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元ねこ、雪景色に凍る

 「さ、寒い」

 列車を降りると、肌を切り裂かれるような寒さが、俺を襲った。

 毛皮のコートにマフラーと手袋、内側に毛皮を貼ったブーツを履いていても、剥き出しの頬がぴりぴりとする寒さは、即座に全身に伝わった。

 なまじ列車の中の暖房が効きすぎて、頭がぼうっとしていたところだったから、余計に堪えた。


 車窓から見ていた通り、外は一面の雪景色である。冬の夕方だから暗いのか、と思いきや、今にも降り出しそうな灰色の陰鬱(いんうつ)な雲が、分厚く空を覆っていた。


 駅のすぐ側にスキー場があって、山を削った真っ白な斜面にへばりつくようにして、人々がばら撒かれていた。じっと見ていれば、それぞれリフトに乗ったり坂を滑り降りているのがわかっただろう。


 俺は電車の中から見たように、遠くの景色を楽しむどころではなかった。

 道が凍っているのである。

 雪が積もって、踏まれて圧縮されて氷になって、昼間の太陽熱で溶けてつるつるになっている。と、純一郎に説明された。

 俺も猫として長いこと生きてきたが、昔東京に雪が降った時でも、冷たいのを我慢すれば、歩くのに困るということはなかった。


 こうしてみると、2本足は、実に歩きにくい。普段と同じ歩き方をすると、すぐに滑って転んでしまう。

 路面が完全に凍っている時には、足裏全体に体重を掛けるようにして地面へ平行に下ろして、柔らかい雪が残っている時には、踵を地面に叩き付けるように下ろして、滑らないのを確認してから体重を移動するんだよ、と純一郎が教えてくれた。


 言われたとおりに、と考えながら歩くと、いつまで経っても先に進めない。

 理加も絹子叔母も雪道に慣れていないらしく、俺と大差ない危うげな歩調であった。絹子叔母は、何とパンツスーツを着ていた。猫の時代から数えても、生まれて初めて見る姿である。でも、この道は、着物じゃ無理だ。時代劇の人たち、すごいな。

 どうにかタクシー乗り場まで行けた。もう、その距離でこれである。先が思いやられた。


 「旧軽井沢ホテル南平別館まで」


 助手席に乗った純一郎が言うと、タクシーの運転手に即座に訂正された。


 「旧軽井沢・ホテル南平別館ですね」


 敢えて聞き返さなかったものの、胸の中で皆、『その違い、大事なんだ』と思ったことは、間違いなかった。

 ちなみに、ホテル万平というのもある。こちらは明治創業の由緒ある宿で、ビートルズというグループにいたジョン・レノンがよく泊っていたところだそうだ。


 父親の影響でビートルズ好きの純一郎が、やや興奮気味に話していた。洋楽に興味のない理加でも名前を知っていたぐらいだから、相当有名な人間なのだろう。

 旧軽井沢ホテルというのもあったように思ったが、記憶が定かではない。元猫の記憶力にも限界がある。


 車道も歩道も真っ白で、ところどころに掻き集められた雪山が出来ていた。歩道を進む人もぎくしゃくと歩き、タクシーもそろそろと走っていた。

 車が走るとしゃんしゃん、と大きな鈴を振るような音がするのは、雪で車が滑らないよう、タイヤにチェーンを巻いているのだそうである。


 駅前の広い道路から脇道へ入る。途端に大きな木が欝蒼(うっそう)と繁る狭い通りに変わった。いかにも避暑のための別荘地、といった感じである。


 有名な観光地も、元は暑さ避けのために開発されたのだから、他より寒くなる冬にわざわざ出掛けてくる人間は少ないのだろう。閑散(かんさん)とした印象は、気のせいではあるまい。


 どさっと大きな音がして、車の通り過ぎた後の道路に、雪の塊が落ちた。

 タクシーの震動が伝わって、木の枝に積もった雪が滑ったのだ。車の屋根に落ちなくてよかった。


 やや滑りながら停まったタクシーを降りると、『旧軽井沢・ホテル南平別館』の建物が目の前にあった。白い壁の西洋風建築で、雪に埋もれて雪と一体化していた。焦げ茶色の木枠から橙色の光が漏れ、中は暖かそうである。


