元ねこ、街ブラする
翌日は、旧軽井沢の町を散歩がてら、適当なところで昼食を取ろうと話が決まった。
朝食後、俺と純一郎は部屋でごろごろしていた。
甲高い声が微かに聞こえたので窓から外を覗きみると、隣接した別荘の庭で、子どもが雪合戦をして遊んでいた。雪に触っては冷たいと悲鳴を上げながら、その冷たい雪で玉を作って互いにぶつけ合っている。
寒さを堪えながら冷たい雪を丸めて、投げ合うのが楽しいらしい。
人間は変な動物である。真っ白い雪景色は見ていて珍しく楽しいけれど、自分の体が冷えてしまっては楽しむ余裕もなくなる。暖かい室内から見るから、雪景色も楽しいのだ。
純一郎はベッドの上で仰向けになって、枕元にあるラジオを聞いていた。音楽番組が終わると、手を伸ばしてスイッチを切り、テレビのリモコンを取り上げた。
「社長の柳澤守雄さんでーす。柳澤社長、おはようございます」
空々しいほど明るい声が、静かな室内に流れた。どこかで聞いた単語だと思ってテレビ画面を見ると、昨日お茶をご馳走になった妙子夫人の夫であった。
今日はマリー・ケイの代りに、マイクを握り締めたスーツ姿の女性を側に侍らせている。
彼は発展目覚しい企業の若き社長として、地元のテレビ局に出演していた。明るい声の女性の質問に答える形で、会社の説明をしている。
どう見ても、普通の企業経営者にしかみえない。マリー・ケイが側にいないせいかもしれない。昨日のように、姉が姉が、と連呼しなかったせいかもしれない。
番組は5、6分で終わった。いつのまにかテレビに見入っていた。純一郎を振り返ると、彼と目が合った。やはりテレビに集中していたのだろう、うおおっ、と目を合わせたまま大きく伸びをし、かくかく、と首を左右に傾けた。
「まっとうな人間に見えるな」
「うん」
俺もそう思った。他に言い様もない。
「テレビ、見る?」
首を振ると、純一郎はテレビを消した。柳澤守雄を見るためにテレビをつけたのか。どうして彼がテレビに出るとわかったのだろう。
俺は、純一郎がさっきまで新聞を読んでいたのを、思い出した。新聞にはテレビの予定表が載っている。予め放送時間を調べておいたのだ。
疑問を自分で解決できて、俺は気分がよくなった。純一郎はといえば、今度は軽井沢の案内書を広げて熱心に読んでいた。
毛皮で重装備しても、外は寒い。旧軽井沢のどこへ行くという当てもないので、車を使わず歩いて行くことになったのだ。
きちんと雪掻きしてあるとはいえ、雪掻きに間に合わなかった分は、固く踏みしめられてつるつる滑る。
ホテルから旧軽井沢へ行く道は上り坂だ。後ろへ滑りそうで怖い。厚い靴底の底からしんしんと冷えが染みる。おまけに着ているものの隙間から入る冷たい空気が、体の熱を徐々に奪う。手袋を嵌めた指先が冷たい。
「あ、ジャムの店よ」
色とりどりの瓶が並ぶ景色に、理加が目を奪われた。壁一面ジャム瓶だけで覆われている。イチゴやマーマレードのようなよくあるもののほかに、クルミバターやルバーブとかいう野菜みたいなもののジャム、バラの花びらのジャムもあった。
理加は真剣に眺め、バラの花びらジャムを買った。1個しか買わなかったのに、店員はにこやかで丁寧な態度で好感が持てた。もっとも、1個で牛丼屋ならお釣りが来る値段である。
旧軽井沢通りには、乗用車がやっとすれ違えるぐらいの道路の両側に、小さな店が建ち並んでいた。
並んでいる店が軒並み洒落ている辺りが、鄙びた観光地と違う点であった。ジャムを売る店はほかにいくつもあり、例えば同じルバーブのジャムでも、作っている会社が違うのか、いくつも種類があった。
理加は片端から入って吟味した。試食が出来る店もあった。俺はマロンクリームを試食した。思ったより美味しかった。理加に感想を言うと、1つ買ってくれた。
ワインを売る店もいくつもあった。日本酒が中心の酒屋ではなく、ワインが中心という辺りも、外国人の保養地として発達した軽井沢らしい風景だった。
緑色の瓶が多く、店の灯りに透き通ったワインの瓶は宝石みたいにきれいに輝いていた。
ジャムには通り一遍の興味しか示さなかった純一郎も、ワインには目を煌かせた。試飲ができる店では、片端から飲みまくって顔を赤くしていた。
そんなに立て続けに飲んだら、味がわからなくなるんじゃないか、と理加に冷やかされた。そういう理加も純一郎ほどではないものの、俺から見たら結構試飲していた。
「綾部も片っ端から飲んどるやん」
「秀章さんと私の好みが違うの。甘口も辛口も両方飲まないとわからないでしょう?」
留守番している成瀬の分も含めて何本も買ったので、理加は箱詰めにして宅急便で家に送るよう手配した。純一郎の買った分も同じ箱に詰めていた。お金は後でまとめて払う算段である。パン屋もいくつかあった。
「好きなパンを買って、お部屋で食べましょうよ」
これまで試食も試飲もほとんどしなかった絹子叔母の意見に、純一郎が賛成した。ワインの試飲で、顔色を見た限りでは、すっかり出来上がっている。
「この店もおいしそうやけど、俺はジョン・レノンのパン屋で買うわ」
女性でやたらごった返す店内を抜け出し、彼は宣言した。正しくは、ジョン・レノンが好んで買いに通ったパン屋である。彼がパン屋を経営していたわけではない。夕食の席で散々蘊蓄を聞かされ、俺の猫頭にもビートルズの雑学が少しは残ったようだ。
途中、チーズを使ったお菓子の店でチーズケーキも買い、それぞれ好きなパンを買ってホテルへ戻った。
俺と純一郎の部屋で昼食を取り、夕方は駅に近い方のレストランへ行くことに決まり、集合時間まで暫く食休みすることになった。
理加と絹子叔母は部屋へ戻っている。俺と純一郎は午前中に引き続いてごろごろしていた。純一郎は、ジョン・レノンが好んだフランスパンを丸々1本買って満足気である。もちろん、一度に全部食べられなかった。残した半分は新聞紙に包んで取り置いてあった。
「こないに何もせんで、のんびりするのも、ええなあ」
「人間は、いっつも追われているみたいに忙しそうだもんね」
「何に追われとるのやろねえ」
思いついたことを言っただけなのに、純一郎は真剣に考える風である。そんな風にいつも考えてばかりいるから、いろいろ用事を思いついて忙しいのだ。俺は純一郎に勝手に考えさせておいて、昼寝した。
猫だった頃の夢を見た。悲しくも楽しくもなかった。ただ生きていた。