叙
森のなか、背中合わせで立つ三人。陽射しが木の葉型の影を焼きつける。
「……どうです?」
行商人が声を潜めて尋ねた。羊が「ぅめー」と鳴く。
「近ぇぜ。多分もうこっちに気付いてやがる」
獣人が己の嗅覚に集中しながら答えた。羊が「ぅめー」と鳴く。
「う、うまくいくんでしょうか……」
妹がスカートをギュッと握り、不安げに言った。羊が「ぅめー」と鳴く。
「大丈夫です。今に証め――」
「だぁぁぁ鬱陶しい! 若旦那よ! さっさとこの羊黙らせようぜ!」
「いや、今のは私ですが。心配なさっているようなので、今に証明して差し上げます、と言おうと」
もう我慢の限界だ、と言わんばかりにとうとう噴出した獣人を、行商人が冷静沈着にいなす。
先ほどから聴こえている羊の鳴き声は、何を隠そうバロメッツのものだ。これから一戦交えようというのに、なんと気の抜けることだろう。まるで緊迫感というものを保てず、戦意が削がれていくのを感じる。
「しかしまあ……よくもこれだけ食べたものですね」
羊の周囲に視線を這わせ、行商人がため息をついた。
茎で繋がっているバロメッツは近寄られても逃げ出すことができず、ただ間抜けに「ぅめー」と鳴くばかり。今も腹を空かせてぐるぐると同じところを徘徊しているが、とうに周りの草は禿げ、軸となる木を中心に地面が耕されたようになっている。
自由なのは円運動できる範囲だけで、挙句に食い尽くしたらこの有り様。救いようがないというか、もはや哀れですらある。
「この茎、千切れたりしないんですか?」
妹が可哀想なものを見る目で訊いた。これに行商人は首を横に振って答える。
「自ら千切るなんてことはしないでしょう。それに、この茎はほとんど蔓みたいなもんですから、結構丈夫ですよ」
「そうですか……」
「いや、確かに哀愁が半端じゃないですけど、この段階で収穫したほうが賢明ですよ。木が成長すれば茎も伸びますし、羊も増えます。そうなるとまた食べ始めて、森が大変なことになってしまいますから」
「えっ」
ついさっきまで憐憫の眼差しを向けていたのに、途端に引いた表情をしだす妹。
よく見れば羊よりも少し高くなった幹の天辺に、コロッとした小さな実がついている。
「なら尚更だな。とっとと収穫しちまおう」
「そうですね。では、よろしくお願いします」
よっぽどバロメッツの鳴き声から解放されたかったのか、獣人は行商人の返答と同時、鮮やかな手際でバロメッツを逆さ吊りにする。そして頸動脈を爪で引き裂き、あっという間に血抜きを始めた。その動きたるや身軽で素早く、さすがは獣人とされるだけある。
片や行商人もすかさず持参した樽を滑り込ませると、商人魂を遺憾なく発揮し、一滴たりとも無駄にならぬようそれを受け止めてみせた。守銭奴もここまでくると実に天晴れである。
「きれい……」
妹がつぶやいた。
出所が羊なだけに血抜きと表現せざるを得ないが、流れ出るものは綺麗な黄金色だ。まるで菜の花から採れる菜種油か、もしくは蜂蜜といったほうがしっくりくる。それがとろとろと止めどなく滴り、樽の中に溜まってゆくのだ。
するとどうだろう、辺りには瞬く間に濃厚且つ芳醇な香りが拡がった。その得も言われぬ甘い匂いに、思わず三人ともが喉を鳴らしてしまったほどである。
行商人や女騎士の言葉を借りるわけじゃないが、これに群がらない獣や人はいないというのも頷ける。否、今ならいないと断言できる。
「た、たまんねえ……なあ若旦那、ちっとならいいだろ、ちっとなら」
「そ、そうですね、まあ少しだけ、指先につけて舐めるくらいなら……」
「だ、だだだ駄目ですよう。わたしたちだけズルいですよう」
食欲に取り憑かれる三人。しかしそれも仕方のないことだ。この蜜を前にして、三大欲求の一角に抗えるはずがなかった。と、そのとき。
「カトレア、どこ、カトレア、ズルい」
「はっ! ごっ、ごめんなさいお兄ちゃ――」
咎める声に慌てて振り返り、妹は戦慄した。死を覚悟したと言い換えてもいい。もしも同じ状況に遭遇したら、きっと誰しもがそうだろう。なぜなら、兄の声を模写した獣が今まさに茂みから飛び出し、涎を垂らして襲いかかってきているのだから。
「ォオラァ!」
間一髪、その牙が妹の柔肌に届く前に、獣人が襲い来る獣を蹴り飛ばした。鈍い音と確かな手応え。だが、獣はすぐさま体勢を整えると、眼光鋭くこちらを睨めつける。
「かかりましたか、ちょろいですね。しかしこうして見てみると、狼やハイエナというよりはアナグマに……」
妹の手を引き、さり気なく背中側にエスコートして「ふふん」と勝ち誇る行商人。が、低く唸り声を上げる獣を見て、その笑顔は脆くも崩れた。
「……すみません、ぬかりました。ここは一旦引きましょう」
「ああ? 急にどうしたってんだ。作戦通りじゃねえか」
「いえ、想定外がありました。私のミスです」
行商人は自らの軽率さを呪い、歯噛みする。
情報の精査が甘かった。そうである可能性を見落としていた。「狼のような」という単語だけで端からクロコッタだと決めつけ、思い込んでいた。まさに軽慮浅謀、慚愧の至りとはこのことだ。
――私としたことがとんだ失態を……どうしてこいつの存在を疑わなかったのか……!
