真 ーウソー 6
朝起きてスマホでニュースを検索して、昨日の記憶が夢じゃないことを確認した。
奈緒が死んでしまった。
悲しい気持ちはある。
でも、涙が流れるほどじゃあなかった。
そして、一度その事実を受け入れてしまえば、奈緒よりも川那子さんのことが頭に浮かんだ。
私はいつからこんな薄情な人間になったのだろう。
でも、なんとかしたいという気持ちの方が強い。川那子さんが腐ってしまう前に。
そうは言っても思い付く術など対カフカ部隊に入ってもらうことくらいしかない。そうすれば嫌がらせはピタッと止まるはず。でもこれに関しては望み薄だ。扇野支部の隊長さんが熱心に勧誘しているという噂は何度も耳にしている。
私が何かやったところで変わるとは思えない。
何も変えられないまま生きていくしかない。
そう思っていた。
何もかもが変わってしまう、その日まで。
負の感情を吸収する方法を理解していた。
寝て起きた。たったそれだけの間に。
ベッドから降り、スタンドミラーの前に立って、顔をずいっと近付ける。
赤い瞳。
驚きはなかった。やっぱり、という感じ。
悲観もしなかった。本心から、これでいいって思った。
望んでいたのかもしれない。こうなることを。
同じ立場になれば、私にも出来ることが見付かる気がしたから。
家と中学校と訓練校の距離はそれほど遠くはないけど、やっぱり、朝に家をでて中学校へ、放課後に訓練校へ、そして夜に家へ帰宅という生活は大変だということで、平日は訓練校の寮に泊まり、休日の夜は家に帰ることになった。
訓練校初日は、学校帰りということもあって施設内の案内だけで終わった。寮は班の三人で一部屋。狭い室内に二段ベッドとシングルベッドが置かれているため、行動できるスペースはかなり限られている。ほとんど眠るためだけの部屋だ。
風習で、シングルベッドを使うのは班長だと決まっているらしく、私は二段ベッドの上になった。
暗くなった部屋で天井を見上げる。
これからのことを考えようとしたのに、ふと、徒花になった私を見たときのお母さんの顔が脳裏をよぎった。
『どうするの?』とお母さんは言った。対カフカ部隊に入ると言うと『そう』とだけ返ってきた。心なしか小さな声だった。瀬李奈のハの字眉を思い出すと、ようやく回顧の時間は終わった。すっきりした頭で先程のことを思い出す。
案内を終えた先生に『何か質問はありますか?』と訊かれて、私は『扇野支部への見学はいつありますか』と言った。
『支部に興味が? えぇと、次は一ヶ月後ですね』
一ヶ月。ちょっと遠いけど仕方ない。いくら訓練生でも支部の敷地に許可なく入ることは出来ないから。
訓練校の生活は予想していたより大変ではなかった。
朝の五時に起床。すぐに着替えて班毎に点呼。戦花と双花は勝ち抜きの擬戦。その間、吸花は朝食の準備などの家事全般を分担して行っているらしい。
私の戦闘能力はとても低い方らしくて、擬戦では大体一回で負けてしまって、運良く(相手が連戦で疲労困憊だったりで)勝ち抜いても、その次の戦いではあっという間に負けてしまうのだった。
擬戦後に朝食。学生組がちょっと慌ただしくなるのに反して、社会人組の人達はのんびりとしたものだ。私は学生組だからよく知らないけど、私達がいない間は訓練も軽くしか行われないらしい。
普通に学校へ行って、一般人の友達とかクラスメートに訓練校のことを訊かれたりしながら過ごして放課後、訓練校に戻るとしばらくは自由時間。六時から、ランダムに選ばれた相手と擬戦。それを七時まで繰り返して終了。その後、夕食、入浴となり、九時に就寝。でも夜更かししなければ起きていても問題ないので、誰も十一時くらいまで読書とか雑談をしている。
そんな日常に慣れ始めた頃には一ヶ月が経っていた。
日曜日。扇野支部へ見学に行く日。
普段は誰も着ない制服をその日だけは全員着用して、朝の七時に訓練校を出発した。座席で揺られること二十分。バスは扇野支部のゲートで手続きを終えて敷地内に進入した。
朝早い時間のせいか敷地内に人影はほとんどない。起床時間とか決まってないからのんびり眠れるんだろうなぁ。昼まで寝る人とかいるのかな。まぁ流石にそれはないよね。
