女王 ーハハオヤー 3
報告帰り、自室の前で茅野さんと出会し、梅長さんの昔話をしてから一夜が明けた。昨日と同じ時間に目を覚まし、朝食兼昼食を済ませるとさっさと自室に戻った。
あの人の言うことを訊く訳じゃないけど、確かにマニュアルはざっとでも一度読んでおいた方がよさそうだ。引っ越し作業の時に『私は実戦で覚えたなー。本読むの苦手だし』なんて言っていた元ヤン梅長仁美の言うことを参考にした私が間違っていた。
マニュアルファイルを本棚から取り出して机の上に広げる。
当然ながら、世間に公表してないことシリーズについては記載されていないようだが、それでもネットでざっと調べたこと以上の情報はわんさか載っていた。
子供の頃はどちらかといえば勉強は嫌いだったんだけど、五年振りにやってみると意外と楽しいものだ。
なんて気持ちが続いたのは最初の一時間程度で、二時間が経過した頃にはすっかり子供の頃の心を取り戻していた。
目がしぱしぱしてきた。もうやだ。今日はこれくらいにしておこう。
パタンとファイルを閉じたとき、廊下から茅野さんらしき声が聞こえてきた。誰かと話をしているらしい。梅長さんあたりだろうか。
机から逃げるように立ち上がり、ドアへ向かう。話し声は梅長さんのものではないようだった。もっと若い。学校の友達? いや、でもここって一般人立ち入り禁止だし……。
ドアを開けると、茅野さんの部屋に入ろうとしていた三人と目が合った。
一人は当然茅野さん。昨日の今日でどんな顔をしているかと思っていたけど、意外と元気そうだった。女王様のようにへこんでいる顔が見たかった訳では断じてない。
もう一人は、この支部の有名人だった。サイドに纏めた黒髪。凛々しい顔立ちに似合わないぼんやりとした雰囲気。『万能』紋水寺莉乃。『恨み』以外の負の感情に耐性を持っていて、戦闘能力も上位に入るという、異名そのまんまの能力を持つ徒花。全国好きな徒花ランキング九位。
もう一人は紋水寺さん以上の有名人。小さな身体。大きな垂れ目。小さな鼻と口。ウェーブがかった薄い茶髪を後頭部で縛った髪型。『全能』戸舞流華。トップクラスの戦闘能力、全ての負の感情に耐性を持つという他に類を見ない超絶ハイスペックな徒花。しかも可愛い。いや、紋水寺さんも可愛いんだけど、ていうか徒花の人ってみんな容姿が優れてるんだけど、戸舞さんは格が違う。天は二物を与えずなんて所詮人間が考えた言葉なんだなと思わざるを得ない。
「こんにちはっ」
笑顔で元気な挨拶をしてくれたのは戸舞さんだった。紋水寺さんも無表情ながらペコリと頭を下げる。どうしよう。私、この子達より一つ年上だけど、きっと精神年齢は三つか四つくらい下だと思う。
とりあえず「こんにちは」と返しておいた。茅野さんが一歩前に出てくる。
「あの、この二人は同じ中学校に通ってて、この支部に所属してるーー」
「うん。知ってる。戸舞さんと紋水寺さんでしょ?」
「はいっ」と戸舞さんが左手を高く挙げて答える。可愛いけどあざとい。学校でボス猿(♀)に目をつけられたりしそう。まぁ徒花に喧嘩売る一般人はなかなかいないだろうけど。
「えっと、それで、この人が……」
「川那子沙良さん!」これまた戸舞さん。
私は「うん」と頷いてから茅野さんに目を向ける。
「今日はどうしたの?」
「あの。戸舞さんと紋水寺さんに、カフカについて色々教えてもらえることになって……。あ、もしよければ沙良さんもどうですか」
「ううん。私はいい」
今日の勉強タイムは終了しました。それに、徒花部隊の先輩だとしても年下に教わるのはなんとなく照れ臭い。
三人と別れて、寮内を適当に歩き回る。
そういえば、さっきの様子からして、茅野さんもある程度は吹っ切れたようだった。少なくとも今すぐに辞めるなんてことはなさそうだ。世間に公表していないシリーズで更に衝撃的なものがないことを願う。まぁ女王様の口振りからしてなさそうだけど。
寮を出て厚生棟に向かう。入隊初日、梅長さんに案内してもらった時は『買い物したいときはここ。勝手に外出ると怒られるから』と言われただけで中には入っていなかった。
棟に入ると、右手には全国チェーンのコンビニがあった。外のコンビニにはわざわざ置いていないような雑貨品や、類家隊長以外誰も来ていない指定の制服なんかも売られている。コンビニというよりちょっとしたスーパーみたいだ。
