悲壮な偽り
夜。まるで漆黒のカーテンを引いたような暗闇のなか、嘘みたいに明るい月が浮かぶ。
散りばめられた星々は高く遠く、瞬く度に大きくなっている気がした。
そんな夜空の下、一団は今、焚火を軸にして扇型に座っているところだ。
山道からは逸れ、微妙に傾斜もしているが、もともと緩やかな道を選んで入山したこともあり、意識しなければ誰も気づかないだろう。
今はそんなことよりも、この枝葉に縁取られた夜空にただただ心を奪われてしまう。
視界の端に梢の影が映りこむが、風が吹く毎にざわめいて、生きた額縁だと思うとなかなかに風情があった。
樹々が繁茂する山中でこの夜空を眺めることができたのは、ひとえにフィローネのおかげといっていいだろう。
彼女は道端で一夜を明かそうとしているノロに、「こんなところよりいい場所があるんだけど」と自ら案内役を買って出てくれたのだ。そしてその言葉に偽りはなかった。
彼女の誘導に従って森を進むと、一本の朽ちた巨樹を中心に、ぽっかりと開けた空間があったのである。
さすがは地元民。大袈裟でなく、彼女にとってこの山は庭だった。辿り着いたときにはみんなして「おお……」と感嘆の息を漏らしてしまったほどだ。
特にフィローネの存在に気づいていないらしいエイモンは、しきりに「よく方向感覚を失わないものです」と一人で感心していた。ノロは気まずそうだった。
しかしなぜここだけ樹々が禿げているのだろうと近づいて見てみると、巨樹はただ朽ちているわけではなく、その太く逞しい幹は途中で裂けるようにして折れ、以前ここに落雷があったことが見て取れる。それが原因でこんな空間が出来上がっていたのだ。
かくして一団は巨樹を背後に、こうして夜空を一望することができているのである。
「……ありがとうフィーネさん……」
ぽそり。モカが囁く。というより、思わず感謝が零れ出た形だ。
小さくも確かな声音は、あのモカ・キッサーとは思えないほど切なく、そして艶めいていた。
図らずもその優艶な声が聞こえたのはフィローネだけで、弟だと偽っているエイモンたちに気づかれた様子はない。
「…………」
しかしフィローネからの返事はなかった。
この森のように昼間とは真逆な印象を受ける声色に驚いたのか、それとも単に気恥ずかしいのか、彼女はその軽すぎる体重をモカの背に預け、沈黙を貫いている。
「お二方はロアマですか?」
会話のなかった代表者同士のほうはというと、先に口火を切ったのはエイモンだった。
「ええ。生き別れになった家族に会うため、ロアマになりました」
焚火にかけた鍋をかき混ぜつつ、ノロが淡々と答える。
会話が始まって緊張しているのは、ノロよりもモカのほうだった。
「なるほど……失礼ですが、姓は落としてしまったので?」
「はい。ですので、食事に免じてタグを見せろなどとは言わないでください。一族の恥になります」
探るようなエイモンの質問を、即座に切り返すノロ。
いくら取り繕おうとも動かぬ証拠はあるものだ。だから出来る限りそれらを潰しておく必要がある。
だが、エイモンの狙いは別にあるようで、「滅相もない」とそれ以上言及してはこなかった。
「あなた方は……ロアマではなさそうですが」
今度はノロが仕掛ける。
同じ手は通用しないだろうが、攻めに転じる為にはそうするしかない。
「私に七日通しを完遂する胆力はありません。なにせこの山でも参るほどですからね」
エイモンは笑って答えた。
その言葉を受け、ノロは念のためちらりと手元を見る。
外套の袖から露になったその両手には、指環も、その痕跡もない。
外してしまうこともできるが、本人確認などの照会に使う分、紛失すれば面倒だ。リスクを負わないようにするのが普通である。よってその言葉は実だろう。
芳しくない答えに、ノロは内心歯噛みする。
だが、ここで手を緩めては主導権を握られてしまう。次の一手を打たなければ。
「では、あなた方はなぜこんなところに?」
これに関しては自信があった。
相手はこんな山に入るというのに、荷を持っていなければディアトリマなどの足もない。そこに活路があるはずだ。
