第二章 緑林檎の騎行 1 Sin, Skepticism and Decision
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香川和裕は、他の全員がドアの内に入った直後にドアを閉じた。
一瞬後、ドアが開いた。クラークがずかずかと入り込んでくる。走っているのではなく、大股ではあっても歩いているのが余裕を感じさせる。
「行くぞ」
香川和裕が号令をかけた。
普段と変わらない声だった。
五人は奥へ駆け出す。だが、クラークは歩いているとは思えないスピードで迫ってくる。しかも、その足音はいくつも重なっているのだ。香川和裕たちは左折し、部屋の風景を見た。
端的に言うと、コンピュータだらけの部屋だった。ただ、照明は明るく、「パソコンオタクの集まり」といった雰囲気ではない。床にはいくつかチョコバーの袋が落ちている。数人のごつい男たちが着席し、コンピュータを睨んでいた。
藤堂湊は、「学校の地下の秘密基地」が実際に存在したことに驚き、自分の見ている「表」には「裏」が存在していることを実感した。
香川和裕は、光景に驚くと同時に、なぜ学校の地下に基地が存在するのか疑問に思った。
「守れ!」
リーダーらしき人物のその一語だけで男たちは立ち上がり、一斉にこちらへ向けて普通の銃を構えた。また、後ろからクラークが追いついてニードルガンを構える。
「おとなしく出ていきなさい。そうすれば撃たない」
リーダーの男が警告してくる。香川和裕たちはとりあえず立ち止まった。
だが、結局のところ相手は何をするのかわからないのだ。早めに動くに越したことはない、と香川和裕は判断する。
コンピュータの林の奥、段ボールの山で塞がれているところにドアがあるのを、香川和裕は見つけた。
部屋には大体均等に段ボールが散らばっているが、一部だけ床が妙に綺麗になっている部分がある。おそらくはそこから段ボールを移動して、ドアの前に即席の山を作ったのだろう。また、ドアの前にだけ不自然に空間があり、デスクが部屋の隅に移動させられていた。おそらく、そのドアからベッドを運んだのだろう。
「こっちへ付いてこい」
香川和裕はそうささやくと、いきなり前に倒れた。
直後、小さな風切り音が聞こえる。麻酔の仕込まれたニードルガンが発射されたのである。極細の弾は、香川和裕の首筋が一瞬前にあった場所を正確に通り過ぎた。ゆでる前のスパゲッティを落としたような乾いた音が響き、短針は壁にぶつかってから床に落下した。
「行くぞ!」
そう言った時には香川和裕は動いていた。
ほふく前進の姿勢から、なるべく頭を上げないようにしつつカエルのように跳ぶ。ほかのメンバーも一秒遅れで彼に倣った。
だが、その一秒をクラークは逃さない。再び風切り音が発せられる。
荻野春樹は空中で微妙に角度を変え、いくつかの大きめの箱に飛びついてそれを空中に放った。短針はすべてそれに当たる。
威嚇だけで発砲はしない警備員たちの足をすり抜け、クラークのニードルガンから逃れつつ、香川和裕は扉に到達した。同時にその前の段ボールをすべて払いのける。
「えあっ!」
先ほどのキーカードでドアはまたしても開いた。かなり幸運かもしれない。
ドアから、外気が一気に流れ込んできた。
十月の、穏やかな中に冬の素因を潜ませた、澄み切った空気だった。
そこは学校の裏庭だった。
そして、目の前では警備会社の使うような、真っ白なバンの荷台に、見知った顔の人物が担架に乗って運び込まれている。車が救急車であれば事故発生地のような光景だ。
沖野晴美が、バンに積み込まれていた。
香川和裕は素早くドアを閉め、全体重で扉を後ろに押し付ける。
「晴美!」
芦田佳樹は我に返ると走り出した。しかし、ちょうどバンの扉が閉じられ、異様なほどの手際の良さでバンが発進する。
「晴美ぃぃぃぃぃぃぃ!」
芦田がラグナロクでも到来したのかとでも聞きたくなる表情で絶叫した。
