起
少女は怯えていた。
陽の透ける鮮緑の森にひとりぼっち。巨木の根の股に身を屈め、ただひたすらに縮こまっていた。
鳥のものと思われる鳴声は遠く、それよりも制御できない心臓の鼓動がうるさい。
こんな状況でもなければ、森の冷えた空気は澄んだ潤いに感じられたことだろう。けれどそれも今は、重たくのしかかるだけの不快な湿気だった。
なにより衣服越しに背中に伝わる苔の感触が、じめじめと酷く気持ち悪い。
――助けて、わたしはここ、ここにいるよ……助けて、「お兄ちゃんっ……!」
はぐれてからどれくらい経っただろう。ずっと胸の内で渦巻いていた声が、やっと発せられた。
しかしその救難信号は風前の灯火よりもか弱く、誰の耳にも届かない。
――大丈夫だって! ベートは牛の角が苦手なんだぜ!
脳裏に浮かぶのは、恋しい兄の姿だ。角の壁飾りを持ってニシシと笑う幻影に、少女はいっそう心細くなる。泣き出してしまいそうだった。
――村に戻って助けを呼ばなきゃ……。このままここにいたら暗くなっちゃう……。
意を決し、少女はそろりと動き出す。音を立てぬよう、ゆっくり、ゆっくり、足を前へ。
一歩。二歩。
木々の合間、四方八方から視線を感じるが、そこには何もいない。
三歩。四歩。
頭につけた三角巾が引っ張られたかと思ったら、小枝に引っかかっただけだった。
五歩。六歩。
すべてが怖くて、恐ろしくて。悲鳴を上げないでいられるのは、泣くのを堪えて喉がひくついているからだ。
七歩。八歩。
腰を折り、慎重に進んでいた少女の歩みが、止まった。
乱暴に茂みを掻き分ける音がする。気のせいなどではない。それは今も、どんどんこちらに向かって近づいてくる。
少女は逃げ出すこともできず、かといってへたり込むこともできず、ただ音のほうを凝視した。そうすることしかできなかった。
――もうやだ! 帰りたい! お家に帰りたいよ!
心だけが叫び、騒ぎ、乱れ、暴れる。
そしてとうとう、目の前にある低木の枝葉がガサガサと揺れ、割れた。
「お兄――!」
「おあ! ほら見ろいたぜ騎士嬢! どうよオレの鼻ぁ、ドンピシャだ!」
防波堤を失った心が決壊しそうになったとき、耳を衝く豪胆な声に、少女は固まった。同時に頭のなかが真っ白になり、大きな目をさらに大きく見開く。
その瞳に映った人物は、およそ見慣れた人の容姿とはかけ離れていた。端的に言うと、毛髪とは明らかに異なる質の毛に覆われ、毛むくじゃらだったのである。
具体的に言えば、獅子に似た獣のような顔立ちと、高い位置でピンと立った耳、尖った犬歯が目立つ口や、鋭い爪のある手、おまけにふいふいと揺れる尻尾まであった。
辛うじて人と言える部分は、その獣が二本足で立ち、腰巻やズボンを着用していて、人語を解しているところくらいだ。
――ベートだ……!
初めて目にする異形の姿に、少女の身体はガクガクと震えた。もはや恐慌状態といってもいい。
息が止まり、喉が張り付いて、吐くことも吸うこともままならないまま、ただ震えていた。
――殺されちゃう! 食べられちゃう!
脳だけでなく、全身が警鐘を鳴らす。もう一人の自分が逃げろ叫べと命じているのに、その意志は目の前に現れた獣の男に圧殺され、身動き一つ取れない。
自分はここで死んでしまうのだ。そう思ったのも束の間、ガサっと音がして、また一つ茂みに裂け目が増えた。
「おお、本当だ、さすがは獣人だ。こんにちは、あなたがカトレア・ホーナーさんかな? 無事でよかった。怪我はない?」
次いで現れたのは、涼しげな面差しの女性。今度は普通の人間だ。プラチナブロンドの髪は男性と見間違えるほど短いが、青色の瞳が綺麗な人だった。
見れば纏った衣服の下に板金鎧を着込んでいるようで、腰にも剣が下がっている。輝くそれらは彼女の凛とした雰囲気によく似合っており、まさしく女騎士といった風采だ。
――獣人……? それにわたしの名前も……怪我……?
