九州飛行機物語 ---勤労動員で働いた---
現在の博多駅付近は人参町と呼ばれ人参畑が広がるのどかな田園地帯
だったようだ。
現在の博多駅筑紫口から東側に50mほど歩くと西原鉄工所という工場が畑の
中にあり、長く兵器の修理や部品製作をしていたので戦争が始まると軍需
工場に指定された。
現在の機械部品はネジとボルトで締め固定する事が一般的であるが、戦前の
日本では穴の空いた鉄板に熱いリベットを差込み、叩いて固定する事が
通常であった。
穴の数だけリベットが必用なので多量のリベットが釜で熱せられている。
強度にによってリベットの大きさが異なり、接着する素材が、鉄、アルミ、
ジュラルミン、銅、真鍮など材質によってリベットの材質も異なる。
リベットをコークスで加熱する釜が工場内にいくつも置かれている。
焼けたリベットが体にあたると火傷になる。焼けたリベットを容器に入れたり
金ハサミで挟んで歩いて現場まで運ぶと冷めてしまうので手早く、投げたり
受け取る職人芸が要求されるのである。
戦争末期になると 工員不足から中学の生徒達が授業の一環(振り替え)として
働く勤労奉仕の制度が始まった。
福岡中学校3年生の山田と田中は昨年から勤労奉仕でこの軍需工場で働いていた。
野球部であったのでコントロール感覚の良さを評価され 焼けたリベットを
投げたり容器で受けたリベットを工員に渡す作業を受け持っていった。
そのため他の生徒達は単純作業をおこなう工程のところに配置されていたが、
山田と田中の二人は職人たちと同様の専門職とみられていた。
主に偵察機の後部旋回機銃の台座を作る作業であったが、ある日 特殊な固定
機銃台座の組立発注があったようだ。担当職人に問うとJ7(ジェイナナ)とよばれる
飛行機の機銃台座であると答えた。
「震電」という名前は初飛行の前後でつけられたもので、「十八試局地戦闘機」
という呼称も海軍や空技廠で開発が始まってから使われた名前なのだ。
製造している現場ではすべてJ7(ジェイナナ)の呼称であった。
九州飛行機香椎工場で作られていた対潜哨戒機「東海」はQ1(キュウーイチ)の
呼称である。
戦後の聞き取り調査で工員が「キューイチ」を作っていましたと答えたのを「
九一式?」と疑問符を付けた文字で書かれた資料をもっているが、調査員が機種の
呼称がアルファベット+数字であった事を調べていないのでは?と推定している。
台座が出来上がると2mを越える大きな機関砲が台座に取り付けられた。30mm
機関砲を4門を装備したJ7の勇姿を想像することは困難であった。
リベット受取担当であった山田は職人のすぐ後ろからリベット渡す瞬間にチラチラと
機関砲の迫力を見るしかなかったが、これが火を噴けばどんな爆撃機でもたまらない
だろうと胸が熱くなっていた。
完成した機銃台座は納品に回されて、山田はいつもの作業に戻った。
戦後 雑誌やプラモデルで自分も製作に関知した機関砲が十八試局地戦闘機[震電」の
武装であったことが分かり誇らしい気分になったようだ。