「私どもは、この山の麓にある村に住んでおります。と言っても、領主もいない、村民に自治権のある小さな集落ですが」
エイモンはすらすらと答える。
例えそれが、あらかじめ用意されていた答えだと思われようとも、迷いなく。
「お恥ずかしい話、我が村は食糧難にありまして。こうして親子で山に分け入り、恩恵を当てにすることも珍しくありません」
そして難なく答えきる。
今思えばロアマか確認したのはこの辺りの土地の者かを確認したかったのだろうが、それは叶わなかった。だから領にもならない集落と言えば逃げ切れると考えたのだろう。
しかし、そこにはエイモンがまだ気づいていない落とし穴がある。
「どうぞ。熱いですよ」
ノロは火にかけていた鍋から、黄ばんだような、乳白色のどろどろとした液体をお椀に掬うと、エイモンに差し出した。
これはカチカチに焼いたパンを水で煮詰め、充分ふやけたところに山羊のチーズを入れたものだ。
「かたじけない。本当に助かります。私の分までいただいてしまって」
「いいんですよ。あまり気にしないでください」
言うと、ノロはそれをつけて食べる干し肉をゆっくりと取り出しながら、フィローネの一言を待つ。
この山に住むフィローネならば、この山を知り尽くしたフィローネならば、エイモンの言っていることが嘘か真かわかるからだ。
「……どうなさいました?」
しかし、フィローネはモカの背に隠れたまま、声を発することはなかった。
ということは、姿を現して糾弾する必要はないということだ。
もしかしたら飛べないことに危機感があって出てこれないのかも知れないが、順当に考えれば何かあってもノロとモカが味方になってくれると信じているはずだろう。
なら、この二人は嘘を吐いていないのかも知れない。
だからといって物盗りの可能性もあるし、警戒は怠らないが、一先ずそう考えてしまうのは早計だろうか。
「……いえ、なんでもありません」
「そうはいきません。旅の食糧は貴重ですし、もし残り少ないとあらば、やはり私の分は遠慮しましょう」
「……安心してください、そういうわけではありません。ただ暗くて見づらかっただけですので。さあ、どうぞ」
ノロは考える。モカはご飯にパクつく。
エイモンがどういうつもりかわからない。狙いが見えない。暴けない。
もし相手に害意があるのならば、ここは引いて自ら化けの皮を剥ぐときを待つべきか。そういった待ちの姿勢で正解なのか。
こちらには確かに目につくところに武器があるが、けれどそれは相手も同じこと。外套越しに剣の柄らしき膨らみがある。
それにその外套自体も、袖があることや布地の質からして上等なもの。だから疑ったのだ。
だがここまで尻尾を見せないとなると、それもただの言いがかりに過ぎない。
「ないわっ!」
エイモンと適当に会話を交わしつつ、ぐるぐるとノロが思考を巡らせていると、驚いて喉を詰まらせるモカの隣で、小さな身体を震わせるフィローネがいた。
当たり障りのない話をしていたエイモンの声が、ピタリと止む。
「ないわよ! そんな村! 集落も! バカにしないで! ここはあたしの……あたしらの庭よ!」
ぽとりとエイモンが干し肉を落とすのと同時、ノロのツバメがエイモンの喉元に向いた。
「話せ。目的から、すべて」
焚火の炎が映りこんでもなお、ノロの瞳は黒かった。
その眼にぞくりと背筋が粟立つが、エイモンが心配なのは自分よりもヘンリーだ。
「貴様、短剣を引け。その男は貴様にとっての弟と同様、僕にとって大切な者だ」
外套の裾をたくし上げ、ヘンリーが剣に手をかける。
抜いてこそないものの、その眼には確かな戦意が宿っていた。だが。
「お止めください若様。小人がいるのなら話は別です」
「それは本当かエイモン」
「……どういう意味だ」
三つ巴が出来上がり、モカだけがあわあわと慌てるなか、フィローネは依然として、けれど今度は違った意味で震えていた。
「……ジャバウォックです。やつから逃げておりました」
「ほう、エイモンよ、やつはジャバウォックというのか」
「ジャバウォックだと……?」
