真 ーウソー 2
それから卒業までの半月は由美子さんの家にお世話になって、卒業と同時に地元へと戻った。電車の中で卒業アルバムの寄せ書き欄を見て涙ぐんでいたら、目的駅をスルーしてしまいそうになった。
家は殆ど記憶通りだったけど、庭が少しだけ荒れているように感じた。
チャイムを押す。インターホンから「はい」というお母さんの声。優しげ。なんというべきかな。ただいま、は少し馴れ馴れしいかな。
「ち、千奈美です」
「あぁ、鍵を渡してなかったわね」
トーンの下がった声。ガチャ、と受話器を置く音に続いて、家の中から足音が聞こえてきた。かちゃりと鍵が開く。ドアは開けてくれないらしい。
自分で開けると、既にお母さんは背を向けてリビングに戻ろうとしていた。懐かしい匂い。何故か涙が出そうになった。刺激臭なわけじゃないのに。
「あの、た、ただいーー」
「運が良かったわね。ちょうど今から出掛けるところだったのよ。あと三分遅かったら、寒いなか家の前で待ち惚けするはめになってたわよ」
それは寂しい。
「どこに行くの?」
お母さんを追ってリビングに入ってから問う。まだそんなに遅い時間ではないとはいえ外は暗い。お母さんは私に目を向けることなく、コートを羽織り、バッグを手に取る。
「瀬李奈を迎えに。友達の家に遊びに行ってるのよ」
「そ、そうなんだ」
少し油断していた。でも、妹の名前に怯んでしまうなんて。
「夕御飯、もう作ってあるから、食べたかったら先に食べてて良いわよ。部屋は昔のままだから」
それだけ言って、お母さんはリビングから出ていこうとする。
「うん、分かった。あの、いってらっーー」
パタンと、廊下への扉が閉まった。
期待しすぎかな。でも、お祖母ちゃん家に行く前よりかは普通に話せてる。
荷物を置いてこようとリビングを出て階段を上る。二階の廊下は左右に別れていて、向かって右には妹の部屋と両親の寝室の扉が向かい合わせにある。そして左の突き当たりにある一室が私の部屋。だった場所。
ノブを下げてドアを引く。本当に昔のままだった。泣く泣く置いていった大きなテディベアもベッドの枕元に座っている。荷物をドアの横に置いて、ベッドに寝転がった。頭の方に両手を伸ばしてテディベアを胸に抱く。なんか、良い匂いがした。
そういえば、と上体を起こして部屋を見回した。
ベッドを叩いてみる。降りて、本棚、窓枠、学習机に人差し指を這わしていく。
埃一つない。
掃除してくれたんだ。
あ、でももしかしたら、ただ単に家のなかに汚い場所があるっていうのが嫌だっただけかも。潔癖症ってほどじゃないけど、お母さんはきちっとしてるタイプだから。
もう一度上体を倒して天井を見る。
瀬李奈の歳は私の一つ下で、今は五年生。あ、でもあの頃と同じ学校に通ってるのかな? 片腕がない人は、そういう、障害者学校? に通ってるんじゃ……。でもここら辺にそんな学校あったっけ? あ、でもお母さんが送り迎えしてるっていうことはその可能性も……。でもそんなこと訊けないし……。義手とか着けてるのかな……。
うん?
目を開けて上体を起こすと掛け布団が身体を滑り落ちた。窓からは日が差している。
あれ?
