鉄壁 ーヤイバー 2
妹が生まれると聞かされたのは、紗友莉さんをお母さんと呼べるようになった頃だった。
その時のことはよく覚えている。心底嬉しそうな笑顔を浮かべているお父さんとお母さん。
だけど、私が感じたのは不安だった。
だって、紗由理さんをそう呼ぶようになっても本当のお母さんじゃないということははっきり分かっていたから。それと同じように、紗由理さんにとって、私が本当の子じゃないことも。
でも、生まれてくる子は違う。お父さんの子だし、紗由理さんの子だ。そこには確かな繋がりがある。どれだけ頑張ったって、私には一生手に入れられない繋がりが。
だから私は、妹なんて欲しくなかった。
崎鳥山の麓でワゴン車は停止した。降車すると同時。中腹付近で空を見上げていたカフカの口が大きく開いて、二十秒ほど咆哮する。
何を叫んでいるのか。
何を見上げているのか。
「サラさん……」
斜め後ろから遠慮がちな声。振り向かずに応える。
「行こう」
地面を蹴って駆けした。スピードを茅野さんに合わせる。周りを見る余裕があるなら、今の私はまだ冷静でいられているのだろうか。それとも、茅野さんを口実に、現場へーー現実へ近付くことへの恐怖を隠しているのだろうか。
ミキを殺すために生きてきた。
あれがミキなら、どうする?
殺すか否か。選択は二つしかない。それなのに答えは出ず、いっそのこと神様の言うとおりで決めてしまおうか、なんて考えた。
現場へ近付くと猪坂班の三人が姿を見せた。足を止めて向き合う。猪坂さんに霧崎麗に三星さん。三人には『ある程度』事情を説明しておくと隊長は言っていた。それがどの程度かは知らないけど、少なくともあれが私の妹そっくりだということくらいは聞いているのだろう。
「話は聞いています」と猪坂さんは私を見て言いながらも、チラリと茅野さんに視線を向けた。もしかしたら、隊長個人に報告した当初の理由は、あの人型が茅野さんそっくりだったからなのかもしれない。
「川那子さん、どうしますか」
「見て決める」
地面を蹴って三人の頭上を飛び越える。
既に、木々の向こうにカフカの身体は見えていた。ヘドロが流れる体表に目を這わす。
いた。
地面を蹴って宙へ。
十メートル以上ある身体の胸部にある僅かな膨張。
そこから前方三メートルほどの空中に足場を形成し、それと向き合う。
小さな身体。水面に浮かんでいるみたいにふわっと広がった長髪。穏やかな表情。瞼は閉じていて、両腕を少しだけ広げている。
五年前と、全然変わってない。
足場が崩れた。落下しながら体勢を整えて着地する。
たったそれだけの衝撃で、両足が膝の辺りから砕けた。
「サラさん!」
茅野さんの声を聞きながら尻餅をつく。
「大丈夫ですか!?」
「うん」
砕けた両足の腐化に十秒。再生に三十秒。吸花よりも酷い記録だ。
茅野さんは私の隣で両膝をついている。きっと心配そうな顔をしているのだろう。でも、今だけは見たくなかった。
「何を動揺しているのよ」
霧崎麗の声。
「いくら考えたってあなた一人が出来ることなんて一つだけよ。大人しくしているカフカを刺激することは許されないのだから、自然に死ぬのを待つしかないわ」
待つしかない。ここまで近くに来ても。
「そっか」
私は、また、見ていることしか出来ないらしい。手を差し伸べることも出来ず。
「もう一つあります」
そんな声が響いた。普段の様子からはちょっと想像出来ない、凛とした声だった。
「サラさん。私に命令してください」
茅野さんはまっすぐに私を見る。
「『ミキちゃんを人に戻せ』って」
「茅野さんーーーー」
「やめておきなさい」霧崎麗の声。「化物のまま死んだ方が救われる場合もあるのよ」
「それは救われるんじゃない。何も変わらないだけです!」
「変わらないことが救いだと言っているの。ここで人に戻してどうなるというの」
