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Snowflake*s!  作者: 七志乃もへじ
外伝 アネクドート
1/45

 少女は怯えていた。

 陽の透ける鮮緑の森にひとりぼっち。巨木の根の股に身を(かが)め、ただひたすらに縮こまっていた。

 鳥のものと思われる鳴声は遠く、それよりも制御できない心臓の鼓動がうるさい。

 こんな状況でもなければ、森の冷えた空気は澄んだ潤いに感じられたことだろう。けれどそれも今は、重たくのしかかるだけの不快な湿気だった。

 なにより衣服越しに背中に伝わる苔の感触が、じめじめと酷く気持ち悪い。

――助けて、わたしはここ、ここにいるよ……助けて、「お兄ちゃんっ……!」

 はぐれてからどれくらい経っただろう。ずっと胸の内で渦巻いていた声が、やっと発せられた。

 しかしその救難信号は風前の灯火よりもか弱く、誰の耳にも届かない。

――大丈夫だって! ベートは牛の(つの)が苦手なんだぜ!

 脳裏に浮かぶのは、恋しい兄の姿だ。(つの)の壁飾りを持ってニシシと笑う幻影に、少女はいっそう心細くなる。泣き出してしまいそうだった。

――村に戻って助けを呼ばなきゃ……。このままここにいたら暗くなっちゃう……。

 意を決し、少女はそろりと動き出す。音を立てぬよう、ゆっくり、ゆっくり、足を前へ。

 一歩。二歩。

 木々の合間、四方八方から視線を感じるが、そこには何もいない。

 三歩。四歩。

 頭につけた三角巾が引っ張られたかと思ったら、小枝に引っかかっただけだった。

 五歩。六歩。

 すべてが怖くて、恐ろしくて。悲鳴を上げないでいられるのは、泣くのを(こら)えて喉がひくついているからだ。

 七歩。八歩。

 腰を折り、慎重に進んでいた少女の歩みが、止まった。

 乱暴に茂みを掻き分ける音がする。気のせいなどではない。それは今も、どんどんこちらに向かって近づいてくる。

 少女は逃げ出すこともできず、かといってへたり込むこともできず、ただ音のほうを凝視した。そうすることしかできなかった。

――もうやだ! 帰りたい! お家に帰りたいよ!

 心だけが叫び、騒ぎ、乱れ、暴れる。

 そしてとうとう、目の前にある低木(ていぼく)の枝葉がガサガサと揺れ、割れた。

「お兄――!」

「おあ! ほら見ろいたぜ騎士嬢! どうよオレの鼻ぁ、ドンピシャだ!」

 防波堤を失った心が決壊しそうになったとき、耳を()く豪胆な声に、少女は固まった。同時に頭のなかが真っ白になり、大きな目をさらに大きく見開く。

 その瞳に映った人物は、およそ見慣れた人の容姿とはかけ離れていた。端的に言うと、毛髪とは明らかに異なる質の毛に覆われ、毛むくじゃらだったのである。

 具体的に言えば、獅子に似た獣のような顔立ちと、高い位置でピンと立った耳、尖った犬歯が目立つ口や、鋭い爪のある手、おまけにふいふいと揺れる尻尾まであった。

 辛うじて人と言える部分は、その獣が二本足で立ち、腰巻やズボンを着用していて、人語を解しているところくらいだ。

――ベートだ……!

 初めて目にする異形の姿に、少女の身体はガクガクと震えた。もはや恐慌状態といってもいい。

 息が止まり、喉が張り付いて、吐くことも吸うこともままならないまま、ただ震えていた。

――殺されちゃう! 食べられちゃう!

 脳だけでなく、全身が警鐘を鳴らす。もう一人の自分が逃げろ叫べと命じているのに、その意志は目の前に現れた獣の男に圧殺され、身動き一つ取れない。

 自分はここで死んでしまうのだ。そう思ったのも束の間、ガサっと音がして、また一つ茂みに裂け目が増えた。

「おお、本当だ、さすがは獣人(セランソ)だ。こんにちは、あなたがカトレア・ホーナーさんかな? 無事でよかった。怪我はない?」

 次いで現れたのは、涼しげな面差しの女性。今度は普通の人間だ。プラチナブロンドの髪は男性と見間違えるほど短いが、青色の瞳が綺麗な人だった。

 見れば纏った衣服の下に板金鎧(プレートアーマー)を着込んでいるようで、腰にも剣が下がっている。輝くそれらは彼女の凛とした雰囲気によく似合っており、まさしく女騎士といった風采(ふうさい)だ。

――獣人(セランソ)……? それにわたしの名前も……怪我……?

