元ねこ、取り巻きと背後霊を見間違える
年末最後の授業の日だった。
理加がど真ん中の席に座ったので、俺は壇上で話す風祭助教授や受講している学生を観察することで、退屈を紛らしていた。風祭助教授は心霊学部の先生で、理加は授業を受けている。
他学部の人間は出入禁止、という決まりもなく、学部に進級するよりも明らかに多い人数が受講していた。
ひょろりと背の高い風祭助教授は、とんぼ眼鏡に時折手を添えながら、身振り手振りを交えて話をする。身振り手振りに合わせて、紛れ込んできたふわふわしたものが、ひゅんと消えることもある。
気付く学生と気付かない学生がいる。風祭助教授にしろ、学生にしろ、見ていて面白くないこともなかった。授業が終わり、理加が筆記用具を仕舞い、俺の身支度をしていると、日置純一郎がやってきた。
「綾部、今日」
「日置せんぱ~い」
教室の出入口付近から、突き抜けるような高い可愛らしい声が響いた。
出ようとする人の波に逆らって、フランス人形みたいな茶色いふわふわした髪の毛をした女子学生が、無理矢理入って来ようとしていた。彼女は白兎みたいなコートを着込んでいて、その量感が余計に人の流れを邪魔していた。純一郎が目に見えて困惑する。
「夕飯食いに行ってもええか?」
「どうぞ」
「後で電話するわ」
そそくさ、と純一郎は別の出入口へ向かった。理加は帰り支度を終え、白兎のいる出口へ向かう。
必然的に、やっと教室へ入ることができた女子学生と、ぱったり出くわした。その女子学生は、顔立ちまでフランス人形のように愛らしかった。
新入生の間宮美貴である。ミンクのコートに白いロングブーツを履いた彼女は、兎の仲間みたいに見えた。
後ろに数人の男子学生が付き添っている。彼らの存在が、出入り口の混雑に一役買って、純一郎に逃げる猶予を与えたことには、気付かない。
「あれえ? 日置せんぱいと、お話ししていませんでしたかあ?」
小鳥のように小首を傾げ、可愛らしい声で理加に話しかける。
口調の無邪気さと裏腹に、表情は真剣だ。間宮はどういう訳か、純一郎を気に入り追いかけ回している。自称恋人である。
純一郎は平均より背がやや低く、黒すぐりみたいにきらきら光る瞳を、魅力と感じる人もいるかもしれないが、それ以外にこれといって特徴はない。
しかも、眼鏡をかけている。覗き込みでもしない限り、瞳がきれいだということには誰も気付くまい。
性格もよいし、料理が得意で確かに婿にするには都合のよい男である。
しかしながら、付き合いの浅い新入生、しかも、信奉者をいつも引き連れているほど、もてもての女の子に目をつけられる理由が、周囲にはどうしても理解できなかった。
もちろん、俺にもわからない。また純一郎がきっぱり断りもせず、付き合いもせず、ひたすら逃げ回るものだから、間宮は理加がライバル、と勝手に思い込んだ節がある。いい迷惑である。
理加は彼女の心に気付いているのかいないのか、聞いた事もないのでわからない。
「もうとっくに帰ったわ」
理加は間宮の愛らしい姿に何の感動も見せず、脇を擦り抜けて外へ出ようとした。
後ろの男子学生が動くより先に、間宮のスラリとした手が、理加の行く手を遮った。
「何をお話ししていたんですか?」
理加は立ち止まった。俺も立ち止まる。間宮は俺の存在を全く無視していた。
もっとも、彼女が無視しているのは、背後に立つ男子学生も同様だ。邪魔するなとでも命じられているのか、一応護衛らしく見えるけれど、実質何もしていない。もしかして、背後霊? いや、人間だった。
理加は、俺を指差して、真面目な顔付きで答えた。
「年が明けたら、彼とデートしようって言っていたわ」
「ええっ!?」
両手で口を覆って大袈裟に驚く間宮の隙を突き、理加は俺の手を引いて足早にその場を去った。男子学生は、間宮を見つめて、可愛い、と口々に褒め称えていた。
途中、冬なのに真夏の海岸を思わせる茶髪に日焼け肌の男が、白い歯を見せつつ猫に餌をやるのを見かけたが、もちろん無視して通り過ぎる。
尾婆の猫は、猫だったころの俺とは縁がないから、猫が餌に釣られてあられもない恰好をしていても、気にならなかった。客観的に見ると、腹を丸出しにする姿は、かなり恥ずかしい。
正門まで来て理加は、漸く歩みを緩めた。後ろを振り返ってみたが、間宮が追いかけてくる気配はなかった。
あんまり馬鹿げた話を聞かされたので、追いかける気力を失ったのであろう。良かった。
尾婆から碰上の家へ戻って暫くすると、電話がかかってきた。理加は手が離せないのか、鳴り止む様子がない。純一郎かと思い、俺はこわごわと受話器を取った。
「理加さん?」
機械の向こうから聞こえてきたのは、予想とかけ離れた年配の女の声だ。
「えーと。違います」
「あらら、理斗くん」
絹子叔母だった。お茶とお花の先生である。着付けも教えていたかもしれない。何か色々な先生をしている。