三人は立ち止まるしかなかった。しかし、香川和裕は鋭い声で芦田佳樹に問いかける。
「どうするんです? このまま麻酔にかかって捕まるんですか? それとも沖野さんを助けるんですか?」
芦田佳樹は、鬼神さながらの形相でうなずいた。
「晴美を、助けよう」
その表情は、アニメ主人公のもの……と言えなくもなかった。
途端に香川和裕の背中に、一瞬呼吸が止まるほどの衝撃が走った。相手が何らかの器具でドアの破壊をもくろんでいる。
香川和裕は、他の四人に裏庭から一旦出て、学校の人ごみに紛れておくように言った。そして、横にあった重そうな白線引きの機械を動かしてきて、ドアの前にしっかりと置いた。これでしばらくはやってこないだろう。しかし、そうしている間にも何回も衝撃が襲ってきた。
そうして香川和裕自身も一気にドアから離れ、ドアから見えなくなる位置までダッシュで駆け出した。
その約三秒後、住宅街に巨大銅鑼の上をトランポリンの要領で跳ねたような音が響いた。
裏口のドアが開き、白線引きは塀にたたきつけられて、角が少しひしゃげていた。
バンの行き先はよくわからない。それに、分かっていたとしても、先に発進した車に人の足で追いつくのは不可能だ。だからそのままで追いつくのはあきらめ、情報を集めて行き先が分かり次第直ちに助けに行く、というプランを立てた。
後ろで何人もの人間がうごめく気配がある。香川和裕は素早く壁の陰に回る。そこから「忍び足で走る」という条件を満たしつつ、建物の正面へ移動した。
正面といっても、裏庭の近くだけあって人はまばらだ。また、この学校は南北方向に長い建物が三つ連なり、それらが大吹き抜けを含んだ中央のエリアで、東西につながっているという構造だ。今いるのは一番東の建物と中央の建物の間である。
校舎の向こう側から、人が群れる、その気配だけが伝わってくる。香川和裕はさらに移動し、中央の校舎の入り口に達した。
入り口のガラスに香川和裕の顔が映る。茶色がかった髪に、同色の目、顔自体にはこれといった特徴もない。
香川和裕はすぐにガラスから顔を背け、校舎の中へ、人の多い方へと走っていった。
香川和裕が何とかという生徒を通り過ぎたとき、校舎のドアが泡立たしく開いてクラークと警備員が入ってきた。周囲の人間も何事かと反応して、ドアの付近に集まってくる。それを見届けてから香川和裕はさらに奥へと走っていった。
香川和裕は、自分の決断の浅はかさをありありと思い知らされていた。
特に攻撃を受けたわけではない。今のところ、順調に逃げ回っている。だが……。
逃げ回ること自体に、疑問を感じた。
ここは校舎二階のはずれの廊下。例の事件が発生した地点のような薄暗い場所ではなく、片面の壁がガラス張りになっていて、日差しがしっかりと入る非常に明るい廊下だ。ただ、幅はそれほどでもなく、せいぜい三メートルほどだ。
香川和裕は、ため息をつく。
自分がもしナイルに対して攻撃的にはならずに、すべてを陰で収めることを受け入れていればどうだろう。その結果、自分はこんな苦労をせずに済んだだろうし、周りの人を巻き込むこともなく、もっと言えば波乱を起こすこともなかったのだ。
自分はすでにキーカードを盗み、立ち入り禁止区域に立ち入り、それらの非行に周りの人間までもを巻き込んでしまった。
藤堂湊は言った。「ハッカーだったとしても、それが誘拐の理由にはならない」と。しかし、それを自分たちに当てはめてみれば、「人助けのためだったとしても、それが侵入・窃盗・破壊・逃亡その他諸々の理由にはならない」となる。
人助けのためなら多少の損害は許されると仮定しても、もっといいやり方があったのではないだろうか。
さらに、今更ながらに梶原涼子の言葉が蘇る。
「管理は、未来の必然じゃない? だから、逆らうのは止めはしないけど、それは無駄なことだと思うし、そういうことに私は参加しない」
まったくその通りだ。
いっそのこと潔く出頭するか?