特に欲しいものがあるわけでもなかったため、そのままコンビニをでて奥へ進む。美容院があった。腐化して固めれば髪型も変えられるけど、やっぱり細かいところまで上手くできないものなので、おしゃれをしたいなら必要だろう。私みたいな、動くとき邪魔にならなければいいという考えの徒花には不必要な場所だ。戸舞さんなんかは行きつけの美容院がありそうなイメージ。
続いて目に止まったのは書店。本屋さんだった。特に読みたい本がある訳じゃないけど入ってみようかな、と考えたとき、ガラスの向こう、店内に霧崎麗の姿が見えて、方向転換した。
突き当たりには居酒屋があった。この場所こそ私には関係ない。一応、法律上は徒花も人間であるとされていているため、飲酒、煙草は二十歳になるまでお預けだ。
踵を返して入り口へ向かう。書店の前は早歩きで通過し、そのまま外へ。自室に戻っても暇なので、支部の敷地内を適当に歩くことにした。
寮生活は食堂があるし、掃除も自分の部屋だけでいいから楽なんだけど、こういう時だけは外に住んでいる徒花が少し羨ましくなる。外に居住地を持つ徒花は全体の一割程度で、この支部では、さっき会った戸舞さんと紋水寺さんの班がそこに含まれる。戸舞さんの要望で、通っている中学校の近くにあるマンションに住んでいるのだ。同じ班である紋水寺さんも同様で、更にもう一人の班員も同じマンションに暮らしているらしい。
そういえば、徒花のことをネットで調べていた時、戸舞さんと紋水寺さんのことで少し気になる書き込みを見つけたことがある。
戦闘能力も高く、負の感情への耐性も完璧と言える二人。それが何故、三年前の入隊以降、一度も変わることなくチームを組み続けているのだろう。その書き込みへの返事はいくつかあったが内容はほぼ同じで、戸舞さんか紋水寺さんのどちらかが希望しているのだろうといったものだった。その理由として、二人が同じ施設で育った、姉妹同然の幼馴染みであることを挙げている人もいた。じゃあ仲がいいんだろうなぁと思っていたけど、それぞれの第一印象ではあまり性格の合う二人には思えなかった。まぁ正反対の方が仲良くなれるともいうけど。
そんな二人と組んでいるのはーー、名前は忘れたけど吸花だった。確か二人と同い年。同じ学校に通ってるはずだけど一緒にいなかったな。紋水寺さんが唯一苦手とされる『恨み』に強い耐性を持っている子だったはず。
不意に、煙草の臭いが鼻についた。辺りを見ると、隊長室の窓から類家隊長がこちらを見ていた。軽く頭を下げてさっさと歩き去るつもりだったけど、手招きされてしまったため仕方なく近付く。
「こんなところで何をしているんだ?」
「気分転換に散歩」
「ほお。そうか」と隊長はどこか嬉しそうに笑った。
「何?」
「いや、初めて会ったときと比べて人らしくなったと思ってな」
「そう?」
「色々考えている顔になった」
「出来れば何も考えずに生きていきたいけど」
「それは人の生き方じゃない」
「へぇ」
そうなんだ。まぁどちらにせよ、人らしくなったということは、知らず知らずのうちに私の寿命が伸びたということだ。
「昨日の任務はどうだった?」
「昨日話した」
「仕事の報告じゃなくて世間話だ。麗さんと一緒に仕事をして、どうだった」
この人は私と霧崎麗の関係を知っているのだろうか。なんて考えるのも馬鹿らしい。きっと知っている。何年も勧誘を続けていたんだから、材料になりそうなことは調べあげているだろう。
だからって、話に乗ってやるつもりもない。
お父さんから聞いた霧崎麗の話。産まれたばかりの私より仕事を優先した人。家庭を省みずに仕事にうちこむキャリアウーマン。その末に離婚。
本能があの人を母親だと示しても、心はまだそれを認めていない。私の心の中にいる母親は一人だけだ。あの日、本能が否定した紗友莉さん。優しくて、家に帰るといつもそこにいてくれた人。
「異名そのまんまって感じ。性格も、自分本意な戦い方も」
まぁ今後の参考になった部分がないとはいわないけど。
「そうか」と隊長は言ってから、どこか不自然にこう切り出した。「引退を考えているようなことは言っていなかったか?」
「引退?」思わず聞き返した。美魔女特集でテレビにも出られそうなイケイケ四十代のあの人が?
