卵色の幸せ
はぁ、疲れた。
出てくる言葉はそればかりで、ボキャブラリーが貧困化しているのが良く分かる。
それと同時に、それくらい疲れていることも分かるだろう、分かってくれ。
重い足取りで家に辿り着けば、目の前の扉を見ながら、がさごそ、鞄を漁る。
某密林サイトで購入したお手頃価格のキーケースを取り出し、その中の一本を鍵穴に入れてガチャガチャ。
ただいまぁ、と中に声を掛けながら玄関に入れば、鼻をくすぐる甘い香り。
「お帰り。早かったな」
ひょっこり、こちらを顔を出したのは、同居中の彼氏で、黒いエプロンをしていた。
それ新しいの?と聞きながら鍵を閉めれば、そうそう、と頷く彼。
似合ってるの言葉に小さくはにかむから、胸がきゅうっ、と音を立てる。
表情筋が固いのかポーカーフェイスなのか、あまり表情の変化が見られない彼の笑顔は貴重。
未だに胸がきゅうっ、となる。
口元がにやけるのを押さえながら、靴を揃えて、何作ってたの?と問い掛けた。
何だと思う?え、分かんないよ、二人で顔を見合わせて笑いながら、どちらともなく指を絡める。
柔軟剤やら石鹸やらの匂いに混ざって、卵の甘い匂いがした。
お腹空いたなぁ、と自覚すれば、くぅ、と小さな音を立てて自己主張してくるお腹の虫。
止めてくれ、恥ずかしい。
誤魔化すように彼の手を強く握れば、握り返されて逃げ場がなくなる。
何故だ、何故未だに私は初々しいカップルみたいな反応をしているのだ。
疑問に思いながらもキッチンに足を踏み入れれば、ふわり、ぶわり、襲い掛かるその香り。
「プリンだ!」
勢い良く彼の方に顔を向ければ、珍しく破顔して、くつくつと笑っていた。
スゲェ顔、って、それ褒めてる?貶してる?
良く分からない彼の発言を聞き流しながらも、食べていいの?と視線を送る。
「着替えて手洗ってからな」
「秒で戻る!」
「いや、ちゃんと洗って来いよ」
彼の手を離して寝室に駆け込む私に対して、子供でも相手にしているような言葉を掛ける彼。
恋人というよりは親子に近い。
それでも心地良い関係は築けているはずだ。
走り出した私は寝室に滑り込み、着ていたスーツを脱ぎ捨てる。
ワイシャツやストッキングは洗濯カゴに入れに行くが、スーツはハンガーに引っ掛けておく。
そろそろクリーニングに出したいなぁ。
スーツを掛けた後は下着姿のままで、タンスを漁ってロングTシャツとショートパンツに着替える。
堅苦しい格好は疲れるので、家ではだらだらな格好でいようと心掛けているのだが、スウェットは苦手。
寝返りが打ちにくくて、流行っていた頃に買って、すぐに着なくなってしまった。
流行りに乗るのは駄目だねぇ、と一人ボヤきながらワイシャツやらを脱衣所の洗濯カゴに入れる。
今日は一回くらい回した方がいいかな、明日でもいいかな、なんて考えながらも、洗面所の蛇口を捻った。
ジョロジョロ流れる水に、一度だけ手を通す。
その後にポンプを押せば、直ぐにあわあわになっている泡が出てくるハンドソープを使う。
有名どころは使いやすくて助かる。
CMでも良くある、肌に優しい!とか子供でも使いやすい!みたいなハンドソープなので、品質としても使いやすさとしても二重丸だ。
後、固形石鹸は上手く泡立てられない、という結構子供くさい理由からこの手のものを愛用している。
わしわしと簡単に泡立ったそれで、指の間も爪の隙間も綺麗に洗っていく。
この泡立ちのいいものが、もこもこになるのが楽しくて、いつも手洗いは時間が掛かる。
手洗いうがいは、帰宅してからの基本動作で、昔からの習慣だったが、手洗いの時間は大人になるにつれて長くなった気がしなくもない。
こんなもんかな、ジャバジャバと泡を流して、タオルで手を拭いて駆け出す。
「ぷーりーんー!」私の叫び声に、彼の「近所迷惑だから」と言うお叱りが重なった。
でも楽しみにしてたから、プリン。
後、凄くお腹空いた。
くぅくぅ、とそこそこ控えめだったお腹の虫は、いつの間にやらぐぅぐぅ、ぐるる、となかなか強気な主張をかますようになっている。
ぷーりーんぷーりーん、言葉を覚えたての子供みたいに繰り返して、ソファーに沈み込む。
「はい、どーぞ」
目の前に差し出された銀色のスプーンとプリンの容器。
うわーうわー、馬鹿みたいに歓声を上げて受け取ってから、彼が私の横に腰を下ろすのを待つ。
「そういうとこはちゃんとしてるよな」苦笑気味で言った彼に、笑顔を浮かべる。
美味しいものは誰かと食べたいのだ。
お腹も心も満たされる素敵な条件だと私は思っていて、それを好きな人とクリア出来るのだから、この上ない幸せだろう。
にっこり笑った私を見て、腰を下ろした彼はエプロンを着けたまま、いただきます、と言った。
慌てて私も、いただきます、と続け、彼に頭を下げる。
二十代も後半に差し掛かった女が、そんなに可愛こぶっても仕方ない気もするが、ほぼ反射で動いているなら仕方ない。
それに彼のプリンは世界一だ。
この世の中に、手作りプリンをご馳走してくれる彼氏がどれくらいいるだろうか。
――補足までに言っておくが、私はプリンと言うよりも、彼の作ったプリンが好きなのである。
卵色のツヤツヤした表面に、銀色のスプーンを差し込めば、ぷるん、と揺れながらそこに乗っかるプリン様。
うわあぁぁ、涎が溢れて止まらない。
そのツヤツヤぷるぷるな卵色を、口の中に滑らせれば、口いっぱいに広がった甘い香り。
咀嚼なんて必要ないってくらいに、するんぷるん、と口の中を滑って胃へと流れていく。
程よい甘味でいくらでも食べられちゃうそれが、私は大好きで大好きでたまらない。
ゆっくりと口角を上げていく私を、横目で見ていた彼が、私の髪を掻き回す。
「本当美味そうに食うよな……」
「美味い甘い美味い」
「二対一で美味いの勝ちだけど、満足してくれたなら良かったよ」
目を細めて笑った彼は、自分のプリンへと意識を元してしまう。
美味いし甘いし幸せだ。
彼も甘いものが好きで、それが高じてのプリン作りだったりするのだが、料理は基本的に得意なのだ。
私の胃袋を完全に掴んでいる。
今日の疲れが全部体から溶けだしていく。
空っぽだった胃も、お腹の虫も、その魅惑の甘味のおかげで落ち着きを取り戻す。
口元を緩めてプリンを食べる彼を見ながら、お嫁に来てくれて嬉しい、と言えば、逆じゃね?と突っ込まれる。
しかも私達まだ同棲しかしてないしね。
「ところで今日のご飯はなぁに?」
「プリン食べてるのにそういうこと聞くんだな。……オムライスだけど」
「卵祭りか!!明日の朝ご飯には出汁巻き玉子で、お弁当には甘い砂糖のを希望します!!」
「ワガママだな!」
カラメルが下から溢れ出して、卵色と絡みながら、ほんの少しの苦味をくれる。
突っ込まれても気にせずに、ヘラヘラ笑いながら「幸せだなぁ」と言えば、またしても私の髪を掻き混ぜながら、同意してくれる彼。
うん、幸せだ。