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革のブーツ




 夏の森の中に蹄の音が響く。視界を流れ去っていく木々。目の前には金の鹿。絹のように艶やかな体に手が触れそうになったとき……強い風が吹いて店が軋んだ。それは、一瞬のうちに幻をかき消した。シエナの肺は匂いのない、ツンとした空気でいっぱいになる。


 エリックは風の音など気にしない様子で言った。


「僕はこの話がとても気に入っているんだ。とっても素敵な話じゃないかい? もし本当に、その森で見かけた鹿のようになれたら、どれほど速く走れるだろう。どんな景色が見えるんだろう。ときどき僕も鹿になりたくなるし、なった気にもなる。そして、こうも思うんだ! この話を伝え聞いた人たちは誰しも鹿になったのではないだろうかと」


 少女は浮かれた旅人を見た。エリックはまだ物語の中にいるようだった。その目はこの場にいもしない鹿を追っているように宙に向けられていた。


 どんな話かと思えば、よりによって変身譚! そんなものは幼い子どもにする話だ。少女は話に聞き入っていた自分が恥ずかしく思えた。そのことをエリックに気づかれないようにシエナは静かに言った。


「エリックさんは鹿になりたいんですね」


「ときどきはそう思うね。でも、本当になりたいものは別にあるんだ」


「本当になりたいものってなんですか」


「それは、内緒さ……君は鹿のようになりたいと思ったことはないのかい? 」


「人間はどんなに頑張ってもそんなふうに走れるもんじゃありません」


 エリックは苦笑しながら鹿は嫌いだったかな? と尋ねた。そして、自分の茶色いブーツの視線を落とした。その顔はどこか悲しそうに見えて、シエナははっとした。


 自分はエリックを店に入れてしまったのだ。ならば、客と同じように接するべきで、父親がそうするように愛想よく振る舞うべきである。


「ごめんなさい。別に嫌いではないんです。長い旅をするような人ならきっと、同じくらい速く走れるかもしれません」


 擦り切れたブーツの革の具合から長い旅路を歩いてきたことがうかがい知れる。鹿のように細くはないが、がっしりとした丈夫そうな足だ。きっとシエナよりもずっと速く走れるだろう。


 エリックは「そうだったらどんなに楽しいだろうね」と返事をしたが、下を向いたままだった。それ以上どんな言葉を彼にかけたらよいかと悩んでいると、エリックが顔を上げた。


 珍しいものを拾った子どものように明るい調子で言う。


「そうだ。鹿がダメなら鳥の話はどうだろう? 君も知っているだろう。小鳥の囀る穏やかなときを。そうだ、小鳥にしよう! 」


 どうやら落ち込んでいたのではなく、次にする話を考えていただけのようだった。


 シエナは呆れたまま、彼が続けざまに話すのを聞いていた。ひょっとすると、こんなによく喋る男はこの町にはいないかもしれない。


「ナイチンゲールを知ってるかい? あの美しい声で歌う小鳥」


 テーブルから身を乗り出してシエナに尋ねる。


「ええ、知っています。この辺りにもいますから」


「それはいい! この話に決めたよ」


 それは、なにやらいいことを思いついた妹が見せる表情に似ていて、少しおかしくなった。


「彼女は他のどんな小鳥よりも、うんと美しくそして悲しく鳴くという……彼女はとある仙女の娘だったそうだ」






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