 「理斗、扉を開けて」


 ぼけっとしていると、理加に急かされた。純一郎は、トランクから出した荷物で両手が(ふさ)がっていた。

 理加も絹子叔母も小さな鞄しか持っていないのに、自分で扉を開けるつもりはないらしい。

 俺は家と違う扉の取っ手にてこずりつつ、どうにか正面玄関の扉を開けた。


 ホテルの中は特に暖かいこともなかった。しかし、寒くもない。

 ふかふかした絨毯が敷き詰められ、広い空間のあちこちに、座り心地のよさそうな椅子が置いてあった。斜め奥に仕切りがあり、内側で黒服を着た男が微笑みかけていた。


 「いらっしゃいませ」


 絹子叔母に宿泊の手続きを任せ、俺は純一郎の側へ行った。彼は椅子の1つに深々と身を沈めていた。

 側にはレンガを積んだ暖炉があり、真っ赤に(おこ)った炭から、時折小さな炎がちろちろと上っていた。暖かい空気がじんわりと肌に染みる。


 「荷物、半分持とうか」

 「おう、助かるわ」


 そのうち案内の人が来て、荷物を持ちましょうかと言ってくれたのだが、純一郎が断ったので、俺も自分で持つことにした。ほとんどは理加と絹子叔母の分である。



 案内された部屋は、なかなか快適だった。俺にはホテルの広さの基準はよくわからないが、純一郎が広いと言っていたのだから、きっと広いのだろう。

 寝返りも充分打てそうな寝台が2つ、間に目覚まし時計やラジオを聞くことができる機械付き小卓を挟んで並んでいる。窓の側には2人並んで腰掛けるソファと、1人掛けの籐編み椅子が、やはり脚の細い小卓を挟んで向かい合っている。


 壁際にはテレビもある。入口に洋服棚とトイレ付き風呂場がある。それだけあっても、部屋の中をうろうろと歩き回ることができるくらいの広さを持っていた。

 理加達は、ちょうど向かい側に案内されていた。きっと同じような造りだろう。


 窓から外を見ると、空はもう夜で真っ暗なのに、雪が積もっているせいか、地面や木の枝が白く光るように見えて、暗いのか明るいのか、不思議な感覚であった。


 「夕食はフランス料理のフルコースや。お前、ナイフとフォーク使いよった?」


 手際よく荷物を整理していた純一郎が、唐突に尋ねた。親切にも俺の荷物まで掻き回している。

 手に持っているのは愛用の先割れスプーンであった。理加が用意してくれたのだ。


 「箸よりは使えると思う」

 「そりゃそうやろ。試してみて、あかんようならウェイターに頼み。これは食堂に持っていかんでもええよ。夕食予約しとるのは、今日だけやしな。後はその辺へ出て、気軽な店で食べることになるやろ」


 そう言って、純一郎は先割れスプーンを鞄にしまった。その辺に、開いている店あったっけ?



 夕食の席に、絹子叔母は着物姿で現れた。やはりその方が自然である。きらきらしたシャンデリアがぶら下がる、華やかな部屋が食堂であった。


 隅には黒く光るピアノまで置いてある。窓際のテーブル席に案内されると、窓の外にある木が豆電球で飾られていて、慎ましい輝きを放っていた。地面は雪で覆われている。


 「日本じゃないみたいね」


 理加が楽しそうに言った。夕食は純一郎が予告した通りフランス料理だったが、理加が最初切り分けてくれたら、次の皿から俺の分は食堂の方で切り分けてくれたので、楽にとることができた。


 スープも肉も魚も皆美味しかった。純一郎などは、やたらと感心しながら食べていた。


 「このテリーヌはカニ味噌の味が濃厚やね」

 「こんなにぷりぷりとした鯛があるとは驚きや。これだけ食べても旨いのに、この雲丹入りソースときたらまた絶品で」

 「柔らかい肉やなあ。口の中でとろけるわ」


 俺を除く3人はシャンパンを1本注文して、それぞれグラスに注いで飲んでいた。食堂が暖かいせいか、アルコールのせいか、3人とも頬が赤味がかっていた。


 喋っていたのは純一郎ばかりではない。食事の合間には、理加も絹子叔母も世間話をしていた。こういう場合、俺は(もっぱ)ら聞き役である。たとえ意味がよくわからなくても、みんなが話す声を聞いているだけでも楽しかった。


 「ところで柳澤さんのところへは、いつ顔を出すの?」


 生クリームのついた果物とアイスクリームの盛り合わせが出てきた辺りで、理加が本題に入った。俺はアイスクリームが溶けて柔らかくなるのを待ち構えていたのだが、神経を食べ物から会話の方へ切り替えた。


 「そうねえ、明日にでも妙子さんに電話を掛けて、あちらのご都合をお伺いするわ」


 今までの楽しげな表情をふと掻き消して、絹子叔母が答えた。

 確かに楽しいばかりの訪問ではない。それからは余り話も弾まず、翌日の朝食の時間を確認して、各々部屋に引き取った。

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