短剣を向けられながら、エイモンが頷く。各々の反応に、さも「知らなくて当然」とでも言うように。
「ジャバウォックとは、ここより西へ、更に西へ行ったところに棲む化け物です」
「ふっ、西の化け物とな」
「……西とはヒッセニアよりも西か?」
ノロはヘンリーを無視して問う。
自分らが向かうところにある危険ならば、情報を掴んでおくに越したことはない。しかし。
「いいえ、ヒッセニア公領どころではありません。その向こう、レイヴェル辺境伯領を越え、キララウス山脈の峰を越え……隣国レベン王国も、内海さえ越えて、シメノン連邦をも越えた果てにある、ヒラニプラ大森林にございます」
「はん? どこだそれは」
「な――」
「バカ言わないでっ!」
三つ巴。ノロを遮って叫んだのは、フィローネだった。
小さな身体から絞り出すように、捻り出すようにして怒鳴る。
「バカ言わないでよ! それが本当ならあいつはムウ大陸から来たっての!? 内海の向こうって、ヒラニプラ大森林って! ここはレムリア大陸よ! そんな距離どうやって来たのよ!」
「……それは私にもわかり兼ねます。ただ、あれは間違いなくジャバウォックでした。体の大きさからするに、まだ成熟してはいなかったようですが」
それだけ言って、エイモンは考え込むように押し黙った。
ムウ大陸にあるヒラニプラ大森林から、ここレムリア大陸のこの山まで、いったいどれくらいの距離があるだろう。生半可な距離ではない。
そんな大移動ができるとすれば、その生物は今ノロの頭に浮かんでいる、あの種族くらいのものだ。
「……そいつは、竜類か?」
ノロの問いかけに、エイモンは一拍したのち、重々しく口を開いた。
「もともとムウ大陸の外れにある孤島にいた種で、大陸のヒラニプラに分布を拡げたあとも只人への被害が極端に少なかったため研究対象に上がらず、生態は謎に包まれています。ただ、わずかに残る過去の研究資料には、竜類の亜種であろうと記されています」
「なぜあんたはそこまで詳しい」
「私の故郷は、やつによって食い尽くされたからです」
ノロの質問を受けて語られた事実のその重苦しさに、ヘンリーは絶句した。初耳だったのだ。
西の生まれだということは聞いていた。故郷は貧しく、食べていくために少年兵として生きていたことも、聞いたことがある。
たが、ヘンリーはその話を武勇伝として捉え、憧憬の念さえ抱いていた。
そのことが恥ずかしくて恥ずかしくて、剣にかけていた手が脱力する。
対照的に、眼に生気がみなぎるのはエイモンだ。
フィローネを見て、歓喜とばかりに声を弾ませ言った。
「しかし小さな娘子よ。あなたに会えて希望が湧いた! 小人がいるということは、この山にも森人がいるのだな!? ヒラニプラのジャバウォックは森人が抑えていると聞く! なんたる幸運か!」
故郷での無念がつい口から衝いて出たようだった。
口調は崩れ、クツクツと喉を鳴らして笑うほどに、募り積もった感情が溢れ出ている。
「……いないわよ。この山に森人はいない」
「へっ……?」
鳴らしていた喉から間の抜けた声が出た。フィローネの言葉が信じられないといった具合だ。
自然を愛する森人と、自然を活かして生きる小人は友好関係にある。でも、この山にはいないのだ。その頼みの綱は。
「ばっ、馬鹿を言うな! ではどう生きている! どう暮らしている! 森人の庇護がなければ小人は生きづらいはずだっ!」
そう捲し立てるや否や。
ディアトリマたちが落ち着かない様子で、嘴をパコパコと打ち鳴らす。
すると間近で、きゃっきゃと赤子が笑うような、あるいはゲテゲテと大男が笑うような声が聴こえた。
途端、焚火に照らされているというのに、血の気が引いて真っ青になるエイモンとフィローネ。
「ジャ――ジャバウォックだ……!」
「モカ! こっちに!」
一同に緊張が走った。
風は凪ぎ、人を食らい尽くす怪物が、無秩序たる混沌として迫りくる。
【Tip*s】
『ジャバウォック』
『鏡の国のアリス』にある架空の生物です。
幻獣かと聞かれると違う気しかしないです。




