魔王さまの創作教室
我はオルレアという賢者である。
ピチピチの乙女で絶世の美少女であり、それはもう超絶なまでに素敵極まりない、押しも押されぬスーパーアイドルである。
なお、歌も歌わないくせに自称アイドルとか、自称美少女うぜえとか批判したやつはあとで泣かす。吐いたつばを飲み込ませるぐらい泣かす。
うむ、そこへ座れ。ちなみに座ったら最後立ち上がることは許さぬ、立ったら死ぬ。殺す。
座ってもいろいろ痛くて死ぬかもしれんが、まあ座れ。
どうせ死ぬなら、聞いてから死ぬといいのだぞ。
……では、よいか?
よくなくてもスルー。では始める。
創作のコツ、というやつがあるのだ。
コツといっても、なにかがすごい変わるとか、すごい上手くなるとかいうものではない。
ここ気をつけると長く楽しめて、上達を妨げにくい、というものであるな。
創作のコツとは言うものの、多くの物事はだいたいこれで上手くなるっぽい、というものであるとも言える。
とりあえず経験上それっぽいし、達人などを見ていてもそんな感じぽい。おそらくは物事の学習手順としての共通事項ではないかなと思うのだ。たぶん。
まあ難しいことではない。難しいが難しいことではない。
それは、単純なことなのだ。
【妬まない、歪まない、焦らない、腐らない。わからないことを楽しみ、現状を理解する】
実は、これだけちゃんとできれば、物事は上達する。というかこれが出来ていて成長しなかったやつは見たことがない。
で、困ったことにこれが出来ない。まあ、普通は出来ないから難しいのであるが。
なぜなら、人間は妬むし、歪むし、焦るし、腐る。
さらに言うなら、わからないことで苦しむし、うまくいかない現状は認めたくないであろう。
うむ、かなりの無茶振りの自覚があるのだぞ。
そして困ったことに「この無茶ぶりが、出来ないけど必要だと認める」ことが、まず認められないのであるな。
ムリでしょと否定してしまうし、物事は一度否定してしまったら、もうそこから得られる情報なんて無いゴミ扱いなのだ。
だが、ポイ捨ては厳禁である。
まだ食べかけの肉だというのに、もうわかってる必要ないと思って、多くのことをゴミ箱に放り込んでしまうなど言語道断。お天道さまに申し訳ない。あと、丹精込めて育ててくれた農家の人や畜産に関わる方々にも。
もったいないお化けが出るくらいには。
なので、まず上手く認められなくてもよい。
「誰かが主張する以上は、どんな意見でも一理ある」と考えてみるべきであると思うのだ。
誰かがわざわざ主張する以上、そこにはなんらかの意図があるはず。理由もないのに話すものなどおらぬ。
それがたまたま言葉になっただけのこと。
意図がうまく言葉にならないことなんてよくある。というか、それが出来てたら、誰もこんな苦労せぬぞ。
そもそも、ちゃんと通じる言葉ができていれば、日常会話で「わかれ! 脳内で叫んでることをわかりやがれ、察しろ!」なんて思うこともないわけであろう。
自分ができないことを他人に許さないのはよろしくない。せいぜい、酒の席で愚痴って、あの野郎ふざけんなと欠席裁判である。
ということで、まずはこう、上手く伝わってない可能性も含めて「他人の言には一理あると思っておくと、言葉以外の情報がたくさん詰まってたりする」のであるな。
魚の骨の周りの肉はしゃぶるとうまいので、創作やるならそういうところの旨味も味わっておくとか出汁にするといいんじゃないかと思うのだ。
ただまあ、単なる感情論、暴言、ヘイトその他、これ食べるとちょっと胸焼けするわー、料理中に下手に脂がこぼれるとオーブンの中が炎上するわーというものもある。
そういう脂っこいものは、わかった上で避けておいておけばよい。無理するとお腹壊すのだ。
ゴミだと判断する前に、ゴミかどうかをちゃんと判別する、というのが大事な気がするのであるな。
