鉄壁 ーヤイバー 3
「どうして?」
茅野さんの声に顔をあげる。夢を見ていたわけじゃあない。何度も繰り返し見た記憶だから、もうはっきりと思い出せるだけ。
茅野さんと三星さんはカフカの足元に立ち、両手をヘドロの身体に当てている。
もう、五分ほどはそうしていて、今の言葉は既に十回発せられている。
先に両手を下ろしたのは三星さんだった。
傍で様子を見ていた霧崎麗に向けた顔を小さく左右に振る。それに対する返事は「そう」だけだった。
立ち上がり、爪先で地面を軽く蹴る。強度は大丈夫そう。
まだカフカに手を当てている茅野さんの後ろに立って、その名前を呼んだ。ビクッと背中を震わせてから振り返る。
「サラさん……。ど、どうしてですか? なんで、ミキちゃんだけ、吸収がーーーー」
「その子だけが特別というわけではないわ」
こちらに歩いてきながら霧崎麗が言う。
「あなたマニュアルは見ていないの?」
「み、見ました! 全部!」
「なら分かるでしょう。吸花の能力が効かないカフカの正体」
「そんなの、徒花の人が腐化した場合くらいしか……。でもミキちゃんは違いますし……」
「何故そう思うの?」
「だ、だって、あの……、サラさんの幼馴染の廻谷イズルさんを……」
「考え方を変えなさい。サラの妹は『カフカだった』じゃなくて『徒花だった』と考えるのよ」
「ミキちゃんは、徒花だった? でも、それじゃあ、なんで廻谷さんをーーーー」
小さく息を飲む音。
茅野さんも辿り着いた。
その答えに。
ひきつった顔でこちらを見る彼女に、私は頷いた。
「あの時に腐化したのはイズル」
妹は。
「ミキは、私を助けるために、自分自身を明け渡した」
あの感覚に。
ミキが化物になった。
イズルが殺された。
女の子を助けた。
お母さんが死んだ。
ーーーーに助けられた。
その日の夜はお父さんと一緒に眠った。
化物になったミキにイズルが殺される夢を見て、夜中に目を覚ました。嗚咽をあげて泣いていたけど、お父さんに抱き締められているうちにまた眠った。
二つ目の夢。
女の子ーー家近瀬李奈さんを助けにいくまで。
私の服装。
イズルの死体から溢れた液体が付着している。
黒い。
血液にしては不自然だと、十歳の私が不審に思うほどに。
それに気付いた瞬間、夢の途中にも関わらず目を覚ました。
どうして、あのヘドロが私の服についているのか。しかも、お尻を中心に。そこについているべきは、イズルの血のはずなのに。
夢だから?
そっと布団を出る。部屋を出て、階段を降りて洗面所へ。
洗濯機の蓋を開けて中を探る。
昼間着ていた服を探す。英字がプリントされた長袖のTシャツと白いスカート。
ない。
捨てるつもりかもしれない。
そう思って玄関へ行くとゴミ袋が置かれていた。袋の口は固く閉められていて、私の力ではほどくことは出来ない。リビングから鋏を持ってきて、袋を切った。
中身を取り出す。
Tシャツ、スカート。
その両方に、黒い染みが付いていた。
ここで、一つの答えに辿り着いた。
イズルも一緒だったんだ。人を襲って食らう、あの化物になったのは。
ミキは私を守った。
化物になりながらも。
私は。
何も出来なかった。
茅野さんに出会って。
対カフカ部隊に入って。
たくさんの人達と出会って。
私の中にあった答えは、真実と呼ぶべきものへとかたちを変えていった。
最初に引っ掛かったのは、私の家に来た隊長の口から徒花もカフカになるという事実を聞いたときだった。
真実に触れたのは、霧崎麗のことを話した時。『例の感覚』。異常なまでの腐化速度。
五年前のあの日、あの瞬間。イズルがカフカに、ミキが徒花になったと仮定する。
イズルは、人間の私を狙っただろう。私がミキの笑顔を見ていた、その後ろで。
それに気付いたミキが、イズルが動くより先に身体を腐化させて攻撃する。
通常の徒花ならそんなことは出来ない。徒花とカフカでは腐化速度の差は歴然だ。
だけど、例の感覚に身を任せて、一時的に強大な力を得た徒花なら。
推測でしかない。
でも、説得力があるのはどちらだろう。
誰かを守るために化物になりました。
または。
化物になりながらも愛の力で人を襲うことなくむしろ守るために同種を殺しました。
愛の力?
