再会してからずっと彼は優しかった。

 彼も気づいていたのかもしれない。


 森の中で襲ってしまった少女が、エリエンだと。


 ずっと罪悪感の中、エリエンの願いに応えてくれていたのかもしれない。

 もしかすると罪滅ぼしの一つと考えていたのかもしれない。


「……なのに私が気づいてるって、気づかれた……」


 余計な一言で、ヴァルデマールは勘づいてしまった。

 過去の過ちを軽くするつもりだったが、一方的な善意でしかなく、優しい彼は距離を置いたに違いない。


「違うの……もうホントに気にしていないのに……」

「何言ってる!? エリエンが恨むことなんかないだろ!? 悪いのは全部あいつで……!」

「っごめ、私、部屋に、戻るね!」


 流れ落ちる涙を隠すようにエリエンは走り去っていった。

 そしてクルトは非難めいた目でルルを見る。


「ほんとお前は何がしたいんだい。好きな子泣かせて」


 ルルもまた、辛そうに顔を歪ませた。


「~~放っておいてくれよ!」


 言うや否や、ルルもまた席を立つ。

 残されたクルトは、居合わせたことを後悔しつつ溜息を吐いた。


「放っておいてほしいなら、私のいないところでやってくれ。青少年たちよ」




 ◇◇◇




 次の日、クルトに頼まれ、町へ買い出しに出掛けていた。

 ルルとエリエンは並んで歩く。

 ついでにちょっと話をしてこいと送り出されたが、雰囲気は悪かった。


 エリエンはつんと顎を上げ、ルルは眉を険しくさせた。


「獣人とか人間とか関係ないから。獣人だって優しい人はいるし。クマ騎士隊長様も優しいって、私は知ってる。ルルが否定するなんて許さないから」

「そう思ってるのはエリエンだけなんだって。裏で何してるかわかんないだろ。力の強いクマだ。人を襲ってるかも」

「……それはルルが言うことじゃないでしょ。もしそうだとしても、本当のことをルルが知ってるの? 憶測で言ってはいけないわ」


 言い合いながら、速足で目的の店に向かう。

 クルトから渡された地図では、迷いやすく人通りも少ない路地裏にあるようだった。


「ここか……」


 地図に示された場所に到着すると、店の前は少し開けていた。


「何のお店なの?」

「さあ? 行けばわかると言ってたが。何かの薬らしいんだ」

「ふーんそうなの。さっさと買って帰りましょ。今日こそ、もしかしたらクマ騎士隊長様が会ってくださるかもしれないし」

「まだ諦めてないのかよ」

「悪い? あのふわふわは二度と忘れられないってば」


 言いながらドアノブに手を掛けた。

 瞬間、ちりんと音が鳴る。僅かな動きで音が鳴るように作られた呼び鈴は、店主とは思えない人間を呼び出した。


「えぇ!?」


 囲まれるように現れた、十人の黒装束。

 黒い布で鼻から首までを覆い隠し、目だけが見えているが、人相は判別できそうになかった。

 その全員の手に剣が握られている。


「なんだ、お前らは!!」


 戸惑う二人だが、黒装束の誰一人、疑問には答えてくれない。

 一言も発することなく剣を振り上げた。


「は!?」


 ルルは咄嗟に立てかけてあったほうきを手に取った。

 乱暴に振り回されたそれは、黒装束の剣を打ち払っていく。

 が、現れた敵はどうやら訓練を受けているらしい。

