元ねこ、うんちくを聞かされる
陰鬱なお茶の時間をやり過ごした後、柳澤家の車で俺達はホテルに戻った。部屋に入るなり、純一郎が質問した。
「ねこ、何や見えたか?」
「え? シュークリームがすごくうまかった」
「ちゃうって」
純一郎はじれったそうに眼鏡の位置を直した。どこがどう直ったのかは、俺には判らない。
「今日出かけた家の中、家のある敷地に、生き物と違う何かの存在を感じたか?」
実を言うと、俺には純一郎の言っていることがあんまり理解できなかったのだが、一応考える振りをしてみせた。
当然、思い当たることなどなかった。そもそも、何を考えたものかもわからない。
時間をおいてから首を振ると、純一郎はそうだろうと大きく頷いた。俺はほっとする反面、済まないような気がした。と、電話が鳴った。
「……ああ、はいはい。ええよ」
受話器を戻して、純一郎が扉へ向かった。開いた扉の向こうには、理加と絹子叔母がいた。
「同じ造りなのね。がっかりしたわ」
無遠慮に男2人の室内を見渡して、理加が感想を述べた。絹子叔母は、純一郎がそつなく勧めた安楽椅子に収まって、窓の外に慎み深く視線を逸らしていた。
純一郎がきちんと整頓しているお蔭で、俺たちの部屋は清潔に見えた。ベッドカバーもきちんと整えてある。理加は特段褒めたりもせず、2人掛けのソファに腰を下ろした。
純一郎が鏡の前に置かれた小椅子を持ち出して、絹子叔母と理加の間に座った。背が小さいから、低い椅子に座ったら子どもみたいな高さになったが、彼は気にしていない。
俺がソファの真ん中に陣取る理加にくっつくようにして座ったら、理加は脇によけて隙間を作った。
「ちょうど、ねこと話しとったんやけど」
女性2人の来訪は、柳澤家の感想を聞くためらしかった。そう言えば、軽井沢へ来た目的は、柳澤家に幽霊が出るかどうか、だったっけ。俺の記憶力では、もうほとんど霞みがかっている。
「私が見たところでは、あのマリー・ケイとかいう自称霊能力者は、芝居をしているだけだと思うわ。日置みたいな能力があれば、理斗を見て何も反応しない筈はないもの」
理加が言った。俺にも普通の人間に見えた。もっとも、純一郎も竹野のじいさんも、俺には普通の人間に見える。
だが純一郎や竹野のじいさんには、俺は普通の人間には見えないのだ。
いちいち確認してはいないが、心霊学部の先輩達にも俺は普通の人間には見えないらしい。だから学籍番号がなくても、いつも理加とくっついて歩いても怪しまれない。彼氏と誤解を受けたこともない。これは喜んでいいのか悲しむべきなのか。
理加の視線を受けて、純一郎が後を引き取った。
「俺もそう思う。それに、家の中を案内してもろたけど、どこにも柳澤さんの奥さんが言うような気配もなかった。ねこも何も感じへんかった、な?」
「日置に見えないのに、理斗に見えるわけないでしょ」
「そうなると、妙子さんの話には他の意味があるのかしら。私、彼女の話を真に受けてあなた方を引っ張り出してしまって、却って悪いことをしたのかもしれないわ」
絹子叔母の言葉を聞いて、理加が慌てた。
「仮に妙子さんが幽霊の事で嘘をついていたとしても、絹子叔母さん1人で妙子さんを訪ねたら、ご主人とあの自称霊媒師と、どんな濃い時間を過ごす羽目になったかわからないわ。理斗や日置までぞろぞろ引き連れてきたから、彼女の毒牙にかからず済んだのよ」
マリー・ケイ、完全に詐欺師扱いである。
「それに、軽井沢いっぺん来てみたかったし。今夜のディナーは、万平ホテルに予約してはるんですよね。ジョン・レノンが泊まったホテルで食事するなんて、夢みたい」
純一郎も絹子叔母を慰めるべく応援を買って出た。途中から、本気で自分の楽しみを追いかけ出したのが、絹子叔母には大いなる慰めになった。
「日置くんにもそう言ってもらえたら、嬉しいわ。ありがとう」
そのうち妙子夫人から連絡があるだろう、と理加が言い、それ以上柳澤家について結論を出すことなく、2人は部屋へ戻った。
万平ホテルへは、タクシーで行った。
雪がなければ歩ける距離だったので、泊まっているホテルからはそれほど時間がかからなかった。外見は山小屋風であったが、中へ入ると明治創業の外国人向けホテル、という品格を感じた。
長い年月の重みに耐えながら、決して小汚くなく、明るく洗練された美しさが満ちていた。この日は中華料理を予約していたのだが、ちらりと覗いた食堂の佇まいときたら、まるで別世界であった。
「ここへはネクタイせんと入れへんな」
充分に気合の入った服装をしている純一郎が、弱気な声を出した。純一郎は俺から見てもはしゃいでいて、自分を抑えるのに苦労していた。憧れの人が泊まったホテルで、失礼な真似はできない、とそれでも自制していたのだ。そのくせ、用もないのにあちこち見て回り、挙げ句の果てには写真を取ってくれと言い出して理加を呆れさせた。
「日置が入ったら、景色が写らないわよ」
それでもいい、と純一郎は言い張ったので、理加は周囲に気兼ねしながら何枚か純一郎入りの写真を撮影してやった。
一体に心霊学部の人間は、写真を撮られるのを嫌う。テレビカメラにも映りたがらない。
俗に言う心霊写真になる確率が高いからだ。景色が写らない、というのは、通りすがりの浮遊霊や純一郎自身の霊能力で肝心の景色が隠れるという意味である。
純一郎をこんなに夢中にさせるジョン・レノンは、どんなに凄い人間なのだろう。廊下に飾ってある写真で、顔を知ることができた。眉毛の濃い女性と並んで写っている。名前からして外国人、純一郎によるとイギリス人だそうだ、なのだが、白黒写真では日本人にも見えた。
優しそうではあるが、凄い人間かどうかは写真ではわからなかった。純一郎に感想を言うと、大仰にため息をつかれた。
「ま、ねこには、わからんやろ」
失礼な、と思ったが、確かにどうでもいいので、反論しなかった。
料理はもちろんおいしかった。とろとろしたスープや、豚肉の揚げたものや、齧ると中からぷしゅっと汁が出てくるシュウマイみたいなのや、俺がこれまで食べたことのないものがいろいろ出てきた。
ちなみに、純一郎は気を遣って抜いて料理してくれるのだが、猫が食べてはいけない玉ねぎやらニンニク、生のイカやチョコレートなんかも、人間になってからは食べられるようになった。人間になってよかった、と思うことの一つである。でも、あんまり好きではない。それとは別に、最後に出てきた揚げごま団子や、マンゴープリンも好きになれなかった。
純一郎はもちろん、感激しながら食べていた。絹子叔母も理加も黙々と食べるばかりなので、彼のビートルズに関する薀蓄を延々と聞かされた。だが、お蔭で通夜みたいな食卓にならずに済んだ。