カフカ ーアイー 2
何故カフカは人を襲うのだろう。
近頃、夜になるとそんなことを考える。犬や狐といった獣、野鳩や雀といった鳥類に殺意を抱くことは全くない。木の実や果物なんかを分け与えて一緒に食べることもあるくらいだ。
人だけ。人を目の前にすると、カフカは悪魔に変わる。一般的な人でいうゴキブリを前にしたときのような、不快感からくる嫌悪ではない。
憎悪。一番近い言葉はこれだろうか。もちろん私が無知なだけで、もっと適したものがあるのかもしれないけれど。
カフカは人の何を憎んでいるのか。八つ裂きにしてもしたりないほどの憎しみとは、いったいなんなのだろう。
不意に声が聞こえた。人の声だった。
赤ん坊の泣き声。
この場合はどうするべきなのだろう。
泣き声が聞こえてくる方角を見据えたまま数秒間思考を巡らせた後、ポケットからスマートフォンを取り出して梅長さんに電話を掛けた。迷うようなら指示をあおぐ。車の中で言われたことだった。
梅長さんはすぐに出た。そしてそれと同時に泣き声が止む。
『どうした?』
「赤ん坊の泣き声が聞こえた。今は泣き止んだみたいだけど」
『なんだって? あんな小さな子が生きている筈はーーーーサラ』
不意に声が途切れたかと思うと、梅長さんは早口で私の名前を呼んだ。
『今すぐそこから離れな。赤ん坊が生きているかは置いておくとして、その泣き声自体がカフカの罠の可能性がある』
『なるほど』言いながら周囲に目を走らせる。野鳥の鳴き声。風で枝葉が触れあう音。
『麓で集合しよう』
『了解』
電話を切ってポケットに入れながら地面を蹴った。追跡されている気配は感じないとはいえ、今までカフカとは正面からの戦いしかしてこなかった。経験不足の自覚がある以上、気付けていないだけという可能性は捨てきれない。
地面を強く蹴って高く跳び上がった。太い枝を足場に、更に、木々より高く跳ぶ。未だに不慣れながら宙に足場を作りながら空を跳んでいく。やはり追い掛けてくる気配はない。まぁ頭がいいなら、ここまで追い掛けたら気付かれるって分かるか。
障害物のない空を全速力で駆けていく。仮に追われていたとしても、これなら追い付かれることはない。多分。
徒花は人か否か。それは、見る者によって答えが変わってくると思う。
人間は、徒花は人だと答える。少なくとも、割合的にはそちらが多いはずだ。
一方、カフカは、徒花は自分達の仲間だと本能で認識している。彼等が話すことが出来れば、間違いなく、全個体がそう答えるだろう。
では動物はどうだろう。手話で意志疎通が出来るゴリラがいるという話を聞いたことがある。彼女に聞いてみたいものだ。徒花は人か、カフカか、あるいは、どちらでもないのか。
カフカは人に対して憎悪を抱いているというのが私の考えだった。しかし、それはどうやら間違いらしい。カフカは、人の持つーーそれも、誰もが持っているとは限らない『何か』に対して深い憎悪を覚え、牙を剥いているのだ。
それが何なのか調べ、考えることが、これからの暇潰しとなりそうだった。もっとも、暇な時間などあまりないのが現状だけれど。
集合場所に着いて五分ほど待つと、梅長さんと茅野さんが戻ってきた。茅野さんは私のことを心配してくれていたらしく、顔を会わせた途端安堵の表情を浮かべた。徒花でこういう人は珍しい気がする。
泣き声が聞こえてきた時の状況を説明した後、その場所へ三人で行くことになった。
「すぐに連絡をしたのは良い判断だよ」
駆けながら梅長さんがそう言った。褒められているというのはなんとなく分かったけど、なんて返せばいいのかは分からなかったので、とりあえず頷いておいた。梅長さんはそんな内心を見透かしたように笑った。
『何か』を持たない人間に対してカフカはどういった反応をするのか。おそらく、何もしない。カフカ同士と言わずとも、他の動物に向ける程度の穏やかさーー優しさで接するのだと思う。
では、カフカと人間が仲良く食事ーー流石に人が人を食べるわけはないから、果物で想像しようーーをしていたとして、目の前の人間が突然その『何か』をーー私はこれを外見的なものではなく内面的なものだと考えているーー抱いたとする。
カフカはどういう反応をするだろう。
戸惑うのか、躊躇なく悪魔になるのか。
私は、後者だと思う。
あれは、優しさや親しみ程度で抑えられるほど容易いものではない。
では、愛情ならどうだろう。
そんな思考は、一秒で打ち切った。くだらない。愛情にそんな力がある筈がない。優しさより、親しみより、憎しみより、そしてカフカが憎悪する『何か』より、ずっと曖昧なのが愛情だ。