 簡単には倒れてくれない黒装束たちに、体力のないルルは見るからに疲労していた。


「く、そう!!」


 エリエンはそんなルルを守ろうと、同じくほうきを片手に前に進み出た。


「次は、私が」

「馬鹿、前に出るなって!」

「でもルルにばっかり……」

「店の中にでも入ってろ!!!!」


 ルルはエリエンの服を引き、もう一度背後へと押しやった。

 エリエンは言われたとおり、助けを求めて店のドアに飛びついた。

 が、押しても引いてもドアは開かない。


 ドアを叩くドンドンという音。

 じりじりと迫る黒装束たち。


 わけがわからないまま、武器と言うには心もとないほうきを握りしめ、ルルは奥歯を噛み締めた。


「なんだってんだ」


 ドアを叩きながら、エリエンはルルの悔しそうな声を聞く。


 ただのおつかいのはずだった。

 こんなことになるのなら護衛として騎士に付き添ってもらえばよかった。


 力になれない自分を情けなく思い、ルルを振り向く。

 と、ルルは大きな声を上げたところだった。


「く……っそう!」


 ルルがそう言うと、細かった身体はみるみる大きくなり、髪色と同色の毛皮で覆われた。

 キャラメル色のふわふわと、鍛え上げられた身体、顔は見慣れたクマのそれ。


 待ち焦がれた姿にエリエンは叩く手を止めた。


「……クマ騎士隊長、様……?」


 現れたヴァルデマールはエリエンのほうきを奪い、二本を重ねて振り回す。

 ほうきが壊れないよう手加減しつつも、黒装束たちをあっという間に吹き飛ばした。


 エリエンは危機的状況も忘れ、飛びついた。


「クマ騎士隊長様……!」


 ふわふわの毛は間違いなく、ヴァルデマールのもの。

 状況は飲み込めないが、待ち望んだふわふわに本能のまま顔を埋めた。


「お、おい、今はそれどころじゃ……! 離れろっ」


 身をよじりながらも、倒したはずの敵から意識は逸らさない。

 叩き飛ばしただけの黒装束たちがのそりと起き上がったところだった。


「やっぱ、無理か」


 向けられる剣の数は変わらず、ヴァルデマールはちっと舌打ちした。

 が、次の瞬間には、カランカランと次々に音がする。──剣が落ちる音だった。


「は?」

「え?」


 どんなに叫んでも叩いても閉じたままだったドアがようやく開き、店の中から登場したクルトに目を丸くした。

 ふくみ笑いを見せる彼を見て、ヴァルデマールは不機嫌に眉を寄せた。


「は、じゃないなあ。ルル──ああ、今の姿ではヴァルデマールか?」

「っ、謀ったな……!」


 そう睨むとますます笑みは深くなる。


「ふふ、そんなことよりエリエン、大丈夫かい? 怖い目に合わせてしまってすまないねぇ。それもこれもこのヴァルデマールのせいだと思っておくれ」

「え、ええ、大丈夫です、が」

「こいつがちゃんと話さないから拗れるんだ。この機会に洗いざらい話してしまえ。エリエンも言いたいことがあれば遠慮せず言えばいい。怖い目にあったのは頑固なヴァルデマールのせいなのだから。私のせいでなく、ね」


 ちゃんと話しなさいと言っただろう、とそう言いつつクルトは改めて二人の時間を作るべく離れていった。

 呆然とヴァルデマールに抱きついたままのエリエンは、ゆっくりと首を傾げた。


 ふわふわに気を取られたけど、ルルはどこ……ルルがクマ騎士隊長様?