それに脂にも使いみちはあるのだぞ。小説の中にそういうの置いておくと、上手く焼けば香ばしい匂いをさせるのだ。やり方次第である。
ああ、そうそう。切り分けるときに重要なのだが、偏食にはならないよう気をつけるのだ。
甘いものはたしかにうまいのであるが、そればかり好んでおると、肥満になる。肥満になると怒りっぽくなったりもするもので。
それに見栄えが悪くなれば、知らず知らずのうちにこころない言葉も投げられるようになり、さらに動くのがおっくうになり、やがて他人に美味しいローストビーフ丼として出荷されてしまったりするのだ。気をつけるがよい。
なお、我ぐらいになるともはや体型が変わらぬので食べ放題である。甘いものは存分に食うぞ。いいだろう。
次に感情問題であるな。
誰もが妬むし歪むし焦るし腐るのだぞ、決まっておろう。
自らの発言全否定だが気にするな、人間そんなものであるぞ。
よいか、感情は感じるから感情である。
なので、感じるから感じるのだ。
放っといても勝手に感じるものを我慢できるとかとかいえば、そんなの我慢できるわけないであろう。
飯テロ食らって空腹になった自分を否定出来ないくらいには。
だから、我慢しないくていい方法を考えるべきだと思うのだ。
ぐぬぬと妬み、ころーすって言いながらいじり倒したが反撃され、他人が先行って焦った挙句、うがーってベッドごろごろ転げ回りながら奇声を発して隣の家に怒られるがよい。
ただし堂々とやれ。
たとえば、友人がトップ取りやがりましておめでとう記念で、本人にうらやましいー、しねー、せめておごれーと言ってしまってよい。
それを、世をはかなんで、表向きはおめでとうと言いつつ、てめえなんか先行きやがってもはや友達じゃねえ、いつかヤツの家に火をつけてやると思うのがマズイのであって。
そもそも、他人によいことがあるなら、祝うのが普通である。
祝えなくなるなら、祝えなくなる要因をどんどん投げっ放して、それから祝えばよい。祝賀パーティで恨み言のようにやけ酒など、小説の悪役や裏切り役そのものでないか。ヒーローになりたいものがそんな役回りを選んでどうする。
現状の把握もおぼつかなくなって、ただ闇雲に武器を振り回すなど、酔っぱらいのやることであるぞ。
だいたい妬んだり腐ったりすることも、本来は原動力であろう。創作とかいう、物事の解釈を問う趣味に関わっておいて、そのものをそのままにしか捉えないとかもったいなさすぎるのではなかろうか。
創作を志すなら【やべえ、この「ぎもぎもする感じのささくれだった気持ち」は、エンタメとしてなんか生かせないだろうか】くらいのことを考えるがよいのだぞ。人として。
まあ、だいたい感情のもやもやしさに負けて、ベッドで枕を濡らすことが多いのであるが、それもまた創作の醍醐味であるぞ。がんばれ。
ちなみに、我の呪いはそうした黒歴史のたまものである。
普通は、自分は大人だと言い聞かせることで呪いなどできなくなるのであるが、我ぐらいになると、黒歴史など自由自在である。
授業中こっそり隠れてノートの端にらくがきをしたり、うっかり書き出した他愛もないキャラの裏設定がページを埋め尽くしたりとかそういう。
あまつさえ、他人にそういう落書きを見られて焼け死んだりするとわかっていながら、どこかで自らさらし首を望んだりするとかみたいな、ロマンあふれる活動である。
創作はそうした黒歴史の積み重ねであり、最先端なのだ。
名作を紐解いてみれば、人間のどろどろもやもやしたものを、綺麗に衣をつけてカラッと揚げて、熟成されたタレにつけて美味しくいただくようなものである。
人間なぞ、そうした矛盾だらけで感情的な生き物で、朝に言った愚痴で夜に自己嫌悪に陥るものなのだ。それを自ら否定してどうする。それ一番美味しい味わいがいのあるところであろう。