掛け時計を確認。七時。夜じゃない。朝。
テディベアを抱きながら悶々としている間に眠ってしまったらしい。
なんということでしょう。せっかく作ってくれた夕飯を食べずに寝てしまうなんて。しかも復帰初日から。あぁしかも服もそのまんまだ。起こしてくれてもいいのに。
着替えてから部屋を出る。足音を立てないように階段を降りてリビングに入ると、瀬李奈といきなり目が合った。
相変わらず可愛い顔立ちをしている。無表情でもそう思えるのはすごいんじゃないかな。妹補正+嫉妬による逆補正でプラマイゼロ。客観的に見れてる自信はある。
「お、おはよう」
「はよ」
すごい小声で返してくれた。
向かいの席に座る。
「ひ、久し振りだね」
「ん」
瀬李奈はトーストにマーガリンを塗っている。使っているのは左手。随分と手慣れた様子だった。三年前は一つ一つの動作が上手く出来ずに、苛立って、泣いていたのに。そんなとき、代わりにやろうとして余計に怒らせてしまったこともあった。
「トーストでいい?」
キッチンから聞こえてきた声。顔をむけるとカウンターの向こうにお母さんが立っていた。
「うん」と頷いてから、その問いの内容に頭が追い付いた。お祖母ちゃんはご飯派だったから朝のトーストは久し振りだ。
「あの、お父さんは? もう仕事に行ったの?」
どちらにでもなく訊く。
「泊まりの仕事。帰ってくるのは三日に一回くらい」
瀬李奈は答えてからトーストをかじる。マーガリンをたっぷり、ジャムを少な目に塗る食べ方は変わっていなかった。
「後で瀬李奈を学校に送りに行くから」キッチンから再びお母さんの声。カウンターに姿はない。うん、と返事をする前に「千奈美も一緒に来なさい」と言われた。
「この町も色々と変わったし、中学校までの道も分からないでしょう」
「うん」と頷く。
返事はなかった。瀬李奈もどうでもよさそうに朝のニュースも見ながら、またパンをかじった。
それから、中学校に入学するまでの約三週間、お母さんと瀬李奈はずっとそんな感じだった。話し掛けたら返事はあるけど、会話が弾むことはない。一緒に笑うのはテレビを見てるときくらい。でもそれは、お母さんと瀬李奈の間でも同じようだった。
仕事が忙しいらしいお父さんとは、私が家に戻った二日後に再会した。そろそろ寝ようとリビングを出た時、帰宅したお父さんと鉢合わせするかたちになったのだ。お父さんは驚いた様子もなく口元に笑みを浮かべて「ただいま」と言った。三年間会っていなかったことを抜いても久し振りに見る表情に驚きながらも喜びの感情が沸々と沸き上がってきて、私も笑顔で「おかえり」と返した。翌朝七時に起きた時には、もうお父さんは出掛けていた。それからは、私が寝ている間に帰って、起きる前に出掛けているらしく、一度も顔を合わせていない。
進学先は普通の公立校だけど徒花を受け入れていた数少ない学校で、数人の徒花ーー特に戸舞流華さんと紋水寺莉乃さんの入学が決まっていたから、世間から注目を集めていた。
入学式にはテレビカメラマンが来てたし、その様子も夕方のニュースで映った。後から友達に聞いた話だと、私もほんの少しだけ映っていたらしい。あと、お母さんも少しだけ。
戸舞さん、紋水寺さん、それから二人と班を組んでる佐貫さんと同じクラスになった。席替えの結果、戸舞さんと隣同士になってしまって慌てたけど、テレビで見た通り明るくて可愛らしい人で、すぐ仲良くなった。
それから半年くらい経ち、戸舞さん繋がりで他の二人とも普通に喋れるようになった頃。
瀬李奈を助けてくれた徒花の現在を知ることになった。
それは、音楽室へ向かいながら戸舞さん達と交わしたなんてことない話だった。
「でも千奈美とこんな風に仲良くなれたのは意外だったなぁ」
そう言ったのは佐貫さんだった。短髪で、外見も喋り方もボーイッシュな感じの人。あと声も低めでカッコいい。
「あー確かにそうかもー」と同意したのは戸舞さんだった。
「えー? なんで?」
「だって、臆病そう……じゃなくて、怖がり……、うーん……。あ、私達のこと怖がりそうな雰囲気だし」
「た、確かに臆病だし怖がりですけど……」
「ごめんごめんって」佐貫さんは眉尻を下げて笑いながら、両手を合わせた。
でもまぁ確かに、入学した頃の徒花の人達は避けられ気味だった。その理由を突き詰めたらそういう気持ちに行き着くのかもしれない。避けられている理由なんて私は今まで考えもしなかったけど、徒花の人達には考える機会がたくさんあったんだろう。
私だって恐怖がまったくないわけじゃない。でも、そういう時に思い出すのは瀬李奈を助けてくれた女の子のことだった。私と瀬李奈を見て悲しい顔をしていた。
徒花の人と話していて、ちょっとしたことで恐怖を感じて、そしてあの表情を思い出す度、私は目の前の誰かを抱き締めたくなる。行動に移さないのは、それが自己満足だと分かっているからだ。