 恐る恐る抱きしめた毛から離れる。

 じっと見つめるヴァルデマールの瞳は、ルルと同じはちみつ色。


「えっと、エリエン……」

「っ、私ったら、どうして気づかなかったの! 髪の色も瞳の色も一緒なのに!」


 言いにくそうなヴァルデマールを見ると、思わず遮っていた。

 視線を逸らす姿は、傷を負ったあの日に見たクマの姿と重なった。


「もう、どうして教えてくれなかったのよ!」


 トラウマは無いと思っていたが、どうやら気のせいだったらしい。

 はちみつ色の瞳が逃げるようにそっぽを向けば、耐えようもない苦痛を感じた。


 親しんだ、大好きな金に輝く瞳が、気まずそうに逸らされるところはもう見たくなかった。


「逃げなくたっていいじゃない。教えてくれたっていいじゃない。別に、私は! 全然! 怒っても恨んでもいないのに、ルル」


 ヴァルデマールの顔は、似つかわしくないほど渋面になった。

 表情も言葉遣いも、ルルのようで、エリエンは遠慮もなく彼の両頬をつねる。

 横に伸びたクマの顔は、少しだけ格好悪く見えた。


「…………ごめん、おれが弱かったばかりに、エリエンを傷つけた」


 手を伸ばし空に掲げた指先には、琥珀のような美しく長い爪。

 簡単に人を傷つけられる身近な武器であり、かつてエリエンに消えない傷を負わせたものだ。

 謝罪の言葉は、森での出来事に対するもの。彼の心はきっと、ずっとそこで止まっている。


「それはいいんだってば。でもどうして言ってくれなかったのって、それだけは怒ってる」

「……ああ」


 長い爪が頬に触れた。


「おれは、エリエンを傷つけた。力の加減もわからないまま、エリエンに触ってしまったから」


 そっと撫でる爪は優しかった。


「おれは、許されないことをした。獣人なんて、くそだと思う。力を加減できない奴はいなくなればいい」


 声も眼差しも、触れる手も優しいけれど、そう吐いた言葉だけが厳しかった。その言葉は他でもないヴァルデマール自身に向けて言っている。


 ──ルルが獣人を嫌っていたのは、獣人である自分を許せなかったから。


 エリエンは堪らず、大きな手に自分から擦り寄った。


「……でもルルはもう力のコントロールができるようになったでしょ。私の顔だって傷つかない」

「そのための騎士団だ。力が強ければ隊長にだってなれる場所だ。手荒なマネをしたって平気な場所。力を制御するために行った場所さ──もう二度とエリエンを傷つけないために」

「じゃあ、もういいんじゃないの。もうルルの手で傷つくことはないんだから」


 思い通りに動かせるようになった大きな身体。指先すら繊細に動かせるようになった今ならば、自分を許してもいいのではないだろうか。

 そう思うけれど、ヴァルデマールは眉根を寄せて首を振る。


「駄目だ。そんなおれに都合の良いこと……ルルとしてそばにいることさえ、本当は許されないことだ。だけどヒト型だから傷つけることはないってうやむやにしてて。なのに、クマのおれにすらエリエンは平気な顔して近づいてきてくれた。それが嬉しくて……そんなことを思う資格もないくせに、おれの私欲で先延ばしにしてた。エリエンは獣人のおれとは絶対に関わるべきじゃないのに」


 そう言うとヴァルデマールの視線はエリエンの脇腹を向く。服に隠されて見えない傷跡が気になるのだとすぐにわかった。


「私、クマ騎士団長様があの時森で出会ったクマだってこと、知ってたのよ」

「うん」

「それを知ってて、近づいたの。だから全然平気なの」

「ん、わかってる」

「前も言ったけど、クマ騎士団長様のふわふわが大好きだったのも本当だけど、ルルにちゃんとわかってほしかったからなの。私はもう大丈夫だって」

「……それもわかってる」


 それでもまだ自分を許せない彼の瞳は、エリエンの顔を映してくれない。

 胸が締め付けられたように痛かった。


「…………私もさっき気づいたんだけど、実はトラウマがあったみたいなの」

「え!?」


 狼狽したヴァルデマールの頬を両手で押さえる。

 どこにも行かないように、視界に自分が入るように、決して逃げないように。


「ルルに、クマ騎士団長様に、目を逸らされることが怖いの。そのはちみつ色の瞳が私から逃げるように逸らされるのが──大好きな人に嫌われたようで怖い」

「は」

「そんなに許されないことだって思うなら、私のトラウマ克服に付き合って」


 残った傷跡よりも、立ち去っていく後ろ姿ばかりが気になっていた。

 向けられた背中は寂しかった。

 それはルルと同じ色の瞳だったからだ。


「──絶対に二度と目を逸らさないって約束して。私はずっとルルが好きなのよ」


 見開いた目に、ふわりと微笑んだ。


「…………獣人だぞ」

「うん」

「……エリエンを殺しかけたクマだ」

「知ってるってば」

「ずっと獣人だって黙ってたんだぞ。嫌われたくなくて」

「ふふ、それもさっき知った!」


 真剣な願いが届いたのか、彼はようやく笑ってくれた。


「これ以上、エリエンに近づいたらダメだって思ってたんだ……」

「それは初耳」


 まだ少しぎこちない笑みが心苦しかったが、目を逸らさないでいてくれる。

 それに安堵しつつ、ふわふわの胸に飛び込んだのだった。




 ◇◇◇




 苦労して訪れた店の中には、売り物は何も置いてなかった。

 使われている様子もなく、テーブルと椅子が無造作にあるだけだ。

 殺風景な店内を見回してエイリンは首を傾げた。


「クルト様、ここはお店なんですか?」

「違うよ」


 目を細めて笑うクルトは人間の姿になったヴァルデマール──ルルにずっと睨まれている。


「騙しやがって!」

「ははは、酷い言い草じゃないか。騙される方が悪いと思うけどねぇ。そんな純粋とは思わなかった。それに確かに店ではないけれど、薬はあったでしょ」

「何?」


 指差された外へと繋がる扉を見ると、窓の外には黒装束の男たちの姿がある。

 フードと口元の布を剥いだ彼らは何やら興奮したように話しているようだった。


「本当ねぇ、君たちはずっと、本音で話せばいいだけだった。それを後押ししてあげたわけだ。感謝してほしいくらいだね」


 ルルは獣人であることを隠していた。クルトの元で働いていると見せかけて。


 元々騎士団長を退きたかったクルトはヴァルデマールを後釜にしようと考えたらしい。だからこそ手を貸してくれたらしいが、大変な根回しといくつもの嘘、少なくない気苦労があったことだろう。迷惑を掛けていたに違いなかった。


