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元ねこ、飼い主を引き戻す

 純一郎は、日頃の穏やかな言葉遣いと打って変わって、時代劇に出てくるごろつきのような大声で、乱暴な物言いをした。初めて聞く恫喝(どうかつ)が、同じ京都弁とは思えないほどだった。他の地方の言葉かもしれない。

 正直、俺の方が縮み上がりそうだった。聞き慣れない声は、実に恐い。


 妙子夫人に(かんざし)で脅かされ、全裸のマリー・ケイを見て呆然としていたところへ、間違いなく免疫のない関西弁を浴びた運転手は、目に見えて震え上がった。寒さのためではない。


 「ご、ございません。この入口1つだけでございます」

 「よし」


 純一郎は、あっさり運転手を解放した。腰を抜かしたみたいにへたり込む運転手を横目に、彼は俺を手招きした。


 「ねこ、奥さんを手伝って、扉を引くんや。俺は、扉にかかっとる力を解除する」

 「できるの?」


 取り憑かれたマリー・ケイは強そうだった。思わず訊いてしまった俺を、純一郎は軽くいなした。


 「ものは試し、と言うやろ」


 もう、元の穏やかな口調に戻っていた。どこにしまっていたのか、懐から塩を取り出して、ぶつぶつ言いながら小屋の周りに落とし始める。


 扉は妙子夫人がいまだにとりついていた。純一郎は、夫人も小屋の一部みたいに扱った。

 指先を擦り合わせるようにして撒いていく。塩も雪も白くて、塩が落ちるところが見えなかった。


 小屋の裏へ消えた純一郎は、すぐにまた姿を現した。

 気合いを入れるように、ぱんぱんと手を叩いた。妙子夫人を背中から守るように、扉と向き合う。


 すうっと息を吐き出し、体の力を抜く。


 妙子夫人はわめき疲れて、ぐったりと扉に体を預けている。それでも扉から手を離さない辺りに執念を感じた。取り憑かれたマリー・ケイより、こちらの方が怖いかもしれない。


 ”Requiem aeternam……”


 両手を組んで、純一郎が訳の分からない言葉を呟き出した。塩を撒いていた時とは違う言葉のようだ。

 純一郎のからだが、ぼうっと光り始める。彼は細い目を一層細めて、扉に意識を集中させた。


 「うわっ」


 ぽんっ、と何かが破裂したような音がした。扉が光った。俺は飛び上がった。弾みで後ろにひっくり返る。

 呆気ないほど簡単に、扉は開いた。理加と絹子叔母が駆け寄る。


 「独りで何やっているの」


 理加が言う。光も音も感じなかったらしい。純一郎はと見ると、一気に力が抜けたように片手をついていた。助けようかとも思ったが、理加を優先した。


 敵は前にいる。後ろからは来ない。

 妙子夫人は気力を使い果たしたのか、扉が開いたことに何の感慨も抱いていない様子であった。絹子叔母に抱えられて、これもまた呆気なく扉から離れる。


 その隙に、理加が扉を大きく開き、中を覗き込んだ。俺は止め損ねた。


 小屋の中は狭かった。


 元々、猟師小屋だったらしく、窓のない壁には縄や鉄製の道具、剥製(はくせい)かあるいは何かの毛皮などが掛けられていた。

 隅には、簡易流し台が設えてある。床は板敷きであるが、流し台の下は土が剥き出しのままだった。


 火の気のない寒い場所である。

 狭い小屋の真ん中に、まるまる1頭分の熊の毛皮が敷かれており、その上で柳澤とマリー・ケイが全裸で抱き合っていた。


 絹子叔母が息を呑んで顔を背け、抱えていた妙子夫人に見せまいとするが、手が震えて思うように動かせない。

 理加の細い手が、こめかみを押さえる。

 やはり見せるのではなかった。それでも理加は抱き合う2人から目を逸らそうとはしなかった。


 「止めてよ、離れてよ。私の守雄(もりお)さんにそんなことしないで」


 腑抜(ふぬ)けていた妙子夫人が、急に絹子叔母を振り払い、抱き合う2人に飛びかかった。

 あわやマリー・ケイの白い柔肌(やわはだ)爪痕(つめあと)がつくかと思われたが、彼女が腕を一振りしただけで、妙子夫人は戸口へ跳ね飛ばされた。指先すら触れられなかった。


 入口の柱にぶつかり、ぐったりと倒れる。頭でも打ったのだろうか。絹子叔母が彼女を抱えて、今度こそ小屋の外へ連れ出す。

 入れ替わりに、純一郎が後ろから顔を出した。腐った食べ物の臭いでも嗅いでしまったような顔つきだ。

 それは俺も同じで、2人がいつまでも交尾しているのはどうでもいいとして、そこから発するどす黒い何かが、ひどく気分を滅入(めい)らせた。


 「『私の守雄さん』ですって。ふふ、聞いた?」


 マリー・ケイは、自分の体の下で仰向けになっている柳澤に話しかけた。この一連の騒ぎの間、柳澤は彼女の下で同じ姿勢を保っていた。マリー・ケイに押さえつけられて、起き上がれなかったのではなく、彼女に魅入られ、妻やその他の人間に見られていることなど、意識にないようであった。


