元ねこ、飼い主に見せたくないものに気付く
柳澤は、パーティの途中で姿を消したまま、終わりまで姿を見せなかった。
パーティの客は、妙子夫人1人に見送られてそれぞれ帰宅した。
俺たちは玄関脇の暖炉にたむろして、その様子を眺めていた。
客はこんなことには慣れっこになっているのか、柳澤がいない疑問を口に出すことなく素直に帰っていった。
あのしつこいねち親父は帰り際、理加に気付いて話しかけようとしたが、純一郎がにこやかに挨拶したので、一言もなしにそそくさと玄関を出た。
最後の客が乗った車が門をくぐるのをモニターで見届けると、妙子夫人は使用人たちに会場の片付けを命じた。この日のために、臨時で人を雇ったのか、前回見かけなかった顔もいた。彼らが仕事に取りかかるのを見届けた後、漸く彼女は俺たちの傍へ来た。
「お疲れのところ、お引止めしてごめんなさい。もう一度だけ、私に力をお貸しください。主人がパーティを中座したのは、あの女と逢引きするために違いありません。どうか、私と一緒に現場を取り押さえてください」
「私だけが目撃しても、きっとうやむやにされてしまうでしょう。今はパーティの後片付けで、使用人達も主人に告げ口している暇はありません。これは二度とない機会なのです」
「妙子さんの気持ちはわからないでもないけど、子どもたちにそんな場面を見せたくないわ。私だけで充分でしょう」
真っ先に絹子叔母が反対した。子どもたちとは俺たちを指すようである。
パーティでの方便をそのまま流用している。
俺としても、理加に男女の不倫現場なんぞ見せたくない。絹子叔母の大人の判断に、拍手を送りたいくらいである。
「もし踏み込んで、何もしていなかったら、あなたの思い過ごしということが決定的になりますが、それでもいいのですか」
理加の言葉に、妙子夫人は明らかにむっとした。
「思い過ごしということは、ありません」
絹子叔母の手前、どうにか感情を抑えた言葉遣いを保った。
このやりとりで、妙子夫人と絹子叔母だけが、柳澤とマリー・ケイの不倫現場へ踏み込むことが、自然と決まったようである。
柳澤たちは屋根裏部屋に潜んでいるに違いない、というのが彼女の推測であった。以前そこで何か証拠になるものを見つけたらしい。詳しくは語らなかった。
理加と俺と純一郎は、その場に残ることになった。
「屋根裏部屋におるいうことはないやろ」
2人の姿が消えてから、ぼそりと純一郎が呟いた。彼は窓から外を眺めている。俺も一緒に覗いてみた。
雪がしんしんと降っていた。
「じゃあ、どこにいると思うの?」
「家を抜け出したのやから、どこか遠くへ行っとるのと違うかな。死んだ人間に縛り付けられとるわけでもなさそうやし」
「生身の人間の居場所はわからない、と言いたいのね」
窓ガラスから伝わる冷たい空気で、家の中にいるのに体が冷えてしまった。
俺は暖炉の側へ戻った。純一郎も戻ってきた。理加は慣れない振袖姿でくたびれて、ソファにぐったりと身をもたせかけている。
絹子叔母はまだ屋根裏を探しているのか、なかなか降りてこない。
ばたばたと足音がして、扉から顔を見せたのは、先日もいた家政婦であった。
「まあまあ、お客様を放ってらして。奥様はどちらへ行かれましたか」
俺たちを残して、妙子夫人が消えたことに不審を覚えたらしい。
まさか夫の不倫現場へ踏み込みに行きました、とも言えない。
以前聞いた話では、家政婦か誰かが柳澤に協力しているようであった。余計なことは言えない。
俺はもとより答えるつもりがないし、理加など彼女のことをてんで無視していた。純一郎も、都合よく言い訳を思いつかず、無言である。
しばらく無言の行が続いた後、彼女はじれったそうに形だけ一礼して、玄関の方へ進んだ。
入口近くには運転手の詰所があり、彼女は中へ入ってすぐまた運転手と一緒に出てきた。
彼は俺たちに愛想よく一礼すると、外へ出て行った。家政婦は再び家の奥へ消えた。
入れ替わりのようにして、妙子夫人と絹子叔母が戻ってきた。理加の姿勢が伸びた。
「帰りましょう」
「お待たせして済みませんでした」
妙子夫人はがっかりしていた。2人だけで降りてきたからには、純一郎の考え通り、柳澤もマリー・ケイもいなかったのだ。
絹子叔母は妙子夫人の愚痴でも聞いてあげていたのだろうか。誰も、屋根裏部屋での首尾について問わなかった。
「もう夜も遅いですから、ホテルまで送らせますわ」
「今、運転手さんが出かけましたよ」
妙子夫人の柳眉が上がった。どこへと訊かれて、純一郎が裏手の方を指差すと、顔色が変わった。
