ナーバスな彼女の蒼いネイル
「ホテルは嫌って言ったじゃない」
半ば諦めたような溜息は冷たい硝子を曇らせる。
その先の夜に浮かぶ夜景に重なった室内の影。
薄暗いオレンジの光。
決して安くはない極上の一部屋。
ベッドから立ち上がる僕を一瞥もしない彼女。
「誰が何に使ったかも分からないところなんて」
嫌よ、と駄々を捏ねる。
蒼く暗い深海のようなワンピースがよく映える、白い肩を抱いて。
陶器の造り物みたいな指、長く丸い爪先はどこまでも透き通る青。
緩くカールのかかった漆黒の髪は背に流れ、湧き出し岩をも削る滝の強さを思わせる。
歌うような軽く低いアルトの声は零れ落ちそうに濡れそぼった唇から。
彼女は人魚のようだ。
神経質な蒼白の歌姫。
王子に恋しない、人魚姫。
艶やかな髪に覆われた小さな頭を抱き寄せ、そっと口付ける。
鬱陶しそうに僕を振り払い、ベッドの手前でたった一枚の防御壁を脱ぎ去った。
青いサテンのワンピースが微かな音をたてて滑り落ちる。
現れる象牙の肌と藍の下着。
ベッドに倒れ込み恥じらいもなく僕を待つ姿はまるで娼婦だ。
金のやり取りはない。
気紛れな遊びだ。
溜息を吐いてネクタイを放り、シャツのボタンを外すのもそこそこに。
忍び寄るように彼女を組み敷く。
閉じていた瞼を開いて、僕の頬を冷たい両手で包む彼女。
「私より先に逝ったら許さない」
底光りしたオニキスの瞳が始まりを告げる。
僕の前でだけ、音階のめちゃめちゃな音で啼く。
それともそれは勘違いで、他の誰かにも爪弾かれているのか。
残った余裕で温度の低い唇を歪めて、悪趣味、と僕を詰るお姫様。
シーツを握り締めた手に気付かないふりする。
声を堪えて高過ぎるプライドを掲げ続けようとする。
愚かな深海の歌姫。
その頬に熱は灯らない。
目尻に涙の雫など見えない。
声は冷えて温度を変えない。
時折宝石のような瞳が僕を見据える。
何かを問うように。
嗚呼、泳ぐように身をくねらす君に眩暈を覚えた。
――ナーバスな彼女の蒼いネイル。