 少女は聞こえた言葉を反芻する。思えば、獣の男は気兼ねなく女騎士に話しかけていたし、襲ってくる気配もない。

「……ベートじゃ……ないの?」

 少女は声を揺らして問いかけた。獣の男が女騎士の肩をちょいちょいとつつく。

「なあ騎士嬢よ、ベートってなんだ?」

「なんだって、村で聞き込みしたばかりだろう。最近ここらに出没するようになった人喰いの獣だ」

「それはヴォージェダンの獣ってやつだろ?」

「……だから、その獣のことを村の者はベートと呼んでいたじゃないか」

「ああ! ……っていや、それじゃあもしかしてこの嬢ちゃん、俺のことをその獣だと思ってやがんのか?」

 女騎士がきょとんとした顔で少女を見やる。少女は依然として不安げな表情を隠せずにいた。

「……ふっ、あっはっはっ!」

 笑いだす女騎士と、「冗談じゃねえや……」と不貞腐(ふてくさ)れたような顔で頭を掻く獣の男。

 その親しげな様子に少女が呆然としていると、女騎士は笑いを噛み殺しながら「驚かせてしまったかな」とつぶやいた。そして目線をあわせるようにして顔を近づけ、「大丈夫、私たちはあなたを助けに来たんだよ」と言うと、少女の頭を撫でる。

――助かった……助かったんだ……。

 ふんわりと微笑むその顔を見て、少女はようやくへたり込むことができた。誠実で、優しげで、騎士だということを差し引いても安心できたのだ。

 しかしすぐに安堵の表情を一変させ、しゃがみ込んだ女騎士に縋りつく。

「おっ、お兄ちゃん! お兄ちゃんは!? お兄ちゃんを見ませんでしたか!?」

 女騎士が突然服をつかまれ驚いていると、獣人が言った。

「落ち着けって。おら、立てるかよ嬢ちゃん。騎士嬢、手でもつないでやんな」

「でもお兄ちゃんが!」

「だから落ち着けって。嬢ちゃんの(あん)ちゃんなら無事だ。血の匂いがしねえからな」

 そう言って、獣人が「今頃、親父さんへの言い訳でも考えてらあ」と悪戯な笑みを浮かべると、女騎士もうなづいた。

「ああ、心配ない。あなたのお兄さんも、私たちの仲間で手分けして探している。きっと無事に村へ送り届けられることだろう」

「でも! この森は村よりもずっと広いんですよ!?」

「大丈夫だ。私たちがあなたを見つけられたように、あちらにも森を得意とする者がいる。だから安心してほしい」

「ハッ、チビ嬢よか俺の鼻のほうが早かっただろうがな。まあ、問題ねえだろうよ」

 喚いているのは少女だけで、二人は余裕そのものだった。仲間をかなり信頼しているらしく、そこには心配がる素振りなど微塵も感じられない。

 だが、その態度こそ今の少女が求めているものであり、なにより心強かった。

「あ……そう……そうなんですね……よかった……」

 安堵によって力が抜け、再び少女はその場に崩れ落ちた。ぽろぽろと涙が(あふ)れるが、もはやそれを止める力さえ残っていなかった。

「さて、私たちも一度村へ戻るとしよう」

「そうすっか、ベート退治はいったん仕切り直しだな。野郎、常に風下(かざしも)になるよう陣取ってやがる」

「なるほど、私たちを警戒したか。そのおかげでホーナー兄妹が無事だったのは僥倖だったな」

 女騎士と獣人が言葉少なに合意する。さも日常会話といった具合だ。

――ベート退治……? 

 一瞬、気になる言葉が聞こえたものの、少女は嗚咽に邪魔され言及することができなかった。それどころか、村へ戻ろうにも腰が抜けていて、立ち上がることすら難しい。

「ほら嬢ちゃん、おぶさんな。ふっかふかの特等席だぜ?」

 見かねた獣人が背中を向け、ぶっきらぼうにも冗談めかして言った。さっきまで恐ろしかったのに、今ではやけに優しく聞こえた。

 にこやかな女騎士に手伝ってもらい、その広く(たくま)しい背中に乗ってみる。なるほど確かに特等席だ。

 少女は思いがけず笑みを(こぼ)しながら、彼の首に手を回した。その拍子にチャラリと音がして、どこに引っかかっていたのか、首飾りのチャームが目の前に滑り込んできた。

 多分、茂みを掻き分けているときに、背中側に回ってきてしまったのだろう。

「……雪片旅団(せっぺんりょだん)……?」

 そのプレート型のチャームに彫刻された文字を読んでみる。すると、獣人が耳をピクリとさせて言った。

「おうともさ、俺たちゃ天下の雪片旅団(スノーフレークス)。お困りとあらば依頼しな、後悔ないようにしとくぜ」

「なにが天下だ、結成したばかりだろう」

 女騎士がげんなりとした声音で漏らした。少女はそれがおかしくて、つい笑ってしまう。

「なんだよ騎士嬢、弱腰だな。宣伝ってやつだよ。それに今回の討伐依頼だって、今頃うちの参謀殿が作戦立ててるはずだぜ」

「まあそれは確かに。彼は根掘り葉掘り情報を仕入れていたからな」

 からからと笑う獣人に、女騎士がやれやれと呆れながらも同調する。

 二人のちぐはぐな掛け合いは、頼もしいんだか、頼りないんだか。でも、これが希望っていうのかな、と少女はそう思った。

「どうかお願いします! 雪片旅団(スノーフレークス)のみなさんで、わたしたちの村を助けてくださいっ!」

「ああ、もちろん」「うぅわビックリしたぁ! 耳元ででけえ声出すなよ嬢ちゃん!」

 やっぱり、でこぼこコンビだった。

よろしければお付き合い下さい。

後書きでは、登場した架空の生物などを補足したいと思います。


【Tip*s】

 『ベート』

十八世紀にジェヴォーダン地方に出現した謎の獣です。

ジェヴォーダンの獣として語られ、当時はベートと呼ばれていました。

幻獣ではないです。

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