支部の玄関前でバスは止まり、指示に従って降車していく。類家千香隊長が出迎えてくれるかもと考えていたけど、私達以外に人はいなかった。ベテラン徒花には会える確率も高い(戦闘訓練の指導はベテランの徒花が順番で担当している)けど、隊長ともなると訓練校に来ている暇もないらしい。知ってるのは顔だけ。
支部内、訓練所をゆっくりと回った。厚生棟と寮は前を通っただけで、どうやら中には入れないようだった。
見学の間、ずっと周囲を気にしていたけど、類家隊長の姿は見当たらなかった。通りすがりの事務員さんにこっそり訊いてみると、今日は一日中外出することになっているらしい。
運が悪い。次の見学はいつになるんだろう。実力でここにくるのは、少なくとも戦闘員の枠じゃあ難しそうだし、じゃあ吸花として自分が優れているかというとそうでもない。
期待していた収穫は何一つないまま見学は終了して帰路についた。今日は訓練もないため、寮に帰ったら半日間は自由時間だ。私は昼から実家に帰って、明日はそのまま学校へ行くことになっている。
訓練校に到着して解散となった後は、自室に戻って制服から私服に着替えた。と、その時、スマホが小さく鳴った。手にとって画面を見ると『流華』の文字。
「もしもし?」
『あ、ちなみん、見学終わった? ていうことだよね、電話出たってことは』
「うん」
『今からお昼食べに行くんだけど、ちなみんも一緒に行かない? 最近オープンしたばっかりのお店だよ! しかも奢り!』
「えっと、ごめんね。多分、家でお昼用意してくれてると思うから……」
『あー、そっか。しょうがないね。出来立て奢りイタリアンもお袋の味にはかなわないもん』
「ごめんね。えっと、奢りって誰の? 流華?」
『まっさかー』流華はあははと大きく笑う。まぁ違うだろうなとは思ってたけど。でも、他の二人もちょっと想像しにくい。
『たいちょーだよ、たいちょー。さっき買い物してたら偶然会ったの』
「たいちょう、って……」
『アラサー類家千香たいちょー』
『異名のように言うな』
「行く」
『え?』
「今すぐ行く。なんていうお店?」
『えっとねーーーー』
通話を終えた後、スマホのナビアプリに店名を入力してルート検索を行った。街中にあるお店らしい。駅はちょっと遠い。あ、でもバスならーーいや、タクシーで行こう。モタモタしていて隊長が先に帰ってしまったら悔やんでも悔やみきれない。
自室の窓から飛び降りて着地。出入り口に向かって駆け出した。訓練校の敷地外でもこうやって走れたらいいんだけど、緊急時以外に公共の場で徒花としての力を使うことは禁じられている。こんな勢いで外を走ったら、どこかでカフカが出現したと勘違いした一般人で大混乱が発生することだろう。
出入り口で急ブレーキをかけて、検問所のお姉さんに外出・外泊許可証を見せる。毎週家に帰っているから、お姉さんも慣れた様子ですぐに「どうぞ」と言った。
訓練校の前にタクシーが数台停まっていた。そのうちの一台に乗って、お店の名前を言う。オープンしたばっかりということもあって、運転手のおじさんはそのお店を知らなかったけど、スマホのマップを見せると「あぁ、あそこらへんね」と言って発進した。
「い、急ぎでお願いします」
「なんだい、彼氏とデートかい?」
「ち、違います」
運転手さんは「はっは」と笑う。
車窓から見える景色の流れが少しだけ速くなった。
お母さんに『帰るのが遅くなります』とメールをするとすぐに返ってきた。
『夕御飯までには帰ってくる?』
『うん』
『了解』という二文字の後ろに付いている、敬礼の絵文字。あぁ、お母さんは手が離せなくて瀬李奈が代わりに打ってるのかな。
十数分で目的地が見えてきた。電話では流華達も『これから向かう』と言っていたけど、近くにいたのか、既に店の前に立っていた。窓越しに目があって軽く手を振り合う。
料金を払ってタクシーを降りると流華が駆け寄ってきた。その後ろに、莉乃、真奈、そして類家隊長が続く。隊長は制服の上着を脱いでいて、シャツにスカートという姿。それ以外の三人は私服だった。
軽く挨拶を交わしてから早速店内へ。お洒落でどこか大人っぽい感じのする雰囲気。学生より大人の女性に人気が出そう。実際、隊長や、同年代と比べると美人で大人っぽい莉乃はお店の雰囲気にマッチしていた。
