絶望的な影
竜類に遭っては一切を棄てろ。そんな警句がある。
この場合の棄てろとは、何も持ち物に限った話ではない。そういった物理的な範疇を越え、仲間を見捨てろだとか、生きる意志を放棄しろだとか、情や望みまでもをかなぐり捨てろといった意味だ。この暗黙の三ヶ条は、誰もが留意していることだろう。
つまりは持ち物を捨て、それに竜類が気を取られたのならば、その間に逃げろ。
もしも仲間が先に襲われて、隙が生じたのであれば、構わず逃げろ。
そもそも竜類に出くわしてしまったが運の尽きなのだから、生き残る望みなど棄てろ。
そう言われるのが道理なくらい、竜類との遭遇は絶望に塗れていた。
その理由は至極当然。竜類とは途轍もなく強大で、対するには人類があまりに矮小だからである。
だがどうだろう。蓋を開けてみれば、ここには五人もの人間が残っている。警句通りに逃げたのは、本能に従ったディアトリマたちだけだ。
元来、生命の危険を避けるのが生きとし生けるものの常であるのにもかかわらず、人は少しばかり他の生き物と比べて名誉だの誇りだのを知っているせいで、命を顧みない行動に走ってしまうことがある。
挙句、それを高潔だといって憚らないのだから、人間というのは偶さかそういう生き物なのだろう。けれど裏を返せば、その行いを誉めそやすのもまた、人間だけなのだ。
まるでそんな人間を愚かしいと嘲笑うかのように、きゃきゃきゃ、とジャバウォックが啼く。
無論、ヤツにそんな意思はないのだろうし、あっても取り逃がした獲物が自ら舞い戻ってきた、くらいの感覚なのであろうが、それにしても甲高くて耳障りな鳴き声だ。
あれがこの山に出没するようになったのはいつ頃からだったか、確かそれは、三ヶ月か四ヶ月前だったと思われる。
月明かりのなかでも存在感を醸し出す漆黒の影は、突然なんの前触れもなく現れ、そして我が物顔で闊歩した。
通りかかる行商人や郵便屋があれば勿論のこと、小動物や小人族でさえヤツの腹に収まった。だが、そのようなことが起こっても、ここから一番近いヒッセニア領は感知していないようだった。
仕方がないといえば仕方がないことだ。なにせヒッセニア領は交通機関が整っている。
自力で山越えを慣行するような者ばかりが襲われても、ここに竜類がいるなどとは誰も思わないから、調査なんかが実施されるわけがなかった。
ましてや領主であるヒッセニア公は只人至上主義を掲げている。小人族が助けを求めたとて、力になってくれるとは思えない。
こうなっては故郷を捨て新天地に旅立つかという話もあったが、この山に巣食い繁殖すれば、いずれどこも危険地帯となるのは考えずともわかることだ。
だから、小人族はやむなく強硬手段に打って出た。
鋼鉄の五倍とも言われる驚くべき強度と靭性を持ち、且つ伸縮性に富んだ蜘蛛の糸でジャバウォックを捕獲する網を作り、更に生体電気を流せるよう加工してこれを撃退しようと画策したのである。
といっても、それを作るのには時間が必要だった。製作しているうちに襲撃がないとも言い切れない。そこで一つの提案がなされた。なんのことはない。生贄だ。
これから先の被害を最小限に抑えるため、そしていざその時がやってきたとき、ヤツの動向を把握しやすくしておくための苦肉の策だった。
要するに、そこに行けば必ず食事にありつける餌場を、ジャバウォックに作ってやったのだ。
無論、最初は小動物を与えてみた。郷の者が総出で協力し合い、狩れる範囲を超えた自分らよりも大きな獲物を仕留め、苦労はするがこれで済むのならと躍起になった。
しかしながら、ジャバウォックが人肉を好むのはこれまでの食性を見れば明らかで、結局、郷のなかから順番に選ぶこととなった。
その最初の犠牲者となったのは、孤児である双子の片割れだった。
――ごめんなさいフィオナ。でもあなたには行かせられないの、許してね。大丈夫、わたしたちはそっくりだもの。黙っていれば誰もわからないわ。わたしね、あいつのお腹のなかで暴れてやるの。だからきっとフィオナも、最後まであきらめないでね。さようなら。愛しているわ。
翌朝、空っぽになった家に、そんな置手紙だけが残されていた。
「僕が相手になるぞバケモノめ!」
外套をはためかせ、手に持つ剣を水平にヘンリーが振りかぶった。
さっきまでとは位置関係が逆になり、落雷跡地にいるジャバウォックの姿は丸見えだ。形勢逆転とまではいかなくとも、不利な状況から脱することはできた。
しかし、弱点は首だというのは聞こえていたが、どうにもあの大きな頭が邪魔になる。まずは懐に入らねばなるまい。
ヘンリーはそう考え、駆ける足を強く踏み込む。その刹那だった。
ただの一歩だ。ただの一歩その間合いに足を踏み入れただけなのに、圧倒的な威圧感を感じる。
――これが竜類か……!