だいたい、そんな矮小で卑屈でいい加減、優柔不断ですぐ揺らぐ自分は、最高で完璧でまぶしくて素敵なのだぞ。パーフェクトヒューマン。スケジュールなどついうっかり眠いだけでずれ込むのだ。
己がそんな己を認めずして誰に認めてもらうのだ。
ダメでクズでどうしようもない、人として立派でないことは素晴らしいのだぞ、誇れ。聖人君子たろうとするな。
もちろん、人として優れてる方が嬉しいに決まっているが、人として優れてないこともいいことなのだ。
我を見るがよい。
無計画に突っ走りだいたいのことはアバウト。漠然として適当に構え、特に先行きの見通しも立てていないが、いまや賢者として扱われているのだぞ。人としてはだいたいダメダメだが、賢者として問題ないならOK。
自らの棚上げ上等である。
案外、世間では立派に見えても、中にはそうした連中も少なくないのだ。
だから、いろんなことが出来るしやれるしいけるのだぞ。
可能性を決めるのは自分なのだから、可能性を殺すのも自分で、可能性を作るのも自分。
ただ、自分の目と腕が届く範囲にしか今はできないだけのことである。
悲しいことに、頑張っても出来るのは背伸びだけなのだ。
背伸びばかりしていたら足元が不安定になるので、足元を見るのだ。
己が今できることは案外大きいので、その良さを再確認すべきなのだぞ。
地面が歪んで、滑って転んで擦りむいて泣いたりすることもあろうが、大人になればそういう子供を微笑ましく思うであろう。うまくいかない時はそういう状態だと思えばよい。無理に立てない時は四つん這いでいいのだ。それを恥ずかしいと思うからおかしくなる。
出来ないことを出来ないと認めた上で、出来ることを出来ると認める。
感情には振り回されるに決まっておる、そういうものだ。
そういう自分をもっと好きになるがよい。そうやって振り回されても大丈夫な自分になるがよい。
我慢など限界があるから我慢なのだ。我慢の必要がある時に我慢すればよい。たまには責任投げ捨ててばっくれてもいいのだ。よくないけど。
それに、上手く行ってない時は、単に原因に気づいておらぬだけだ。
作業だけやってもなかなか気付かないこともあろう、知らぬことは直そうとすら出来ぬ。
だから作業に救いを求めすぎず、物差しを他人に求めすぎるでない。
迷ったときには地図を探せ。人に聞け。だが、地図は読み違えるものだし、人も道を知らぬ時はあると知れ。誤った道を歩んだら戻ればよいのだ。
それに、戻る道もよいものである。ただ、違う景色かもしれないし花も咲いているかもしれない事に気づかないだけなのだ。
ゆえに、楽しむがよい。
出来ることはたくさんあるが、いつも気付かぬだけなのだ。
いくらでも気付けるのだから、失うものなどない。というか別に失ってもいい。
創作は失敗を作るのも楽しいのだ。
暗黒物質を作ってしまっても、他人に話すときには笑い話である。それが創作である。
失敗は失敗でないかも知れぬ。それを自分で失敗に確定してしまうのはもったいないのだぞ。
真新しいことなどなくてよい、自分が面白いと思ったらそれは面白いのだ。
うまくいかないのは、説明が悪いだけである。思い出し笑いしたときにまるで他人にわかってもらえなかった時くらいに。
……うむ、アンのやつが、我にツッコミ厳しくてのう。
あ、帰ってよいぞ。
いつまでそこにいるのだ、創作するのであろう?
立ったら駄目などと言われた? 他人の言葉など参考程度に決まっておるだろう。
どうせなら死んで作るがよいぞ。
作品の作者が死んでおるか生きておるかなど、気にするのは値段を決めるヤツだけなのだ。
己が書けば勝手に己の個性など出るし、それで十分であろう。
わかったらとっと帰れ、作品が待っておるぞ。