五人のうち三人も有名人がいると、食事中も常に注目され続けていた。流華と莉乃は気にする様子もなくいつも通りで、隊長は自分から口を開くことなく基本的に黙々と食事を進めていた。他のお客さんの目を気にしているのか、それともこれが素なのだろうか。そんなことを考えていたせいもあって隊長のことをチラチラ見ていたけど、目が合うことは一度もなかった。訓練生なんかには興味がないのかもしれない。そして私も人見知り発動中だった。
食事を終えて店を出ると、隊長が「暗くなる前に帰宅するように」と言って踵を返した。駐車場に停まっていた平べったくて厳つい感じの車は隊長のものだったらしい。
慌てて呼び止めようとする前に、その顔が振り向いて、初めて私を真っ直ぐに見た。その眼圧に思わず怯んでしまう。
「家近君、だったか。君はこれからどうするんだ?」
「え? えっと……」
「実家に帰るのなら送っていくが」
それは願ってもない申し出だった。「お、お願いします!」と返すと隊長は頷いた。
慌てて駆け寄り、自動でドアが開いた助手席に乗り込む。
ドアが上に開くタイプの車を見たのは初めてだった。当然、乗るのも。
発進。来たときと同じように、車窓越しに流華達と手を振りあってから前に向き直る。
「ナビの使い方は分かるか?」
「え? えっと、多分できます」
「スマホと同じようなものだ。目的地を入力してくれ」
頷き、カーナビに手を伸ばして指先で操作する。
「すまないが、前に会ったことがあったか?」
隊長は急にそう言った。
「い、いえ、多分、ないと思います」
「そうか。食事中、妙に君からの視線を感じたのでな」
気付かれていた。目的地を設定して手を引く。
「何か私に言いたいことが?」
「い、いえ!」と反射的に否定してしまった。「あっ、いえ」ともう一度否定する。隊長は難しげな表情になった。「あります。言いたいこと」
「部隊のことか訓練校のことか、それとも戸舞班に関することか?」
戸舞班? なんで選択肢のなかにそれが入るのだろうと疑問に思いながらも首を横に振る。
「川那子さんのことです。川那子サラさんの」
「ほう?」
隊長の声は警戒するようなものから興味深そうなものへ変わった。
「どうして君がーーといっても不思議ではないか。彼女の名前はこの辺じゃあ有名だ。それで、彼女の話というのは?」
「川那子さんを勧誘しているという話は本当ですか?」
「あぁ。と言ってもほとんど門前払いでな。本人には一度も会えていないし、会ったところで勧誘に応じてくれる可能性は低いな」
「どうしてですか?」予想はついていたけど敢えて問う。
「彼女の過去を知っているか?」
「妹さんがカフカになってーーという話なら」
「そうだ。彼女はあの日から一歩も外に出ることなく過ごしている。父親の話から、今の状態も推測できる。とっくに腐っていてもおかしくない、むしろ腐っていないことが不思議な状態だとな」
「いつ腐ってもおかしくないっていうことですか?」
「もちろん、その可能性もある。だが五年間も腐らずに過ごしたことを考えると、心を殺しているーーいや、意識してのことではないだろうから、死んでいるという方が正しいか」
「心が死んでる」
「あぁ。そんな相手を勧誘して頷くと思うか? そして、仮に頷いたとしても、戦場に出すことなどとてもではないが出来ない」
「でも隊長は勧誘を続けているんですよね」
一瞬の間が開いてから隊長は頷く。
「川那子家の現状は知っているだろう。例え彼女がどんな状態であろうと、対カフカ部隊に、訓練校に入れることさえ出来れば、状況は改善されるはずだ。カフカの討伐経験がある彼女には部隊に入ってもらいたいんだが……、まぁそこまでの欲は出すまい」
「かたちだけでも訓練校在籍にするとかは……」
「それは出来ない。特例を認めれば、内外問わず不満、あるいは同じ扱いを求める声があがるようになる。訓練校に在籍して訓練を受ける。こちらとしてもそれが最低限の条件なんだ。彼女の場合、徒花であることが周知された理由が理由だけになんとかしたい気持ちは個人的にあるんだがな」
隊長は小さく息を吐いてから「それで」と続けた。
「どうして君は川那子サラのことを気にしているんだ? 様子からして、ただの興味本意というわけでもなさそうだ」
「五年前、川那子さんに助けてもらったのが私の妹なんです」
隊長の表情が僅かに固くなった気がした。表に出そうになった感情を押さえ込むみたいに。