そう。現れたのはクロコッタではなく、レウクロコッタだった。
地方によってはリュークロコッタとも呼ばれるこの獣は、クロコッタの近縁種として知られる。そのため多少の違いはあれど、強靭な牙などの特徴から声真似をする習性に至るまで、クロコッタとほとんど似通った性質を持つ。
その上で特筆すべき大きな違いは、蹄のように発達した二本の鋭い鉤爪であろう。
この鉤爪は獲物を引き裂く以外にも、走行時にスパイクのような役割を果たし、結果クロコッタをも上回る俊敏さと機動力を誇る。詰まる所、レウクロコッタはクロコッタを遥かに凌ぐ危険生物ということだ。
「とにかく作戦を立て直します! 退却しましょう!」
「退却? 冗談だろ若旦那。やっとのお出ましだ、もうツラ見しちゃくんねえかもしれねえぜ」
「だとしてもです! これは戦略的撤退です!」
「……なあ若旦那、ちっと落ち着いてくれや。嬢ちゃんが震えちまってらあ」
「――っ!」
こちらに背を向けたまま言い放った獣人の言葉に、行商人は「はっ」と息を呑んだ。そして平静を取り戻す。そうだ、取り乱してる場合じゃない。
「……それでこそうちの参謀殿だぜ」
「え? なんのことです? 私はただバロメッツの鮮度が気がかりだっただけですが?」
「ハッ! そいつは傑作だ! 出張ったのに無視されちゃあ、こいつも形無しだろうよ!」
すっかり熱の引いた頭で言って、行商人は自分でも思う。我ながら苦しい言い訳だ。でもこれでいい。獣人に諭されたのは少々癪だが、おかげで強く在れる。
――あんた正気!? 戦えんのこの毛むくじゃらだけじゃないの! 妹ちゃんを殺す気!?
――同感だ、危険過ぎる。作戦自体に異存はないが、その班分けは考え直さないか。
討伐班を発表したとき、小人と女騎士に猛反発された。今思い返しても散々な言われようだ。
そんな二人を納得させるのにどれだけ苦労したことか、結局、二人を説得したのは、兄の反対を押し退けた妹の一言だった。
――お兄ちゃん、わたし行くよ。守られて、謝られて、引き留められて。そんなのでわたし、いったいいつ強くなれるの?
多分、弱いことは罪ではない。けれど、弱いままでいるのは罪なのかも知れない。
確かに行商人自身、自分に戦闘能力がないのは自覚している。
実際、持っている短銃も護身用の虚仮威しだし、正直、弾を込めたのはいつだったか思い出せないくらいだ。
だが、それがどうした。足掻かぬ弱者はただの雑魚。だから、足掻け。
今ここで逃げるということは、ベート討伐に村の復興と、一つで二役も買っているバロメッツを失うのと同義。即ち雪片旅団の敗退は、この子にとっての希望を二重に取り上げることにほかならないのだ。
ならば、どれだけ支離滅裂なブラフでも、どれほど滅茶苦茶なハッタリでも、通してみせる。押し切ってみせる。
「ああ、申し訳ない、バロメッツのことで頭が一杯だったもので。というか何してるんです? そろそろお相手して差し上げては?」
行商人が軽妙洒脱に軽口を叩いた。痛いくらいに握られた手をきゅっと握り返し、その手に「大丈夫だ」と伝わるように。その背に「いらぬ心配をかけた」と伝えるために。
「おう、そうさせてもらうぜ。こちとらこいつの睨めっこにゃ付き合ってらんねえや」
すると、獣人は不敵に笑った。行商人の意気に応えて、目の前の凶悪な獣を一笑に付してみせたのだ。
レウクロコッタはこちらの穴を突こうと、三人を視野に入れ注意深く観察している。
光の加減でその瞳が様々な色に反射して、狙いがまるで読み取れない。
「決めたぜ、こいつの毛皮で俺のズボンを新調する。だから穴は開けらんねえ」
唐突な宣言と共に、獣人がこちらに鈍く光るものを放り寄越した。それは地面とぶつかると、金属特有の音を立てる。
「……え、いや、何をやってるんです?」
「預かっといてくれや。なんなら使ってくれても構わねえぜ」
「あの、そうじゃなくて……」
「なんだよ、使い方くれえ見りゃわかんだろ? チョップすりゃいいんだ。切れ味抜群だぜ!」
まるで噛み合わない会話に、行商人は密かに絶句した。動揺を妹に悟られぬよう隠すのが大変だった。
