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この作品は、喜屋武みさき氏の小説『AGENT≠GIRL』(http://ncode.syosetu.com/n6648de/)のスピンオフ、トリビュート作品です。
私にはいくつか名前がある。東堂ヒカルというのが、その中でももっとも名前らしい名前だ。だが、そう呼ばれることよりも〈452〉と呼ばれることのほうが多い。あるいは、「売女」だとか「糞女」だとか呼ばれている。殊にこのヘリオスフィアでは、皆が私のことを忌み嫌うようにして、そう呼ぶ。
あなたは、私のことが嫌いだったかもしれない。
でも、私はあなたのこと、嫌いじゃなかった。
ただ、「好きか?」と問われたら、私はきっと頷けないだろう。
私は東堂ヒカルという。年は覚えていないが、おそらく身長からすれば高校生ぐらいだろう。どうして自分の年齢もわからないのかと言えば、それは私の稀有な生い立ちに由来する。
私は何年か前に、この〈ヘリオスフィア〉に送り込まれた。気づいた時には、ここにいた。絶海の孤島に建てられた、円形の建物。イギリスのバースにはロイヤル・クレセントという場所があるが、それを想像するといい。長く弧を描いたビルが、島の上にぽつんとある。ロイヤル・クレセントという集合住宅の前には、入居者だけが使える庭があるのだが、それが軍事訓練施設に変われば、そこは完璧な〈ヘリオスフィア〉だ。
太陽圏――どうして太陽の周りを漂う荷電粒子の名を付けたのかは知らないが、少なくとも何かしらの意図があってつけたのだろう。だが、ここにいる少女の大半は、その意味を知らない。語句の意味すらも。
ヘリオスフィアの意義。それは、各国の諜報機関、あるいは宗教・政治・経済団体が利用可能な戦闘単位を造り出すこと。そのために世界各地から少女たちが連れ去られ、この島に届けられる。そして幼い頃から、親の愛も自分の名前も知らない少女たちは、殺しのイロハを叩き込まれる。それだけではない。男の落とし方や、情報の盗み方、尾行の撒き方や、秘密の連絡の取り方なども教えられる。いわばここは、極秘のスパイ養成機関であるのだ。
私がなぜここへ連れて来られたのかは、覚えていない。ただ一つ理由があげられるとすれば、それは私に才能があったということだ。この、エージェントという仕事を全うするだけの能力が。
私は〈ヘリオスフィア〉の中でもトップの成績だった。だから私にはいくらでも仕事が回ってきたし、その度に億単位の金が動いた。私という単位を購入するために、それだけの額が動くのだ。私はその度、自らの心臓が脈打つのを隠しきれなかった。興奮を抑えきれなかった。それが嬉しかった。
しかし、優等生というのは疎まれるのが常である。私は任務が終わると、いつも車に乗ってヘリオスフィアへと戻ってくるのだが、ゲートをくぐって兵舎に入るや、楽しいブーイングが歓迎してくれる。私を嫌う女達。ろくな結果も残せない、正真正銘の糞女どもだ。
彼女らは、私に向かってこういった。
「売女!」と。
確かに、私は売女だ。
必要とあれば、何十歳も年上の男とだって寝る。口から水槽みたいな臭いのするオヤジとだってキスしてやる。舌だって入れてやる。アソコだって舐めてやるし、ナカに挿れさせたっていい。だが、私が彼女らと違うのは、私がそうさせて『やっている』という点だ。男に服従してやっているのではない。あくまで命令であるから、仕方なく、そうしてやっているのだ。決定権は、男には無い。最終判決権は私にある。
本当の売女とは、金のために自分の身を切り売りすることを厭わない糞女のことだ。私は違う。私は、自分のカラダがどれだけの値打ちをして、どのタイミングで売るのがベストかを心得ている。
だから、私は言ってやった。
「売女なのは、貴女も同じでしょう?」
それ以降、彼女らは黙りこんで何も言わなかった。ただ道を開けて、私をヘリオスフィアへと招き入れた。
私はここにいる連中が嫌いだ。なぜ嫌いかと言えば、為されるがままにされているからだ。
〈ヘリオスフィア〉の教官に、全身にステロイドを注射しているようなゴリラ女がいるのだが、特に彼女の言うことに反発するような奴はいない。もっと言えば、そのメスゴリラ――私は教官のことを胸のうちではそう言って嘲笑っている――の上司である〈ヘリオスフィア〉の理事会などには、一生頭が上がらないだろう。
だが私は違う。私は、彼らの戦闘単位になってやっているのだ。
そんなある日のこと、クライアントが商品――つまり私達――を買うために、わざわざ〈ヘリオスフィア〉にまで視察に来た。そのとき私は訓練場で銃の訓練をしていたのだが、フェンス越しに背広姿の男たちが見えた。彼らがその視察団だろうと、私にはすぐに分かった。何故なら、この〈ヘリオスフィア〉に男はまったくいないからだ。
私はこの時、ある意味で確信を持った目で、彼らを見ていたと思う。次の任務にもまた私が選ばれる。そういう確信があった。
しかしこの時ばかりは、そうはいかなかった。
クライアントには視察後、〈ヘリオスフィア〉から資料が送られる。そこには各エージェントの利用料金と任務の成功実績。そしてどのような任務が得意かなどが記されている。ちなみに書類のトップページは私が飾っていて、かなり値は張るが、実力はトップクラスだと記されている。クライアントの多くはそれを見て、私を選ぶ。しかし私が手一杯だと聞くと、特に急を要する任務なら、他のエージェントが選ばれる。そこまで急でなければ、順を待って私が担当することもある。
しかしこのケースは、今までのそれとはワケが違った。確かにクライアントは、私を選んだのだ。だが、同時に違う商品も候補にあげていた。
〈136〉と、そいつは言った。あるいは、久高志乃。
クライアントは、何故か私と彼女との間で、どちらを購入すべきか悩んでいたのだ。私は、クライアントが問答無用で私を選ぶと踏んでいたので、正直なところ、虚を突かれたような気分になった。
クライアントは、商品を選別する手段として、とてもユニークな方法を用意してきた。つまり、決闘だ。
私と〈136〉――久高志乃は、訓練場脇の演習場に呼び出された。ヘリオスフィアの中でも比較的小さい部屋だ。遺産とも呼ばれるそこは、苔むした酷い場所だった。小便のすえた臭いはするし、ネズミの死骸がそこかしこに転がっている。室内に入ると、鼻をつまみたくなった。
決闘の立会人はメスゴリラだった。私は五分前には演習場に着いていたが、〈136〉は遅れてやってきた。
「〈136〉、来い!」
メスゴリラが叫んだ。
「はあい」
気の抜けた声。〈136〉、久高志乃がやってくる。茶色いセミロングの髪を揺らしながら、彼女は、のらりくらりと室内へ。
私は、ひどく冷めた目で彼女を見ていた。もはや見下すような目つきだったと思う。
「〈452〉、いいな?」
メスゴリラが確認する。私は彼女に言われずとも、用意は整っていた。
どこの誰だか知らないが、私がこんな奴に負けるはずがない。なにせ、私は本物のスパイ。東堂ヒカルなのだから。
「試合開始!」
メスゴリラの野太い声が、演習場に響き渡った。