「なるほど。どうりで家近という名字に聞き覚えがあるはずだ。あの時の子の名前は確かーーセリナだったか」
「はい」
「元気に暮らしているのか」
「はい」
「それはよかった」
隊長の口許に笑みが浮かぶ。
走行音。
「それなら君が彼女を気にかけるのも分かる。だが、現状は先程話した通りだ。こちらとしては出来る限りの譲歩はしている。後は川那子サラ本人と彼女の父親が変わってくれるのを待つしかない」
「無理やり状況を変えてみるとかは」
「君は見掛けによらず大胆な提案をするんだな。だが駄目だ。徒花の対カフカ部隊入隊は建前上義務ではないし、下手に強行をすれば人権団体から猛抗議が寄せられる」
「でもその人達は川那子さんを助けてはくれません」
「あぁ、その通りだ」
どこかわざとらしい、軽い感じの肯定。
「それに、過去の例を見るにーーこれは当然人間としての例だがーー心が死んでいる、精神的に強いショックを受けて自失状態に陥るということは珍しいことではない。大抵の場合、そこからいくつかのプロセスを経て快復の兆しが見えてくるのだが、彼女の場合はプロセスの途中で停滞している。経過時間を考えれば、固定されていると考えた方がいいだろう。こうなると厄介だ。少し状況が変わった程度では何の効果も生み出さない。何年もの月日をかけて、ようやく微細な変化が表れるか、といったところだ。だが、いくら心が死んでいるといっても、彼女にそこまでの時間が残されているとは考えにくい」
「でも、心が固定されているなら自分で変わることはもっと難しいんじゃ……」
「あぁ。だからこそ父親の協力が欲しいところなんだが、現状では難しいだろう。『娘をこれ以上苦しめたくはない』。あの父親は父親なりに子供を守っているんだ。自分がいくら世間から蔑まれても」
父親。お父さん。私のお父さんは、私が開花した時も、週末に帰ったときも、家にはいなかった。でもたまにメールをする。寮暮らしはどうだ、とか。不便はないか、とか。
なにも言えないまま、ナビが目的地の到着を告げた。
「到着だ」と隊長の声。ドアが自動で開く。
降りなきゃ、という思いに反して身体は動かない。
「あの」
「なんだ?」
「そういう人達ーー自失状態になってしまった人を治すことは出来ないんでしょうか」
「治療法ならある。だが、どれも時間がかかる上に、私達が徒花ーー意識のみで存在している人間だということを考えると、投薬などの効果は期待できないだろうな」
「そうですか……」
頭を下げて車から降りる。もう一度ちゃんとお辞儀をしようと踵を返した。隊長の真っ直ぐな目。思わず言葉を飲み込み、動きを止めてしまうくらい。
「一つだけ。個人的に効果を期待している治療法がある」
「本当ですか?」
「あぁ。患者の精神、あるいは肉体に強い刺激を与えて治療をはかる、ショック療法だ。君も聞いたことくらいはあるんじゃないか?」
「はい」と頷く。
「だが、肝心の刺激を与える方法が思い付かない。妹や幼馴染、母親の写真を見せるということも考えたが、彼女の家の玄関に家族四人の写真が飾られていたことを考えると効果は低いだろう」
ショックを与える方法……。その場で考えてみるが、いい案は浮かばない。そうしている間に、目の前に一枚のメモ用紙が差し出された。
「私の連絡先だ。何かいい案があれば教えてほしい」
「は、はい!」
受け取って、一歩下がる。ドアが閉じると、すぐに車は走り去った。別れの挨拶みたいに、左右のランプがチカチカと光る。
あ、結局、お礼を言えなかった。
少し後悔しながら振り返ると、玄関ドアが少し開いて、そこから瀬李奈が顔を覗かせていた。
「せ、瀬李奈、何やってるの?」
「怖い車が来たから、怖い人が来たのかと思った」
ドアを開きながら瀬李奈は言う。
「扇野支部の隊長さんだよ。送ってくれたの」
「ふぅん」
そう言って背中を向ける妹を見る。
もし、本当にもしも、瀬李奈がカフカになって、私の幼馴染を殺してしまったとして。
それで私が塞ぎ込んでしまったとして。
その時、何が起きたら一番ショックだろうか。
心が動き出すだろうか。
答えは自然と出た。
妹が目の前に現れたら。
きっと。
抱いている想いが、親愛であろうと。
殺意であろうと。
見つけた。
私が出来ること。