 それにしても、柳澤はマリー・ケイを相手にしているつもりなのだろうか。それとも、彼女に取り憑いているものを相手にしているつもりなのだろうか。


 俺の疑問が通じたのか、あるいは彼女の言葉に応えてか、彼はどんよりとした目を僅かに開いた。


 「僕は姉さんのもの」


 ぞわっ、と全身に鳥肌が立った。柳澤の返事を聞いたマリー・ケイは、満足そうに何度も頷いた。


 「そうよねえ、守雄ちゃんは、私のものよねえ。あんな女になんか渡さないわ。誰にも」


 歌うように言うと、ぱっと俺たちに顔を向ける。

 からくり仕掛けのように形相が一変する。髪が振り乱れ、目が吊り上がって、異様な光を発するように見えた。恐い。


 「お前たち、私たちの邪魔をするな。出て行け」


 どす黒いものが理加に体当たりし、将棋倒しのように俺たちは突き飛ばされた。団子(だんご)になって小屋の外に転がり出る。折角開けた扉が、バタンと大きな音を立てて閉まった。


 純一郎が扉に取りついて引っ張るが、うんともすんとも言わない。


 「柳澤さん、開けてください。ケイさん、ここを開けてください」


 もう1回同じ方法で開けるには、体力が足りないとみえ、純一郎は拳で扉を叩きつつ、中の2人に呼びかける合間に扉を引っ張るという、しごくまっとうな手段で扉を開けようとしていた。


 理加の下敷きになっていた俺は、着物の袖が絡まる理加を助け起こすのに手間取るうち、へんな臭いに気がついた。


 「純一郎、こげくさい」


 俺の言葉で、純一郎も異変に気付いた。すぐに扉から離れ、こちらへ走り出した。


 「何かおかしい。離れろ!」


 俺は理加を抱え、純一郎は絹子叔母を手伝って、ぐったりとした妙子夫人を抱え小屋に背を向けた。

 運転手は、いつの間にか姿を消していた。


 走るといっても、雪の中、3人も着物姿の人間がいるのだ。速さはたかが知れている。

 妙子夫人は意識を取り戻していたが、ぼんやりしていて自力で歩けそうにない。


 1、2歩踏み出したところで、ぼんっと大きな音が耳を圧し、震動が地面を伝わるのを感じた。

 折り重なる木の枝も揺れ、ばさばさ雪が落ちてきた。


 べきべき、と枝を折りながら、何かが落ちる気配を感じた。皆の前にさっと黒い影が生じた。驚いて足を止めて振り返った。


 小屋の屋根が吹っ飛んでいた。残った壁の中から、オレンジ色の光の柱が出ていた。それはすぐに煙と炎に変わり、小屋全体を包み込んだ。


 「いやあっ、守雄さん、守雄さん!」


 燃える小屋を目にした妙子夫人が、猛然と引き返そうとした。絹子叔母が振り払われ、純一郎が必死になって押さえつける。

 俺も理加に目顔で命令され、一緒に彼女を押し留めた。破れた袖からあらわになる腕もほっそりしているのに、どこから出るのか凄い力である。


 「妙子さん、妙子さん。危ないから行かないで」


 振り払われて倒れていた絹子叔母が起き上がり、後ろから抱き止める。蹴られそうになりながらも、懸命に抱きついていた。

 少しすると、妙子夫人は力尽き、急にまたぐったりとして、雪の上に座り込んだ。

 純一郎は油断なく妙子夫人を押さえている。俺は理加が気になったので、妙子夫人から離れた。


 理加は燃える小屋を見ていた。

 小屋は盛大に燃えていた。そんなに燃えるものがあったとも思えなかったが、よく燃えていた。色々な臭いが入り混じって、鼻に入ってきた。

 中にいる形を失ったものが、まだ絡み合ったままそこに留まっているのが、炎の向こうに見えた。

 理加に見えなくて幸いだった。

 俺は、理加に手をかけた。何故だか、理加が小屋へ入って行きそうな気がしたのだ。


 「理加。帰ろう」


 理加は動かない。俺は理加の手を取った。氷みたいに冷たくて、どきりとした。ぎゅっと握りしめる。


 「戻って、理加」

 「理斗の手は、温かいのね」


 たった今、俺がいることに気付いたみたいに、理加が言った。

 鐘が打ち鳴らされる音が、遠く聞こえてきた。雪は降り止んでいた。

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