不惑のアルテミシア
「アルの笑顔があれば何もいらない」
「必ず、偉くなって帰ってくるから」
「そしたら……結婚しよう! だから、待ってておくれ……おくれ……」
………………夢か……
この歳になってまだこんな夢を見るなんて……最悪の目覚めだわ。嫌な汗はかくし、起きなくていい時間に目は覚めるし……しかも……
いつまでもあいつのことが忘れられなくなるし……
誰よ……四十歳のことを不惑だなんて言った奴は……私ったら惑いまくってるじゃない……
「おはようございます!」
「ああ、おはよう。今日も忙しくなりそうさね。しっかり働いてもらうよ!」
「はい!」
身寄りのない私が故郷の農村を捨ててこの街に出てきてからすでに二十五年は経っている。着の身着のままやって来た私を拾ってくれたのは宿屋『湖畔の清流亭』の女将さん。最初の五年ほどはただ働きだったけど、それからは安いなりにも給金をくれるようになった。何の趣味もない私はそれを使うこともなく、狭い自室の戸棚の奥に貯め込む一方だ。高い買い物と言えば貯め込むための小さな金庫を買ったことぐらいだろうか。
「おはよーおばさーん、今日の朝飯なにぃー?」
「腹へったー!」
「早くぅー!」
女四十。私は間違いなくおばさんだもんね。
「おはようございます。今日の朝食はオーク肉のジンジャー焼き定食です。たくさん食べて今日も頑張ってくださいね。」
まだ十代の彼らはここを定宿にしている冒険者。冒険者とはいわゆる何でも屋。魔物とも戦えば、商隊の警護もする。薬草を摘むこともあれば、報酬次第で人の命を摘むこともあるだろう。
「おはようアルテミシアさん。今日もきれいだね。」
「おはようございます。朝食できてますよ。」
二十代後半にして既にベテラン冒険者の風格を漂わせるパンクラスさん。彼はいつもこうだ。だから私が勘違いすることなどない。
「ふん……パンクラスに色目使ってんじゃないよ? お・ば・さん?」
「おはようございます。朝食できてますよ。」
パンクラスさんと同じパーティーを組んでいるクリスティさん。二十代前半で快活な女性だ。確かにパンクラスさんは貴族と言っていいほど面体が整っている。どこかのご落胤との噂もあるとか。冒険者特有の装備、武器や鎧を外したならば、お忍び貴族と言っても通用しかねないほどだ。
慌ただしい朝食が終わっても、落ち着けるのは数分だけ。すぐに次の仕事を始めなければならない。片付け、皿洗い、掃除。日に数度の水汲み、薪割り、客室清掃。そして夕食の買い出しから仕込みまで。
とにかく体力勝負だ。もっと魔法が使えたらなぁ……と思うことはもうない。夢を見る時はとっくに過ぎているのだから。
枯葉に火を着けるだけの初級魔法『点火』
私の魔力ではこの魔法を一日に数回だけ使うのが精一杯だ。全く使えないよりマシではあるのだが……
「ほらほら! ぼやっとしてんじゃないよ! さっさと買い出し行ってきな!」
「はい!」
湖畔の街ラフォート。大きな湖であるノノヤフク湖の東側にある街……
遥か北にある巨大山脈ムリーマから流れくる大いなるアブバイン川の水運で栄えている街だ。アブバイン川は北からノノヤフク湖に注ぎ込み、南から流れ出ていく。その流れは海まで続くと聞くが、海とは何だろう? ノノヤフク湖だって対岸が見えないほど大きな水溜りなのに、それより何十倍も大きいと言われても想像がつかない。
そんな多くの人々が行き交う街だから治安はあまり良くない。普通なら女が一人で買い物に行くなんてあり得ないのに、女将さんは人遣いが荒いからなぁ……
幸い私は長く住んでるだけあって顔見知りも多い。そしてこんなおばさんに声をかけてくる男もいない。
そんなことより今、私が心配していることは戦争だ。
あいつが行ってしまった戦争からすでに二十六年。その時から、いやそれ以前からこの大陸ではあちこちで戦争が起こっている。大昔に大陸を統一していた大帝国ってのが分裂してからずうっとやってるって聞くけど、そんな難しいことなんか私に分かるはずがない。分かることは、故郷にいてもロクなことがなかったってことだけ。
「よっ! アルテミシアさん! 今日もきれいだねっ! おまけしとくよ!」
「ありがとうございます。」
市場での買い物も慣れたものだ。あの程度のおべっかに心を揺さぶられることもない。むしろ奥さんに睨まれるからやめて欲しいぐらいだ。
さ、帰ろう。早く帰らないと女将さんがうるさいから。
夕方。一通り仕込みも終わりお客さんがぼつぼつと帰ってきた。ここからまた忙しくなる。宿泊客だけでなく、食事に来るお客さんまで集まってくるんだから。わざわざここに来なくても普通の酒場に行けばよさそうものなのに。
「帰ったぜアルテミシア。肉と酒を頼むぜ?」
「どんどん頼むぞ!」
「よっしゃ飲むぜー!」
私より歳上の方もいれば。
「おかえりなさい。お待ちくださいね。」
「こっちもだあ!」
「早くしてくれぇ!」
「腹ぁへったぜ!」
同年代の冒険者もいる。
「はい。お待ちください!」
あぁもー忙しい!
次から次にもぉー!
「よぉ? 聞いてっか? 魔将レオの噂!」
「おお、ついに東のテイプルまで攻めてきたそうじゃねぇか?」
「マジかよ! やべぇな! てことはここまで来んのも時間の問題かぁ?」
魔将レオ? レオか……あいつと同じ名前。でも、弱っちいあいつとは大違いなんだろうな……弱いくせに、わざわざ領主様の軍なんかに参加したあいつとは……
そんなことより……隣国テイプルまで……戦火が……