元ねこ、相談者の印象を改める
迎えの車は9時半ぴったりに、ホテルの玄関へ横付けされた。
前回と違って深い緑色の車だったので、最初は迎えの車だと思わなかった。よく見ると、運転席に妙子夫人がいた。
「ご自分で運転なさるのね」
「ええ、その方が何かと便利なこともあります」
助手席に絹子叔母、後ろに俺を挟んで理加と純一郎が乗った。絹子叔母はパンツスーツを着ている。妙子夫人は一瞬目をみはったきり、服装について触れなかった。
きっと驚いたに違いないが、口に出すのは失礼とでも思ったのだろうか。お弟子さんから見ても珍しい格好なのだ。
俺が見る限りではあるが、絹子叔母のスーツ姿は見慣れないだけで、決して珍妙ではなかった。
「先日は、わざわざお出でいただいたのに、あまりおもてなしもできずに、すみませんでした」
どこへ行く、とも言わずに妙子夫人が謝る。いいえ、大勢で押しかけてご馳走になってこちらこそ済みませんでした、と絹子叔母が返す。誰もどこへ行くのか、訊かない。
今にも雪が降りそうな厚い雲が、空を覆っていた。車内にも、どんよりとした沈黙が降りる。
「はくちょうを見に行きます」
唐突に、妙子夫人が行き先を告げた。はくちょうって、蝶の仲間だろうか。俺の人生にも猫生にも、はくちょうというものは登場しなかった。それは食べられるのだろうか、旨いのだろうか、俺の期待は高まった。
「雲場池ですね。『でいらんぼう』の足跡に水が溜まったという伝説がある」
純一郎がすかさず言い、でいらんぼうというのは大昔にいた大男の名前だ、と説明した。
はくちょうって何だ、と小声で訊くと、白い鳥だと教えてくれた。鳥なら食べ物だ。昼食は鳥料理かな、と俺の期待はますます膨らんだ。
間もなく雲場池に到着した。雪に埋もれた小さな池である。ポン大の桜ヶ池よりは大分大きいが、池しかない割りにはまばらに人の気配がある。妙子夫人の案内で、池に近付くと理由が呑み込めた。
ばしゃばしゃ。
水音と共に、一斉に鳥が飛び立った。茶色い鴨の群である。鴨なら見た事がある。だが、こんなにたくさん見たのは初めてだ。
俺は猫に戻って、手当たり次第爪に引っ掛けたい衝動に駆られた。鴨も殺気を感じたのだろう。それで逃げたのだ。
泳ぎつつ、さりげなく去り行く鴨もいた。その向こう、池の端から離れた水面に、真っ白い塊が浮いていた。
首がひょろ長く、くちばしの先が黒い。小さな丸い眼は鴨と同じ黒さで、間抜けな顔に見えた。白鳥であった。
鴨より相当大きい。猫だったら押し潰されるかもしれない。
大き過ぎて、あまり旨そうには見えなかった。見ているうちに、長い首が水中に潜り、ぐるり、と白鳥がひっくり返った。
黒いゴムみたいな太い脚が水面に飛び出て、白く尖った尻が上を向いた。間抜けな姿である。
パン屑を投げ与える人がいて、餌をばら撒く人のそばにはたちまち鳥が群がった。俺の近くには決して寄らない。
理加も野生の白鳥を見るのは初めてらしく、興味深い視線を注いでいた。純一郎も感心した風に眺めている。うっとりと白鳥に見惚れているのは、絹子叔母である。
純一郎にせがんで写真を撮ってもらっていた。絹子叔母と白鳥、白鳥だけの写真を撮り終えたところで、妙子夫人が声をかけた。
「池を一周しませんか」
散歩道で、妙子夫人は漸く本題に入った。
軽井沢を案内したい気持ちはもちろんある。そもそも俺達が軽井沢へ来た理由は、妙子夫人の依頼である。
気になる用件が片付かなければ落ちつかないのは、絹子叔母も妙子夫人と同様であろう。
としても、こんな寒い場所で話さなくてもいいのに、とは思った。
「先日、うちをご覧になって、如何でしたか」
歩きながら、妙子夫人が尋ねる。理加の答えが聞きたいのだ。理加にわかるわけないのだが、その辺りの事情を説明するのも面倒である。以前純一郎と話し合った結果を踏まえて、理加が答える。
「見せていただいた範囲内では、特におかしな点はありませんでした。その、例のお義姉さんに限らず、いわゆる幽霊のようなものは、いませんでした」
「やっぱりね」
妙子夫人は頷いた。無言で雪に覆われた散歩道を進む。
池の周辺に植えられた木々が、途切れる場所があった。白鳥は餌が貰える対岸に群がっているので、人気もない。彼女は辺りを窺ってから、立ち止まった。俺達も彼女にならった。