 気まずく思いつつ、思ったことを口にする。


「あの、外の彼らは何なんですか?」


 戦闘力が高く、クルトに従っている。出かけたルルとエリエンを襲うという仕事とも思えないものに付き合ってくれるのだ。

 エリエンの疑問には、なんでもないことのように答えてくれた。


「ああ、ヴァルデマールのファンだよ」

「ファン!?」

「ほら、ヴァルデマールは強くて特別で、実は団員には人気があるんだ。単に力が強いだけじゃなくちゃんと武器の扱い方をマスターしているからねぇ。だが、こいつは自分のことは話さない、訓練が終わればすぐに帰ってしまうから。私の力が及ぶ範囲で、少しでもヴァルデマールのことを知りたいっていう奴らをかき集めてみた」


 そう聞けば彼らの嬉しそうな顔も理解できるような気がした。


「彼らからすればヴァルデマールの秘密を知れて、しかもヒト型のときと手合わせもできて。ヴァルデマールは君を守ることで少し過去の罪悪感も減るかもしれない。エリエンも本当のルルを知ることができたわけだし、私も君たちの噛み合わない会話を聞いたり変に気を遣ったりすることもなくなる。こんなにいいことずくめなことってあるかい?」


 クルトがうんうんと頷くと、ルルは悔しそうに奥歯を噛み締めた。


「まあ、少し、エリエンには怖い目に遭ってもらったけど、それもすべて、エリエンをきちんと守れなかったルルが悪いね。こんなことになるまでエリエンに話をしなかったヴァルデマールが悪い。私は悪くない」

「この姿の時は、弱いって知ってるだろ!?」

「知ってるさ。知ってるからこそ、大事なことを話さないまま大切な人を守れると思うのか? お前にはせっかく守る力があるのに? 現に、お前はルルの姿では守れなかったじゃないか。お前の秘密が早々に知られてよかったな」

「何を……」

「クマとヒト型で口調まで変えていたのは面白かったねぇ」

「!」


 反論を飲み込むルルと意地の悪い顔で笑うクルトを見守りながら、エリエンの心はどこか軽くなっていた。

 大好きなルルの獣人を嫌う理由も、クマ騎士隊長様との昔の縁も、自分が解決しなければいけないことだと思っていたからだ。


 すっかり肩の荷が下りた。

 ほっとした途端、新しい事実に気づく。


「待って! ルルがクマ騎士隊長様なら、あのもふもふふわふわをもっとたくさん堪能できるってことじゃない!? 遠慮なんてしなくていいんじゃない!?」


 満面の笑みを披露したエリエンに、ルルは呆れて、クルトは穏やかに微笑み返してくれた。

 これまでより温かい気持ちになるのは、秘密を共有できたからだろうか。



「ねえ、ルル。ちなみにだけど、人間のとき、どこに獣人っぽさが残ってるの? 今まで全然気づかなかったから、気になって」

「……しっぽがある」


 ルルの穿いているズボンは常に、お尻がゆったりとしていて足首が締まっていた。

 服の好みとばかり思っていたが、しっぽを隠す重要な意味があったようだ。


「え、見たい!」

「見せるわけないだろーが」


 けんもほろろに手を振ったルルは、お尻を手で隠した。

 ここぞとばかりに口を出すクルトはやはり意地が悪い。


「はっはっ、そんなに慌てなくてもいつか見られるんじゃない、エリエンなら」

「な!?」


 奇声を上げたルルをよそにエリエンは嬉しそうに手を叩く。


「そう? 約束ね」


 ルルは毒気を抜かれたように、「ああ、まあ、いつか」と口にした。



 冷徹なクマ騎士隊長が一人の女性を愛している、という噂が広まる日もそう遠くない。








 おしまい


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