なんて曖昧な。
でも、そうかもしれないと思ったんだ。
細羽愛と出会ってしまったから。
そして、答えは出た。
結局、無難な答え。
だけどそれもまた一つの愛のかたち。そんなことを言う人がいたら、多分殴り飛ばしている。
ミキは神の使いとなって救われたのだと。そんなことを言われたら、殺してしまうかもしれない。
でも、結局何も出来ないんだろう。
今みたいに。
そんな自分を、殺したくなるだけ。
カフカが死ぬまで五名とも現場待機。
猪坂さんが隊長に経過報告をいれた際の指示だった。
今すぐ帰ってこいと言われないだけ有り難い。もっとも、無理に帰らせたところで使い物にならないのが分かっての処置かもしれないけど。
木にもたれて座り、その時が来るのを待つ。隣の木には茅野さんが立ったままもたれていて、猪坂班の三人は少し離れた場所でなにかの話をしている。
ミキは変わらない。空を見上げて、たまに吼えている。
「カフカになっても人としての意識は残っているそうです」
唐突に茅野さんが言った。
「マニュアルに書いてあったね」
でも、細羽愛のような高い知能を持つカフカなどの例外を除いて、その意識は実際の行動には伴わない。カフカになった自分を、ただ見ているだけ。人を殺し、食す自分を。
殺人を犯したカフカは殺すことになっている。その理由として、梅長さんは『徒花が助けても人を殺すから』と言った。その言葉には、何割程度、自殺という意味が込められていたのだろう。
「言葉を交わすことが出来なくても、言いたいことがあるならーーーー」
「無理だよ」
膝の前で指を組んで、俯いたまま返す。
「自分だけ言いたいこと言っておしまいなんて、そんなの、絶対に無理」
「大丈夫です。サラさんとミキちゃんなら」
茅野さんは静かに、だけどはっきりと言う。
「私は、サラさんはミキちゃんのことを恨んでいるんだと思っていました。でも、違うんなら大丈夫です。上手く表せなくても、お互いがお互いを思いあっているのなら、それは伝わります。どんな言葉でも。例え嘘でも。さよならの言葉でも」
顔を上げて隣を見る。
「馬鹿って言われても?」
「はい」と茅野さんは笑った。「でも、それはちょっと悲しいかもしれないです」
「難しいね」
「人同士ですから」
茅野さんはもう一度笑ってからミキを見上げた。
「カフカの行動に人の意識は伴わない。確かにマニュアルに書いていました。でも、私は、今のカフカから、ミキちゃんの意思を感じるんです」
「ミキの意思?」
「はい。寿命が近付いて、カフカとしての意識が薄れたからなのか、それとも無意識故の行動なのかは分かりませんけど、ほら」
茅野さんの言葉に合わせて、ミキが咆哮をあげた。それが止むのを待ってから茅野さんは再び口を開く。
「私にも妹がいるから分かるんですけど、小さい子が迷子になった時、あんな風に上を見ながら泣きませんか」
茅野さんの視線を追ってミキを見る。
徒花の気配には気付いている筈なのに、こちらを一度も見ることなく、ただ空を見ている。そこには何もないのに。
ミキを見上げたままゆっくりと立ち上がる。
茅野さんの言葉を鵜呑みにしたわけじゃない。
それでも。もし。万が一。そうなのだとしたら。
今のミキを迎えに行けるのは、私しかいないのだ。
地面を蹴る。足場を形成しながら、ミキの身体のすぐ横を跳び上がっていく。
胸の前で足場に乗った際、ミキの口が大きく開かれていくのを見た。両足に力を込めて、一気に跳躍する。視界に入るように。
限界まで跳んでから、落下に合わせて足場を形成。着地してから見下ろすと、大きな口は半開きの状態で動きを止めていた。
ゆっくりと閉じていく。
本当に呼んでいたのだろうか。
私のことを。
いつから?
数時間前から?
それとも、五年前から、ずっと?
「ミキ」
当然返事はない。ヘドロで見え隠れする赤い瞳がただ見上げてくるだけ。
でもそれでいい。言いたかった筈のことも、全部どうでもよくなった。
新たな足場を形成しつつ、ミキの顔の真ん前に移動する。最後は少し大きめの足場を作って、そこに腰を下ろした。
私がいれば、もう、なかない。
その事実だけで少し救われた気がしたから。
あとは、傍にいられればいい。
このまま。
最期の時まで、穏やかに。
それでよかったのに。
この世界は。
そんな小さな願いすら。