「若様! 危ない!」
ひゅん、と鼻先で風が鳴った。ジャバウォックの爪だった。
巨樹を引っ掻いたおかげで軌道が逸れ、加えてエイモンが引き戻してくれたおかげで命拾いをした。危うく顔の半分を抉り取られるところだ。
ヘンリーはどたっと尻餅をつき、一拍置いてそれを理解した瞬間、体中からどっと汗が噴き出る。
「何をお考えですか! 危うく命を落とすところでしたぞ!」
茫然とするヘンリーに、エイモンが怒鳴った。だが、大きく見開いた目を動揺に揺らすヘンリーには、もはや何を言っても右から左へと抜けてゆくばかり。
――あいつ……いったいどうやってあんなのを避けていたんだ……?
頭に浮かぶ疑問は、ノロがジャバウォックの前に飛び出したときのことだった。
彼は確かに避けていた。それも自分のときとは違い、ジャバウォックがどこにいるのかわからない状況だったのにもかかわらず、だ。あんな芸当、易々とできることじゃない。
「若! しっかりしてくださいませ! ここは下がりますぞ! いいですな!?」
腰を抜かしたヘンリーがずるずるとエイモンに引き摺られていく脇で、モカがフクロウを構える。
「フィーネさん! どこっ!? どこにいるのっ!?」
そして叫びながら引き金を引いた。途端、銃口から発火炎が走り、同時に破裂音がこだまする。
ジャバウォックは一瞬身をすくませるが、しかしこれでも致命傷には至らず、鎌首をもたげてこちらに咆え猛ってきた。
思わず耳を塞ぎたくなるその鳴き声は、先ほどまでの嗤うようなものとはまったくの別物で、まるでパイプオルガンの鍵盤を、わざと不協和音になるよう思い切り叩いているみたいだった。
「返事をして! フィーネさん!」
けれどモカは怯まない。構わずもう一発撃ち込むと、木陰に隠れて袈裟懸け鞄を漁り素早く排莢、弾を装填する。訓練で何度も経験した動作だ、見ずともできた。
代わりにその視線は暗闇の森を探っているが、この視界の悪いなか、あの小さな姿を見つけるのは至難の業。
いったいどこに行方を眩ませているのか、せめて彼女が何を考えているのかさえわかればまだ探しようがあるというのに。なんの手掛かりもなしにじゃ、発見するのは無理に等しい。
「モカ! あまり近づいちゃダメだ! フィローネさんは俺が探すから、モカは遠くからアレを牽制してくれてればいい!」
突っ込もうとするモカを止め、ノロが叫んだ。だが、モカも食い下がる。
「でも!」
「大丈夫、必ず見つけるよ。そうしないとモカ、ここから離れてくれないんだろ?」
ノロはそう微笑んで、いつものようにモカの頭を撫でると、袈裟懸け鞄を放り投げた。その光景を目の当たりにし、エイモンもヘンリーも唖然とする。
だって、あまりにズレている。途方もなく狂っている。軽すぎるのだ。自分らが何と対峙しているのか、問い質したくなるほどに。
「……待て。お前、どうやって避けているのだ」
ジャバウォックを見据え、腰を落とすノロにヘンリーが問いかける。すると、彼から返ってきた答えは理解しがたく、拍子抜けするものだった。
「どうって、いるところからいなくなれ、だ」
「……は……?」
ぽかんとするヘンリーを尻目に、ノロは考える。
ディアトリマが走り去ってしまった今、大幅に旅程が狂ってしまった。更に言えば食糧まで失ったのだ。引き返すべきか、それとも山越えを敢行するべきか迷う。
もしも山越えを選択するのなら、連日に渡って竜類という脅威を抱えているより、ここでヤツを葬ってしまったほうが得策だろうか。
いや、ともかく今はフィローネを見つけ出し、課された縛りを解くのが先決だ。そうしないと、モカは一時的な撤退も認めてくれないだろう。
本当なら竜類など相手にするべきではないが、こうなってしまったら仕方がない。
「モカ、顔が狙えるときは顔を、狙えないときは羽を狙って」
「わ、わかった」
「じゃあ、行ってくる」
「ノっ――」
そしてノロは駆け出す。モカが「気を付けて」と言い切る前に、その背中は月明かりに照らされる落雷跡地ではなく、樹々の闇に混じって溶けた。