「目を見て話をすることが出来ます」茅野さんは霧崎麗を見上げたままはっきりと言い切った。「カフカになった人はもちろん、その周りのーーその人を大切に思っていた人達だって、言いたいことや言いたかったことがたくさんある筈なんです! それはもしかしたら凄く汚い言葉かもしれないですし、傷付けたり、言った本人が傷付いたりすることもあるかもしれないけど、絶対に言うべきことなんです!」言葉に涙が滲む。「後から一人でーーもしかしたらこういう風に思っていたかもしれない、とか、私のことが嫌いだったのかもしれないって悩むより、絶対に救われます!」
「茅野さん」
気付けば名前を呼んでいた。涙に濡れた顔を見たくなかったのかもしれない。でも、それは茅野さんの顔か、それともミキの顔か。
「ありがとう」
少し冷静になれた気がする。
でも。
「多分、吸収は意味がないの」
三秒ほどの静寂。
「意味が、ない、ですか?」
頷く。
「なるほどね」と霧崎麗。「でもそれはあなたの推測でしかないわよね?」
「うん。まぁ」
「いいわ。環、それからーーえぇと、いい泣き顔のあなた」
「茅野奈緒です」
珍しくむすっとした口調の茅野さん。
「吸収してみなさい」
背後を親指で指しながら言う。
「霧崎さん!?」と声を上げたのは猪坂さんだった。三星さんも驚いた顔はしていたけど、無口な人らしく声には出さなかった。
「なによ」
「駄目です! 班長として許可出来ません!」
「あら勇ましい。初任務でぶるぶる震えていたのが嘘みたい」
「い、今それは関係ないでしょう!」
「全て私の責任でやるわ。どうせ引退勧告をされている身ですもの。辞めろと言われれば辞める。世間はカフカの寿命も知らないし、暗黙のルールも全て察しているわけではないから、バッシングを受けることはないでしょう? あるとすれば内々での処罰くらい」
「それはそうですが……! どうしていきなり……」
霧崎麗は私を見ると不敵に笑った。
「ナオの意見は置いておくとして、この子が予想していることをはっきりさせるーー解答を出しておくというのは無駄ではないでしょう」
猪坂さんは何か言いたそうにしながらも、不意に踵を返すと私達から少し離れた。
「見ない振りをしてくれるそうよ。さぁ、後はあなた達次第。サラ、ナオ、どうするの?」
「み、三星さんはいいんですか?」
茅野さんの問いに三星さんは迷うことなく頷いた。
「お姉様ーーこほん。麗さんが望んだことなら」
ううん? 今なんか変な言葉が聞こえてきたような。
「わ、私だって、サラさんが望むのならいくらだってやります!」
茅野さんは胸の前で両拳を握る。
その考えを今まで口にしなかったのは怖かったからだ。
今だって、まだ怖い。
でも、私の予想が当たっているなら、ミキはもっと怖い思いをした筈だ。
私と違って、たった一人で。
向き合う。
あの時は出来なかったこと。
遅すぎるよ。
それでも、まだ。
「茅野さん、三星さん」
ミキも、真実も。
「お願いします」
全てが消えてしまう前に。
イズルの首が落ちる音。
視界の隅では首から上を失った身体が崩れた。
それでも目を離せずにいた。
ドロドロに溶けたミキから。
「お姉ちゃん」と声が聞こえた。どこから発せられているのは分からないけど、確かに。
「そこにいるの?」
ヘドロの塊から何かがこちらに伸びてくる。まるで手探りに私を探すように。
私の身体は金縛りにあったみたいに動いてくれない。
「お姉ちゃん」
少し涙の混ざった声。茅野さんのものとも違う、ミキの声。
そのヘドロが私の胸に触れた瞬間、身体が動いた。一歩後退。それだけで転んで、尻餅をついてしまった。「痛っ」と小さく声が漏れる。イズルの身体と首から流れる液体が跳ねて服に付着した。
「お姉ちゃん」
その声は、もう私を呼ぶものではなかった。存在を認識して、まるで安堵するような声。
「よかっーーーー」
不意に言葉が途切れた。
数秒間の沈黙の後、ミキは苦しそうな叫び声をあげた。ウネウネとヘドロが蠢く。
私は何も出来ずにいた。
そして、その声が殆ど獣のものに変わった時、地面に両手をつき、立ち上がりながらその場から逃げ出した。