そう考えていた時、何やら騒がしい音が聞こえて、大量の人間が近づいてくる足音がした。何やら大声で叫びながらこっちへ向かってくる。
「管理主義反対! プライバシーを守れ! 絶対支配反対! プライバシーを守れ!」
今日は非日常がしきりにお近づきになりたいと言っているようだ。学校の「日常」とはかけ離れているが、「雰囲気」には見事にマッチングした存在――。
緑のリンゴを旗印にした集団が、デモをやっていた。
「管理主義反対! プライバシーを守れ! 絶対支配反対! 悪事をやめろ!」
羞恥心というのがどこにあるのか問いかけたくなるが、やはり大勢で集まると箍が外れるのだろうか。ああも正義感あふれる言葉を堂々と叫べるとは。
この学校に入った時、他校の人間が多いと感じたが、こういうことだったのか。
「おうい、香川さん!」
みれば、集団の中に荻野春樹の幼さが抜けない顔がある。
「何やってんだ?」
「見ての通りデモンストレーションですよ。これで事を公にしてしまいましょう」
先ほどまでの硬い表情とは打って変わって、ひとまず安心できる場所に落ち着いたといった、和んだような顔だった。
「お前、ちなみに何歳なんだ?」
「十三です。ところで、一緒に行きませんか、先輩?」
なるほど、一学年下か。
「その緑色のリンゴのバッジは何なんだ? 何かこのデモと関係でもあんのか?」
そう聞くと、荻野はいきなり姿勢を正し、胸に手をびしっと当てて、さながら軍人のように説明した。
「我々、グリーンアップルは、現在複数の企業が進めている『人類完全管理体制』に反対し、人々のプライバシーと自由の確保を主張します!」
香川和裕は荻野一人が喋るかと思っていたが、なんと周りにいた男女数人がこちらを向いて一斉に同じことをした。声まで完璧に重なっている。軍でもあるまいし、ここまですることはないのではないか? ほかのデモ参加者はこの一団をおいて、先へ進んでいく。
人類完全管理体制、という言葉には聞き覚えがある。企業派とプライバシー派が闘争を始めたころ、企業側の内部文書が流出した。その文書の内部で語られた、すべての情報が連携し、世界連合がそれを統括管理するという構想に、プライバシー派がつけた名称である。
「と、とにかく俺は……」
「香川くん! こんなところにいたんですか。私たちについていきません?」
デモ隊の列の最後尾から手を振っていたのは江原希だった。ふわっとした髪をフリフリさせながら、列から外れてこっちへやってくる。
「ということは、芦田さんや藤堂もいるのか?」
「いいえ、芦田先輩は自分だけで行動するとか言って何処かへ行っちゃった。藤堂君は……先生に捕まっちゃって」
そうか、なるほど、と適当に応答する。すると、江原はいきなり本題に入ってきた。
「で、香川くん、荻野くんも言ったけど、私たちと一緒に行動して」
「……お前ら何なんだよ。俺はもう降りるぞ。デモするならやりたい奴だけやってくれ」
せいぜい嫌そうな顔をしながら、適当に断る。
だが、江原は引き下がらず、逆に一歩前に進んで、香川和裕を見据える。
その目を、まっすぐに覗き込む。
「途中で放り出すの? 沖野先輩は、さらわれたんだよ」
余計なことには巻き込まれたくないんだよ。そう心の中で反駁するが、口には出さない。出したらもっときつい言葉を食らうのは間違いない。
「香川くん……返事して。悪党でも、中途半端なクズでもないのなら」
江原の声がどんどん低くなっていく。しかし、香川和裕は答えない。
「…………」
江原はついに言葉に頼るのをやめ、視線と気迫でこちらを圧倒してきた。
江原の手がゆっくりと襟元に伸びていく。ゆっくりと、ゆっくりと、まるでじわじわと香川和裕を侵食していくかのように。
自分の安全を考えれば、間違いなく有益になるのは沖野晴美を見捨てる方だ。そうすれば、よくわからない政治闘争に巻き込まれずに、陰謀や計略も察知せずに、無事に一生を終えることができる。だから、香川和裕は半ば本気で沖野晴美を見捨てることを考えていたのだが。
それは「半ば」でしかなかったということか。
自分は、どこかで望んでいたのかもしれない。沖野晴美を助け出し、闘争に参加し、歴史の行方を変える可能性を得ることを。それは英雄願望に近いものでもあるが。
さらに言えば、江原希の言う通り、沖野はさらわれたのである。
襟まで残りに十センチのところで、江原の手が一気に加速する。
同時に、香川和裕は、選択した。
「……ああ。助けるさ」
襟元まで残り一センチというところまで伸びていた江原の手が、すっと下ろされた。
江原はしばらく動かなかった。そして、顔を一気に上げる。
「良かった! さあ、急いで追いつきに行くよ」
満面の笑顔。女子ってこえー、と香川和裕は実感した。
よく考えると、断るという手は必ずしも安全ではなかったな。江原に、想像するのも恐ろしい目にあわされるという結末を考えていなかった。
江原と荻野が目を合わせ、頷いて、一団は走り出す。
香川和裕という人間が、反ナイル陣営に協力した、これが最初だった。
というわけで二日くらい空けての投稿です。
ちょっと真面目に編集して、章を設定し、各話にタイトルをつけ、各話の最初の番号のところを三文字下げました。
総PV数が二桁もいってるとはねー。ちょっとうれしいです。
これからは行進のペースが少し下がるかもしれませんが、まだまだ続きますので、よろしくお願いします。