少女は聞こえた言葉を反芻する。思えば、獣の男は気兼ねなく女騎士に話しかけていたし、襲ってくる気配もない。
「……ベートじゃ……ないの?」
少女は声を揺らして問いかけた。獣の男が女騎士の肩をちょいちょいとつつく。
「なあ騎士嬢よ、ベートってなんだ?」
「なんだって、村で聞き込みしたばかりだろう。最近ここらに出没するようになった人喰いの獣だ」
「それはヴォージェダンの獣ってやつだろ?」
「……だから、その獣のことを村の者はベートと呼んでいたじゃないか」
「ああ! ……っていや、それじゃあもしかしてこの嬢ちゃん、俺のことをその獣だと思ってやがんのか?」
女騎士がきょとんとした顔で少女を見やる。少女は依然として不安げな表情を隠せずにいた。
「……ふっ、あっはっはっ!」
笑いだす女騎士と、「冗談じゃねえや……」と不貞腐れたような顔で頭を掻く獣の男。
その親しげな様子に少女が呆然としていると、女騎士は笑いを噛み殺しながら「驚かせてしまったかな」とつぶやいた。そして目線をあわせるようにして顔を近づけ、「大丈夫、私たちはあなたを助けに来たんだよ」と言うと、少女の頭を撫でる。
――助かった……助かったんだ……。
ふんわりと微笑むその顔を見て、少女はようやくへたり込むことができた。誠実で、優しげで、騎士だということを差し引いても安心できたのだ。
しかしすぐに安堵の表情を一変させ、しゃがみ込んだ女騎士に縋りつく。
「おっ、お兄ちゃん! お兄ちゃんは!? お兄ちゃんを見ませんでしたか!?」
女騎士が突然服をつかまれ驚いていると、獣人が言った。
「落ち着けって。おら、立てるかよ嬢ちゃん。騎士嬢、手でもつないでやんな」
「でもお兄ちゃんが!」
「だから落ち着けって。嬢ちゃんの兄ちゃんなら無事だ。血の匂いがしねえからな」
そう言って、獣人が「今頃、親父さんへの言い訳でも考えてらあ」と悪戯な笑みを浮かべると、女騎士もうなづいた。
「ああ、心配ない。あなたのお兄さんも、私たちの仲間で手分けして探している。きっと無事に村へ送り届けられることだろう」
「でも! この森は村よりもずっと広いんですよ!?」
「大丈夫だ。私たちがあなたを見つけられたように、あちらにも森を得意とする者がいる。だから安心してほしい」
「ハッ、チビ嬢よか俺の鼻のほうが早かっただろうがな。まあ、問題ねえだろうよ」
喚いているのは少女だけで、二人は余裕そのものだった。仲間をかなり信頼しているらしく、そこには心配がる素振りなど微塵も感じられない。
だが、その態度こそ今の少女が求めているものであり、なにより心強かった。
「あ……そう……そうなんですね……よかった……」
安堵によって力が抜け、再び少女はその場に崩れ落ちた。ぽろぽろと涙が溢れるが、もはやそれを止める力さえ残っていなかった。
「さて、私たちも一度村へ戻るとしよう」
「そうすっか、ベート退治はいったん仕切り直しだな。野郎、常に風下になるよう陣取ってやがる」
「なるほど、私たちを警戒したか。そのおかげでホーナー兄妹が無事だったのは僥倖だったな」
女騎士と獣人が言葉少なに合意する。さも日常会話といった具合だ。
――ベート退治……?
一瞬、気になる言葉が聞こえたものの、少女は嗚咽に邪魔され言及することができなかった。それどころか、村へ戻ろうにも腰が抜けていて、立ち上がることすら難しい。
「ほら嬢ちゃん、おぶさんな。ふっかふかの特等席だぜ?」
見かねた獣人が背中を向け、ぶっきらぼうにも冗談めかして言った。さっきまで恐ろしかったのに、今ではやけに優しく聞こえた。
にこやかな女騎士に手伝ってもらい、その広く逞しい背中に乗ってみる。なるほど確かに特等席だ。
少女は思いがけず笑みを零しながら、彼の首に手を回した。その拍子にチャラリと音がして、どこに引っかかっていたのか、首飾りのチャームが目の前に滑り込んできた。
多分、茂みを掻き分けているときに、背中側に回ってきてしまったのだろう。
「……雪片旅団……?」
そのプレート型のチャームに彫刻された文字を読んでみる。すると、獣人が耳をピクリとさせて言った。
「おうともさ、俺たちゃ天下の雪片旅団。お困りとあらば依頼しな、後悔ないようにしとくぜ」
「なにが天下だ、結成したばかりだろう」
女騎士がげんなりとした声音で漏らした。少女はそれがおかしくて、つい笑ってしまう。
「なんだよ騎士嬢、弱腰だな。宣伝ってやつだよ。それに今回の討伐依頼だって、今頃うちの参謀殿が作戦立ててるはずだぜ」
「まあそれは確かに。彼は根掘り葉掘り情報を仕入れていたからな」
からからと笑う獣人に、女騎士がやれやれと呆れながらも同調する。
二人のちぐはぐな掛け合いは、頼もしいんだか、頼りないんだか。でも、これが希望っていうのかな、と少女はそう思った。
「どうかお願いします! 雪片旅団のみなさんで、わたしたちの村を助けてくださいっ!」
「ああ、もちろん」「うぅわビックリしたぁ! 耳元ででけえ声出すなよ嬢ちゃん!」
やっぱり、でこぼこコンビだった。
よろしければお付き合い下さい。
後書きでは、登場した架空の生物などを補足したいと思います。
【Tip*s】
『ベート』
十八世紀にジェヴォーダン地方に出現した謎の獣です。
ジェヴォーダンの獣として語られ、当時はベートと呼ばれていました。
幻獣ではないです。