運命とは
巨大な塔のなか、鼻にかかったような歌声と、硬い足音が聴こえてくる。
その二つの音の発生源は、どちらも一人の青年だった。
「幸せなら手を叩こ」
肌も、髪も、着ている衣服さえも真っ白なその男は、巨塔の内径に沿って大きく弧を描いた螺旋階段を、鼻歌まじりに上っている。
時折、歌に合わせてわざと階段を踏み鳴らしながら上るさまは、さながら小さな男の子のように無邪気で、どこか嬉しそうだった。
「幸せなら手を叩こう」
耳に馴染みのある調べが石造りの塔内に響き、やがて足音と一緒に下へと落ちていく。吹き抜けになった中心を、次第に残響となって消えゆきながら。
階段には手摺もなく、下を見れば足がすくんでしまいそうな高さだが、白い男にとってはいずれも然したる問題にならないみたいだ。
むしろ彼は悠々と、より段差の間隔が狭くなった内側を、一段飛ばしに上っていく。もう間もなく、頂上へ着くだろう。
「幸せならみんなで手を叩こう、ほらみんなで手を叩こう」
たん、たん。鼻歌の終わりを足踏みで締めると、男はご機嫌な歌声と共に、階段を上りきった。つまり終着点、頂上である。
そこには円周の淵に点在する支柱のほか何もなく、ただ風が吹き抜けるだけの空間が広がっていた。
強いて言うなら男の足もと、立っている床に、色のついていない世界地図が描かれているのみである。
まるで、この円形の床を一つの星に見立てているみたいだ。
見れば、計八本ある支柱にも方角が記されている。
そんなシンプルな造りが気に入ったのか、男は存外、満足そうにしていた。
そして両腕を大きく広げ、全身で風を受け止める。
「うーん、いい! いい眺めだ! 決めた、ここを本拠地にしよう!」
男は支柱の隙間、前方を見据えると、誰に言うでもなく独り言ちた。
実際、彼の言う通り、ここからは遥か遠くまで見渡せるのだ。
それもそのはず、ここは険しい山の頂、切り立った断崖の上に立つ、白亜の城塞だった。
幾つもの尖塔が連なるこの城は、まさに圧巻の一言。そのなかでも彼が上った主尖塔は、一際立派で荘厳に聳え立ち、天を衝く高さからは、抜群の見晴らしがあった。
「ここがマガラニカ大陸だから……」
コツコツと靴を鳴らし、男が床の白地図上を移動する。
そして馬の蹄のような形状をした陸地から、一つだけ寄り添うように離れた大陸の上で立ち止まる。
「あっちがアトランティス大陸か」
そのままくるりと振り返ると、水平線の彼方を指差した。
すると確かに、真っ直ぐ指の差し示す方角に、ほんのり陸地が確認できる。山岳地帯のようだ。
遠すぎて色までくっきりとはいかないが、上のほうは白っぽい。雪が溶けていないのか、はたまた雲がかかっているのか。相当標高の高い山脈のようである。
「そしてあっちがレムリア大陸!」
そのまま水平線をなぞり、陸続きの大陸を指差す。
陸続きなのに大陸名が異なるのを不思議がるかもしれないが、遠目にも、もちろん白地図と照らし合わせてみても、間違いなく陸続きだ。
この二つの大陸は繋がっていて、一見同じ大陸のように見えるが、これは地殻変動に伴う大陸移動によってそうなっただけで、もとはれっきとした別々の大陸である。だから名前が異なるのも当たり前なことなのだ。
さらに補足すると、先に馬の蹄状といったように、陸続きなのはこのマガラニカ大陸以外、すべての大陸に当て嵌まることである。
「ついに、ついにここまできたよ、みんな。あと少しだから待っていて……!」
感極まった様子で男が言う。
涙こそ流れていないが、その眼からはなにか熱いものがたぎり、溢れていた。それはもう、とめどないほどに。
「まず……そうだな、アトランティス大陸のほうはナフトル共和国、レムリア大陸のほうはアシュエル公国連盟から、かな」
腕を組み、考えるような身振りをする男。
本当はもうそうすることを決めているのだが、こう眺めや雰囲気がいいと、どうも芝居がかったことをしてしまいたくなる。
理由はそれだけでなく、彼の生来の性分や、長年の宿願が達成間近なのもあってのことだろう。
「……運命とはよく言うけれど、一体それって何なんだろうね」
ぽつり、打って変わって男がつぶやく。
運命とはなんだろう。漠然とした言葉だ。
もしもその漠然とした概念を論じるのであれば、それはきっかけや、はじまりだったり、発端といったものだろう。それらを起点として、人生は進んでゆくのだから。
だが、それらは極めて些細で、感知できないほど微細なものである。
なぜなら、多くの場合がその起点をたどろうとしても、跡形もなく忘却の彼方にあるからだ。
手繰ろうとしても手繰れず、紐解こうにも紐解けない。
そうやって往々にして日常に埋没し、あるいは成り行きとなって紛れ込み、そして気づかないもの。それこそが運命だと言えよう。
だから人々は、物事が終わったあとで「こうなる運命だったのだ」と、しばしば諦観の意を込めて口にするのだ。
だが、あまりに条件の揃いすぎた起点は、やがて宿命となり、運命という枠組みを超え、物語となる。語り継がれてゆく。
この白い男も、そんな一つのたどれない起点であり、一つの語り継がれる物語だ。
「さて、キミたちは今、手を叩けているかな」
パッと顔を上げ、男が微笑む。
途端に漂っていた悲壮感が消え、雰囲気がガラッと変わった。だが、背負うものまではどうにもならない。
彼の場合、誰もが望むはずの平和を祈り、誰かの手によって潰され、壊された。
もう八年も前の話だ。彼がまだ神童と謳われ、天才と称賛されていた頃、数多の船団が沈み、一つの大行軍が途絶えた。
若かったのだ。幼なかったのだ。平和を叶えるには、なにもかも、あまりにも。
「待っていて。今度こそ必ず、みんなが手を叩ける世界にして見せるから」
強い眼差しで言った。これは彼にとって、リベンジだ。
その赤い眼には一点の曇りもなく、およそ彼が持ちうるすべての意志と感情が込められ、けれど諦観の念など一切ない。
そんな迷いなき視線で、水平線の彼方を見据えていた。もう、誰にも邪魔はさせないと。
人は自由だ。なんたって規則を破れるし、またそれを作れるのだから。
この物語には、最初の一ページ目はおろか、目次も、表紙さえない。
彼の起点が、運命が遡れないように、この物語もまた、そういった性質のものなのだ。
もはや後戻りはできず、やり直しも利かない。それはすでに宿命となって、とっくに育まれているのである。
そしてやがて、どこかの誰かが忘れ去る起点となるのだろう。
敢えて言うのであれば、貴賤の別なくあらゆる人々の物語に押し並べて、十年前のページに付箋が貼ってある。
その宿命づけたる印は、無論、どこかの幸せな日々にも、一見なんの関係もないように思える幼い娘のもとにも、ことごとく。
【Tip*s】
元ネタの名称に関して
作中に登場する元ネタの扱いに関しまして、マガラニカ大陸やアトランティス大陸、レムリア大陸のように架空の地名はあまりいじりませんが、前章でのジェヴォーダンをヴォージェダンとしたように、実在する地名やそれに準ずるものは七志乃の独断で少し変えております。特に、宗教に関連性のあるものはなるべく名称をもじったりいじったりしております。