「あ、もしかして知り合いに徒花がいるの? 親戚とか、昔の友達とか」
「ううん」と戸舞さんの問いに首と手を振る。そしてちょっと考えた後、昔のことを話した。この世界にカフカや徒花が現れたあの日、妹がカフカに襲われたこと。それを徒花の女の子が助けてくれたこと。
話し終えた時、ちょうどよく音楽室に着いた。授業が終わって、教室に帰る時も四人一緒だったけど、紋水寺さんと佐貫さんの様子がどこかおかしいように見えた。
そして放課後。
紋水寺さんと私。
二人きりの教室で、そのことを聞いた。
瀬李奈を助けてくれた女の子の名前は川那子沙良さん。歳は私の一つ上。今でも扇野市内に住んでいる。でも、対カフカ部隊には所属していない。瀬李奈を助けてくれた時の動画がネット上に拡散し、この辺で川那子さんが徒花だと知らない人はいない。
「対カフカ部隊に所属していない徒花がどういう扱いを受けるか知ってる?」
紋水寺さんはいつもどおりの淡々とした口調で言った。それなのに、何故か責められているみたいに感じた。
駅で電車に乗った。目的地は二つ隣の町。あの日は、車窓の向こうに流れる景色を瀬李奈と二人で眺めていた。そう。瀬李奈が『トイレに行きたい』って言い出したんだ。
目的駅に到着する。電車を降りて階段を下ると広い踊り場に出る。そこにはトイレがあって、瀬李奈はここに駆け込んでいった。私は、その横にある掲示板に背をもたれて立っていた。
そして、悲鳴が聞こえたんだ。改札の向こう側で人の流れが一気に加速して、出口はたくさんあるのに、みんなが同じ方向に行こうとしていた。
急に騒がしくなった理由も、大人が顔をひきつらせて何かから逃げようとしている理由も分からないまま、私の中には焦りだけが募っていった。
トイレを覗き込んで「ねぇ、まだ?」と聞くと「もうちょっと待って」という声が返ってきた。もう一度改札前の、そして感化されるように騒がしくなり始めた周囲の大人達を見て、私は、トイレの中に向かって言った。
「先に外に行ってるからね!」
「えぇー。待っててよぉ」
その声は確かに聞こえていた。
聞こえていたけど。
階段を降りて改札を通る。あの時、人が流れていった方向へ向かう。
南口から出る。ここで待ってなきゃ、と思って、私は足を止めた。でも、知らないおばさんが、多分善意で、私の手を掴んで引いてくれた。そして駅から離れた時、すごい音と一層大きな叫び声に振り返ると、南出入り口の前にカフカがいた。
怖かった。ただそれだけで逃げ出した。
駅から歩いて二十分くらいの場所に、川那子さんの家はあった。表札は出ていなかったけどすぐに分かった。車のボンネットに、黄色いスプレーで『アダバナのクルマ』と落書きされていたから。
家の壁にところどころついている、何かが弾けたような汚れ。多分、泥の塊とかの痕だろう。
二階を見上げると、段ボールで塞がれた窓が見えた。あそこが川那子さんの私室なのだろうか。
三年前のあの日以来、川那子さんは家から出てきていないらしい。妹とお母さん、仲の良かった友達が目の前で亡くなったことによるショックだろうとのことだった。それも噂になっているのに、戦えと人々は言う。一般人もカフカになるということが証明されて尚、当然のように徒花の人達を戦わせている。お祖母ちゃんはこうなることが分かっていたんだろうか。世界のどこかで、こんな目にあう人が現れてしまうっていうことを。
家に帰るのが遅くなってお母さんに怒られた。瀬李奈が「そんなに心配ならお姉にもスマホ買ってあげればいいのに」とボソッと言って、一緒に怒られるはめになった。でも次の休日にスマホを買ってくれるらしい。
お母さんの怒りが収まった後はいつもどおりの静かな夕食に戻った。カチャカチャとなる食器。テレビから聞こえる笑い声。
お母さんも瀬李奈も、カフカや徒花について何も言わない。テレビでその話題が出るとチャンネルを変えるし、当然、私のクラスメートについてもノーコメント。奈緒との文通では戸舞さん達の話ですごく盛り上がるのに。
でもそれは三年前のことを考えれば当然。
そう思っていたけど、それだけじゃあないのかもしれない。
自分のことを、または自分の娘のことを助けてくれた人が、今、どういう状況に置かれているのか。ずっとここに住んでいた二人が知らないはずはない。お母さんも瀬李奈も、川那子さんに感謝している。それは間違いない筈。
だけど、何も出来ずにいる。世の中に流されて。
あの時、瀬李奈のことを助けなければ、川那子さんが徒花だと知れ渡ることはなく、酷い現実に追い討ちをかけられるようなこともなかっただろう。
その事実が、たった一つ出来ること、感謝すらをも、困難なものにしている。
言えるわけない。
今の川那子さんに、ありがとうなんて。