理加の持ち物で、現在の住みかでもあるマンションの管理人も引き受け、両親がいない理加の親代わりとなっている。
俺を元猫とわかっているんじゃないか、と思うことがしばしばある。直接聞いたこともなく、真相はわからない。
絹子叔母も結構おっとりした性質で、2人でおたおたするうちに、理加が来て受話器を取り上げた。
叔母の話を聞く理加の顔は、渋い。
「今晩、家で一緒に夕飯を取ろう」
急にそんな事を言い出すので、俺はびっくりした。今日は純一郎が来るんじゃなかったか。だが、受話器を置いた理加は、自分から純一郎に電話をかけて、1人追加になった、と言った。
もちろん、叔母が来るなら行かない、とだだをこねる奴ではない。電話を終える間際、理加は夕飯とはまるで関係ない事を付け加えた。
「冬休みの課題、材料が見つかりそうよ」
日置純一郎は、鍋料理の材料を持ってきた。豆腐やきのこ、とりもも肉などを入れたスーパーのビニール袋をぶら下げ、主婦よろしく理加の家の台所に立つ。
俺を隣りに立たせ、料理を手伝わせるのも、いつものことである。
理加は、純一郎が料理する時には、全く手出しをしない。予め、ご飯だけ電気炊飯器で用意しておくぐらいである。
純一郎も慣れたもので、茶碗や箸ばかりか、普段使わない土鍋や簡易コンロの置き場所まで、ほとんど迷わずに見つけ出した。
出汁を取っている間に材料を切り揃えれば、後は煮るだけである。
もっと凝った料理を作ることができる純一郎も、人数が増えたと聞いて、臨機応変にメニューを変更したのだろう。
材料が煮え、食欲をくすぐる匂いが台所に立ちこめた。
理加が、夕飯の準備が出来たと絹子叔母に電話をしている声が聞こえる。
「理加さーん」
来た。理加はまだ電話中だ。純一郎に了解をもらい、俺は玄関まで迎えに出た。
声で予想した通り、弁護士の成瀬秀章が立っていた。いつものように、ケーキの箱を片手に提げている。
成瀬は、両親のいない理加の管財人をしている。その父の代から、理加の両親と付き合いがあった。
従って、理加は幼い頃から成瀬を見知っている。成瀬は俺を見て、一瞬理加と勘違いし、嬉しそうな表情になりかかったところで俺と気付き、更に純一郎の靴にも気付いて、がっかりした。くるくると忙しい男である。
「上がれば」
俺のことを、理加の父親の隠し子ではないか、と疑っている。飼い猫が人間に化けたんだ、と説明されても納得しそうにない。彼に限らず、理加が誰に何と説明したのか、俺は知らない。
「理加さんは?」
「あら、秀章さん。ちょうどお夕飯の時間なの。一緒に食べていかない?」
電話を終えたらしい理加が、顔を出した。たちまち、成瀬の顔が柔らかくなる。
「喜んでいただきます。あ、これ食後のデザートにどうぞ」
箱を渡すのももどかしく、早速靴を脱ぎ始める。その場は理加に任せ、俺は純一郎を手伝いに台所へ戻った。茶碗や箸を1人分ずつ追加しているところだった。
「成瀬さん、一緒に飯食うんやろ」
「うん。ケーキ持ってきた」
「5人分やな。ねこ、このお盆運んで、箸と皿並べてんか」
「わかった」
台所と掘り炬燵のある座敷を往復するうちに絹子叔母もやってきて、人も夕飯の仕度も整った。
俺と純一郎が同じ縁に座り、5人で鍋を囲む。ぐつぐつと煮立つ鍋を前に、皆申し合わせたように黙々と箸を運ぶ。
俺は箸が上手く使えないので、先割れスプーンを使い、純一郎につくねやとり肉を小皿に取ってもらって食べていた。
鍋が半分ほどになると、気を遣った成瀬がどうでもいい話を始め、主に純一郎が相手を務めた。
理加が時折気のない相槌を打つのはいつものこととして、絹子叔母が何事か考え込んでいる様子なのは気にかかった。
やがて鍋を片付け、成瀬の持ってきたケーキが広げられた。余分に買ったつもりだったのだろう、プリンみたいな色合いのケーキと、ふつうのレアチーズケーキが2個ずつと、俺の分として、シュークリームもちゃんと入っていた。結果として、1人1個ずつ行き渡った。
プリンみたいな色合いのケーキは、最近注目のティラミスとかいう外国で生まれたものである、と成瀬が得意げに名前の由来などを説明したが即座に耳を通り抜けた。
それぞれに純一郎がコーヒーや紅茶やミルクを用意し、いただきますと言ったところで、理加が話を切り出した。
「じゃあ絹子叔母さん、お話を伺いましょうか」
「え、今ここで?」
絹子叔母はあからさまに戸惑った様子であった。
着崩れてもいないのに、襟をちょいとつまんで直している。絹子叔母はいつも着物を着ていて、今日も絣か何かを纏っていた。
俺の見たところでは、特に成瀬がいるのを気に懸けているようである。理加は素早く相手の気持ちを読み取った。
「大丈夫、秀章さんは、人の話に茶々を入れたり、人から聞いた話を軽々しく他へ漏らしたりする人じゃないわ。ねえ、秀章さん」
「もちろんです。これでも弁護士の端くれですから」
成瀬が嬉しそうに胸を叩いたのは、褒められたと思ったからであろう。それで絹子叔母は話を始めた。