「私も、あのマリー・ケイという女は霊媒師の振りをしているだけだ、と疑っておりました。義姉と柳澤は親密でした。確実なのは、義姉が行方不明であることだけです。むしろ、柳澤が義姉を慕っていればいるほど、生きていると信じるのが普通でしょう」
「マリー・ケイが柳澤に近付くために義姉の霊を持ち出したのか、柳澤が私をたばかるために彼女に霊媒師の振りをさせているのか、両方共に、可能性はあります。でも、どちらかと言えばあの女が、義姉の失踪に落ち込む柳澤に、つけこんだのではないかと思うのです」
雪を踏む足音と賑やかな話し声が聞こえてきたので、妙子夫人は言葉を切った。明るい話題を持ち出そうにも、雰囲気がそれを許さなかった。
話し声が近付いてくる。純一郎がカメラを取り出し、妙子夫人に向かって構えた。妙子夫人はカメラに気付かない。
人々が姿を現した。純一郎は、あからさまに彼らに道を譲る身振りをして、カメラを下ろした。
「すみませんねえ」
「いえいえ」
人々は俺達がたむろしているので、白鳥でもいるのかと池の方をみやったが、何もいなかった。
期待外れといった様子で、ぞろぞろと去って行く。
純一郎はカメラを構えてシャッターを押した。妙子夫人がはっと振り返った。純一郎は、彼女に釈明せずカメラをしまった。彼女は純一郎の行動の意味を悟ったようである。
さりげなく周囲を窺い、他に人のいないことを確かめてから、再び話を始めた。
「万が一、本当に霊がいたら、そしてその霊が義姉であるならば、法的な手続きを踏むべきです。柳澤は、義姉が亡くなったような扱いをしながら、遺体を探そうともせず、失踪宣告の手続きもしません。ですから、本職の方に見ていただこうと考えました。最初から全部お話しできなくて、ごめんなさい。これで、柳澤に強く言う勇気が持てます」
「つまり、妙子さんが、死んだ人を見たわけではないのね」
絹子叔母が穏やかに言った。幽霊がいようがいまいが、妙子夫人が悩んでいることには違いない。
幽霊がいないとなると、冬休みの宿題を期待してきた理加と純一郎が無駄足になる。しかし純一郎はジョン・レノンの思い出に近付けたことを喜んでいた。一番迷惑を蒙ったのは、理加かもしれない。
俺は理加を見た。理加は考え事をしていた。怒っているのだろうか。見ているうちに、理加は一歩前へ出て妙子夫人の注意を引いた。
「前言を翻すようで申し訳ありませんけど、私たちが霊を見なかったからといって、あの人がインチキとは限りません。あの人が私たちよりも強い力を持っていて、しかもその力を隠すことができるのならば、私たちには彼女が隠していることが見えないからです。今の時点で確実に言えることは、あの家には霊がいない、ということだけです」
妙子夫人は戸惑った表情を浮かべた。純一郎が何か言おうとしたが、その前に彼女が口を開いた。
「では、あの女の正体を暴くにはどうしたらよいのかしら。興信所の調査結果では、うちへ来る前から占いの仕事をしていたとか。柳澤に近付くためだけに霊媒師を名乗ったのではないなら、一概に詐欺とは言い切れないのですって」
興信所で調べてお手上げだったから、理加を引っ張り出したのだ。世間知らずの若奥さま、という印象は完全に間違いだった。
その間、ずっと夫と顔を突き合わせ知らぬ顔をしていたのだから、存外にしたたかな人間である。
俺は理加を見た。口を開く気配はない。きっと考えは持っているのだろう。実際のところはわからない。
純一郎も沈黙を守っている。話を始めたのは、絹子叔母だった。
「ご主人とその人の間にけしからぬ関係がないのなら、事業も上手くいっているみたいだし、どうしようもないのではないかしら。仮に財産狙いだとしても、法律的には他人でしょう。向こうも何もできないのではないかしら」
「お金の問題じゃありません」
妙子夫人は、強い調子で遮った。
俺の見たところ、絹子叔母は、男女の機微に疎い。
だから理加の家に成瀬が来ようが、純一郎が来ようが、それ以前に俺が突然理加と同居しようが気にする気振りも見せないのである。3人とも理加に危害を加える男ではないので、結果としては正しい判断だった訳だが。
「私は、柳澤の心を取り戻したいのです」
急に気弱な口調で、彼女は呟いた。その時、俺の胸の辺りでもやもやした物が生まれたが、正体はわからなかった。