獣人が投げて寄越したのは、彼が愛用する鶏爪鋭という武器だ。簡単に言ってしまえば、手から肘を覆う部分が刃になった刀剣一体型のトンファーで、彼自身はエッジドトンファーと呼んでいる。見ての通り、チョップすれば斬れる双器械の一種である。
獣人族の男性には、より強い獲物を素材に衣服や装飾品を作り、それを身に着けることで格付けを行う風習があるから、なるべく損傷がないように仕留めたいのだろう。
ちなみに牙や爪、角などは女性に贈るアクセサリーにすることが多く、これらは時代の流れと共に風化しつつある文化だが、今回のレウクロコッタは獣人のお眼鏡にかなったようだ。
「口から尻尾を出す後ろ開きタイプにしてやんぜ。覚悟しな!」
そう言って、腰を落としていた獣人が一気に飛び出すと、それに呼応してレウクロコッタも地面を蹴った。
迅い。先に動いたのは獣人のほうなのに、レウクロコッタに距離を詰められる。
これが獣人でなかったら、一合でその牙と鉤爪の餌食になっていただろう。
第三者として見ているからこそ目で追えるが、これを一人称視点で味わったとき、果たして女騎士でも太刀打ちできていたかどうか。
牙を躱せば爪に襲われ、爪を躱せば牙が襲い来る。少しずつ獣人の身体に傷がついてゆくが、今のところ辛うじて致命傷となる一撃は避けているようだ。
聴こえてくるのは荒々しい唸り声と、烈々たる怒鳴り声。揉みくちゃになりながらも、獣人は果敢にレウクロコッタの攻撃を捌き、その仕返しに殴打して応戦する。
だが、さすがは高い観察力を持つレウクロコッタ。獣人の血が跳ねるのを見て、じりじりと追い込むように手数を増やしていく。
牙、爪、牙、牙、牙、爪。後ろ、前、横、横、前、後ろ。
一撃必殺の凶器と圧倒的なスピード。レウクロコッタの蹴った地面は抉れ、徐々に深傷を負いつつある獣人の姿と重なる。
「助けなきゃ! ねえ! 死んじゃうよ! 殺されちゃう! 早くその鉄砲で撃って!」
妹が行商人を揺さぶり喚くが、行商人は頬に一筋の汗をつたわせたまま動けず、逡巡する。
駄目だ、今撃てば獣人にあたり兼ねないし、そもそも自分の腕ではあんな迅さで動く的にあたるわけがない。しかしどうする。獣人は翻弄されながらも最小限の動きでレウクロコッタを迎え撃っているが、見るからに劣勢。彼の喉笛にあの牙が喰い込むのも時間の問題だ。どうする。どうする。どうする。
「ねえってば! もうバロメッツなんていいから、早く助けてあげようよ!」
擦り切れた声で妹が叫んだ。そうか、その手があったじゃないか。弱い自分でも足掻ける策が。
「カトレアさん! 私の肩に乗ってください! 肩車です! 急いで!」
大声で指示を出しながら、行商人が妹に鶏爪鋭を渡す。
諦めない。ベート討伐も、村の救済も、バロメッツも。この男は度を越した守銭奴で、商人とは欲張りなものなのだ。
「それでバロメッツの茎を切ってください! できるだけ長くなるよう根元から!」
「はっ、はい!」
鬼気迫る行商人の剣幕に、肩に上った妹は言われるがまま、ぎこぎこと吊るされた羊の茎を切る。
これがただのナイフだったらもっと時間がかかったろうが、幸いこれはトンファー型の刃物。茎をしっかり掴んで押さえれば、非力な妹でも力が入れやすく、チョップすれば斬れるのだ。
「切れまし――!」
妹が作業完了を報告しようとした矢先、バロメッツが樽の中に落ちて飛沫を上げる。
特に行商人は、バロメッツの蜜をもろに被ってしまった格好だ。
なのに、彼は「手間が省けましたね」と笑って言う。
「ありがとうございました。さて、それでは離れていてください。私は今、私の人生史上最高に美味しそうでしょうからね」
意味がわからなかったのは、聞いたあとの三秒間だけだった。
妹は彼の意図を察するや否や、止めに入ろうとする。だってそんなの、望んでない。
しかし、行商人は鶏爪鋭にバロメッツの茎をくくりつけると、有無を言わさず木の幹から小さな実をもぎ取り、レウクロコッタに投げつけた。
「あとは頼みましたよ!」
いくら射撃が下手糞だからといって、ゼロ距離なら外さない。
森を吹き抜ける一陣の風よりも早くレウクロコッタが牙を剥き、行商人に襲いかかった。