「どうして今まで気付かなかったのだろう」
意外なほど静かで、低い声だった。彼女の怒りのほどが感じられた。
彼女は俺たちの存在を忘れたように、ぱっと玄関へ駆け出した。理加がソファから跳ね起き、後を追った。俺も理加に続く。
外の空気に触れた途端、体中の細胞が縮むような心地がした。寒いを通り越して、冷たい。
妙子夫人は積もる雪に足が埋もれるのも構わず、裾を乱し敷地の奥へ進んで行く。理加が後を追う。純一郎と絹子叔母が俺の後ろからついてくる。
俺はブーツを履いているからまだしも、理加は草履でいかにも走りにくそうである。長い両袖を腕に絡めて短く持ち、相手も着物姿だからどうにか見失わずにいる。
よく見ると、一度雪掻きをした跡があり、浅く道筋がついていた。上から降り積もる雪で、消えかかっている。
走った跡には筒型の穴が空く。もう雪掻きの効果はない。
雪明かりの中、黒い木々の奥に、丸太小屋が見えてきた。屋根裏部屋から見た覚えがある。
運転手が小屋の前に陣取っていた。
「あ、れ?」
純一郎が妙な声を出して、急にスピードを上げた。俺と理加をごぼう抜きして、妙子夫人を追う。
理加のスピードが落ちた。俺を振り返って尋ねる。
「何が見える?」
言われて初めて気付いた。まずい、これを理加に見せるわけにはいかない。
俺は理加の腕を掴んだ。
「何よ」
「だめだ、理加。この先へ行っちゃいけない」
理加の決断は早かった。
「それなら、理斗は日置を手伝いなさい」
それも嫌だったが、理加の命令だ。仕方なく俺は先へ進んだ。
純一郎は妙子夫人に小屋の手前で追いついて、着物の袖を捕えた。
妙子夫人は、髪を振り乱して運転手を睨み据えている。
「下手な小細工などして、私を誤魔化そうとしたって、そうはいかない。お前たち、皆で示し合わせているのね。そこをどきなさい」
「何のお話でしょうか、奥様。ここは私の小屋です。旦那様が好きに使ってよいとおっしゃいました。もう夜も遅うございますから、どうしてもご覧になりたいようでしたら、明朝改めてご案内します」
運転手の顔色が悪いのは、雪明かりのせいだけではあるまい。
俺が追いつくと、純一郎が気配を感じて振り向いた。べりりと妙子夫人の袖が破けた。彼女は頭から簪を抜き取ると、運転手に向かって振りかざした。
意外にも声にもならないか細い悲鳴を上げ、運転手が扉の前を譲る。俺は彼女を止めるべく、飛びかかった。
彼女の手が扉にかかるよりも前に、音もなく、扉が開き、思い切り当たった。
雪の中に倒された妙子夫人は、中から出てきた人物を見て体をこわばらせた。
「煩い! 何をこそこそしている」
マリー・ケイが仁王立ちしていた。彼女の背後は真っ暗で、雪明かりに白い裸身が浮き上がる。
全裸だった。
こうして見ると、髪型以外に理加と似た点は、まるで見当たらなかった。
彼女は今まで、小屋の中であられもないことをしていたのである。
悪いのは俺たちの方だといわんばかりの堂々たる態度だった。
マリー・ケイは雪の降りしきる寒さをものともせず、体から微かに湯気を立てながら俺と、純一郎を見た。
「ふん。お前たちに、私を止めることはできない」
ひと睨みして、踵を返す。また小屋に篭るつもりである。
完全に無視された形の妙子夫人が、歯をかちかちと震わせながら、彼女の背中に呼びかけた。
「お、お義姉様……?」
俺たちはマリー・ケイの声を聞いたことがなかった。だが、マリー・ケイに死んだ人間が憑いているのはわかっていた。彼女の輪郭が二重映しになったようにぼやけている。
マリー・ケイによく似た人物が、彼女に憑いていたのだ。声まで乗っ取られるとは思ってもいなかった。その人物は、妙子夫人の言葉から察するに、柳澤の姉であるらしい。
行方不明ではなく、本当に死んでいた。
マリー・ケイは一瞬だけ動きを止めたものの、そのまま中に入って扉を閉めてしまった。妙子夫人が拳で扉をがんがん叩く。先ほどより、よほど煩い筈だが、まるで開く様子はない。
運転手は、急に腑抜けたようになって、閉じられた扉を、ぼんやりと眺めていた。
そこへ、絹子叔母と理加が近付いてきた。
「理加。来るなって言ったじゃんか」
「もう見ちゃったもの」
理加が肩をすくめる。俺は少し困って純一郎を見た。本当に見せたくないものは、この小屋の中にあるのだ。
彼は仕方ない、とでも言うように片眉を上げた。
扉に取りついている妙子夫人は放っておいて、運転手の肩を乱暴に揺すった。
「おい、おっさん。この小屋、窓や裏口はないんか? 隠すとためにならんで。我、正直に言えや、おら」