そんな不明瞭なものに、人は名称を付けるべきではなかった。無理に名付けたから、愛こそ全てなどという妄言達が世には溢れ返ってしまった。
名前など必要ない。
ただそこにあって、感じられるだけでよかった。
さっきの場所に戻っても辺りは静かなままだった。泣き声が聞こえてきた方向に歩き出す。梅長さんが先頭。茅野さんが真ん中。私は殿。
あのときの泣き声は、さほど離れた場所から聞こえていたように思う。一瞬後、近くの茂みからカフカが飛び出してきてもおかしくない。
自然と足取りは慎重になる。
不意に、白が。
自然では絶対に見られないような、人工的な白が視界の隅で踊った。
素早く顔を向けて、一瞬、脱力した。
木の枝に引っ掛かったビニール袋が風で揺れていた。スーパーの袋だ。確かこの山の近くにある。捜索隊が捨てていったのだろうか。
「こんな森のなかで赤ちゃんが四日も生きているなんて有り得るんでしょうか」
袋を見ながら茅野さんが言った。
「自力じゃあ不可能だね」梅長さんは断言する。「本当に生きていて、元気に泣けるほどの体力があるのだとしたら、まず、面倒を見ている第三者の存在が大前提になる」
「罠かもしれないって思ったってことは、徒花を誘き寄せるためにカフカが生かしている可能性があるってこと?」
「その可能性も頭に浮かんでいたけど、冷静に考えるとあり得ないだろうね。人間への、本能的な破壊衝動を抑えられるカフカはいないはずだ。いくら知能が高かろうとさ」
「死んでる場合っていうのは?」
「カフカが赤ん坊の存在を知っているなら、声を真似ることも思い付くだろうね」
「人型?」
「可能性はある。でも、可能性というなら、動物型のカフカも人語を理解出来るかもしれない。まぁあまり先入観に囚われないほうがいいよ」
梅長さんはそう言ってから再び歩き出す。
大分、山の奥にまできた。捜索隊もここまではやってこなかったのではないだろうか。
不意に、進行が止まった。先頭では梅長さんが片手を頭の横に上げて止まれの合図を出している。そして振り返ると、小さな声で言った。
「洞窟がある」
その男と鉢合わせたのは、赤ん坊と別れてから数分後だった。
完全に警戒を怠っていた。上の空だった。
驚きも冷めやらぬうちに憎悪が膨れ上がる。
あぁ、何故。
何故こうも、人を醜く感じるのだろう。
あの子とこの男で、何が違うと言うのだろう。
抑える。憎悪を、破壊衝動を、本能を。
無理だと思っていた。そんなことが出来るのは、出来てしまうのは、人間くらいなものだと。
震える身体で、来た道を指差す。
「この先に、赤ん坊がいる」
「なんだって? あんたは誰だ? 俺と同じボランティアじゃねえのか?」
「私は、違う」
声が震えた。足の裏が地面に張り付いたように動けない。目の前の人間に飛び掛かるなら容易く出来るのに。早く行ってくれ。
「あんた、徒花か。いや、まぁどっちだっていい」
男は笑う。本能を刺激する、下卑た笑みだった。
「森の中で赤ん坊を見つけて放っておいたなんて知られたらどうなるだろうな? あんた次第じゃあ黙っておいてやってもいいけどな」
何が言いたいのか理解できない。否、しないように思考を止めていた。
「早く行け」
両足が動いた。踵を返して歩き出す。全身は未だに震え続けている。理性による、本能への反発は、これほどまでに抵抗があるものなのか。人や徒花は、よく、あれほど。面白い。これについて考察するだけで、また、いい暇潰しになる。
男が動く気配を背中で感じた。
身体に太い両腕が回される。
白衣の内側に侵入し、シャツのボタンを外していく。耳元で短く繰り返される荒い呼吸。全てのボタンを外しきる前に乳房を鷲掴みにする両手。
本当に同じ人間なのだろうか。あの子とこの男は。
あの子も数十年後にはこうなってしまうのだろうか。
なってしまうのだろう。
こんな、醜い、腐った連中に囲まれて育てば、当然。
腐化させた右腕を伸ばし、男の首を後ろから掴んで、そのままへし折った。
「ふゅ」という空気が抜けたような声が耳元で鳴って、両手の動きが止まり、男の身体はゆっくりと崩れ落ちた。
すぐさま駆け出した。ここまでほとんど無意識に歩いてきた。その時間は、おそらく五分ほどだと思う。だが全力で駆けると一分もかからずにもとの場所へ戻ってこられた。
花に囲まれた籠。
そこで、唐突に意識が覚醒した。
泣き声で目を覚ましたわけじゃない。
外に、何かがいる。洞窟の入り口に置いた花の臭いを苦にしない動物が。