「全然」有り得ない。
「そうか。少しは考えてほしいところなんだがな」
「引退勧告してるってこと?」
「もう一年以上前からな」
「へぇ。なんで?」
「本人の意思とは無関係に腐化が進んでいる兆候が見られる」
「どこが? 確かに腐ったような性格だったけど」
「まず前提として、麗さんの腐化は腐の感情の蓄積によるものではない。その場合の腐化に前兆はなく、限界を越えた瞬間にカフカへと変貌する」
「へぇ」
「まぁこれはマニュアルにも書いていることだがな」
「へ、へぇー。でも、そうじゃない腐化なんてーーーーあぁ、もしかして、人としての意識云々っていう……」
「おそらく、そうだろう」
「そうなるとどうなるの? やっぱカフカになる?」
「あぁ。だが麗さんの場合はやはり特殊だ。過去の事例を見る限り、腐化の兆候が表れるなどということはなかった。もっとも、確認されていないだけかもしれないがな」
「あの人に表れてる兆候って?」
隊長は煙草を口に運び、大きく吸ってから斜め上を向いて煙を吐いた。
「記憶をなくしつつある」
「記憶を?」
「古いもの、比較的どうでもいい記憶から、少しずつ」
「例えば?」
「昨日の夕飯が思い出せないと言っていたな」
「ただの加齢じゃん」
「まぁそれは冗談としてだ」
真剣な話なのかそうじゃないのか。
それとも。
何かを誤魔化そうとしたのか。
「学生の頃の思い出、親しかった人の顔や名前、だったな。一年前に聞いたときは。今はもっと酷くなっている可能性は高い」
「認知症っていう可能性は」
「若年性アルツハイマー。私もそれを疑って医者にみせた。だが、診断結果はシロだった」
「人としての意識が薄れて、人としての記憶を失うなんてことあるの?」
「推測としかいえない。さっきも言ったように、過去に例がないんだ」
「なんであの人だけ?」
「それも不明だ。が、思い当たる節もある。麗さんの戦い方を見てどうだった? 何か気になるところはなかったか」
「いや、別に。やっぱ経験の差で腐化速度は段違いだなとは思ったけど」
「それだ」
「腐化速度?」
「腐化、硬化、再生。その全てのタイムで、麗さんは全国最速を叩き出している。二位以下に大きな差をつけてな」
「腐化が進行しているから速いってこと?」
「もちろん単純にその可能性もあるがーーーー」
隊長は少し考えるように煙草を吸ってから私に顔を向ける。
「戦闘中、自分が自分でなくなるような感覚に襲われたことはないか?」
「ある」
「五年前か」
「うん」
「その時はどうした」
「無視したけど」
「賢明だな。窮地に陥った徒花は同様の感覚に襲われる。そしてそれに身を任せると、その者は一時的に強大な力を得た後、完全に腐ってカフカとなる。不明瞭なことが多すぎるため公表はしていないがな」
世間に公表シリーズ第五段である。
「霧崎麗の腐化はそれに関係してるってことね」
「確認も取れた。もっとも、その時の記憶も薄れているらしく、少しだけ力を受け取ったような気がする、という曖昧な言葉しか返ってこなかったがな」
「そういうことも出来るんだ」
「するなよ?」
「しないよ」
する理由がない。今のところは。
「他の徒花のように年齢による衰えがあればそれを理由に前線から退かせることも出来るんだが……」
「身体だけは元気みたいだね」
梅長さんが『すごい』と言っていたそういうことさえ、事情を知った今では腐化による歪みの一つに思える。
そう。まるで、早くカフカになれと急かしているようだ。
急かしている? 何が? 私達の身体にあるのは、ヘドロと核。不可視なものも含めるのなら、心。せいぜいその三つくらいだ。
心が急かしているのだろうか。早くカフカになれと。
なら、きっとそれは、もう人の心ではないんだと思う。




