【競演】灰雪の断章
ふわりと、小さな白い物が落下した。だがそれは地面に辿り着く前に、庭に佇む老いた男の肩先で溶け消える。
「寒いと思ったら、雪か」
男は冷えた手をこすり合わせ、眩しげに眼差しを天へと向ける。しかし薄い色の冬の空には雲一つなく、緩やかな日差しが降り注ぐいでいる。一度軽く首を傾げた男は、再び古本を麻紐で縛る作業に戻る。これらは全て物置から出してきた物だ。珍しくもない古い雑誌類や若い頃に好きだった文庫本や全集、または子供が小さい頃に与えた児童書や絵本。本棚にあり、読まれていた当時にはそれぞれ何らかの思い出もあった。だが、今となっては読み返すことすらない古びた紙束でしかない。
「そろそろ少し休んで、お茶にしましょうよ」
男の妻が縁側から庭に声を掛けた。
「ああ。すぐに行くよ」
先の白い物が本当に雪ならば、これから天候が変わるかも知れない。男は束ねた本を縁側の片隅にドサリと置く。休日には町内で廃品回収が行われる。どうせ捨ててしまうだけの物なら、再利用に回す方が幾分かは地球のためだろう……と、男はそんな風に思う。
「雪が落ちてきたよ」
縁側座り、お茶盆を持ってきた妻に向けて言う。
「あら。でも空は晴れているわ。あなたの気のせいじゃない? 」
柔らかな笑顔を男に向けた妻は、急須から湯呑みへと熱い茶を注いだ。白い湯気が立ち上がる。一口すすると、冷えた体に幾分か生気が戻るような気がした。
「いや、確かに雪だった」
「風花かしら。でも今はまだ降っていないし、心配ないわよ」
縁側に正座した妻は、いつもと変わらない様子だ。
「これから降るかも知れないぞ。倉庫の掃除を早めに終わらせよう」
「あなたがそう思うなら、そうしましょう。私も手伝うわ」
空いた湯呑みを茶盆に戻し男は立ち上がる。夫婦は連れ立って倉庫へ向かった。
庭の奥にある倉庫には、以前から放置された物が多数貯まっていた。男は最近それが気になっていた。しかしどうにも体調が優れず、とうとう今日まで手をつけられなかったのだ。古本の他にも片付けたい物は多数ある。どれも埃だらけで使えない物ばかり。ケースの中の壊れたロボット、化粧の剥げたセルロイド人形、片腕になったソフトビニールの怪獣、祖父母や親類の遺品、誰の物かも不明なアルバム。ここにある理由も判然としない品も混在する。
「何でもしまい込む癖は直さなきゃな」
男が苦笑すると、妻は小鳥のように首を傾けた。
「人間なんてそんな物よ。不要な物も気づかない間に貯めこんでしまう。勿論それを嫌って、まめに整理する人もいるけれど。でも全部を捨てられる人なんて滅多にいない」
「そんな物かな? 」
男は埃まみれの自転車を戸口から押し出しながら言う。
「ええ。でも、いつかは整理しなきゃね。倉庫や押入れの容量には限りがあるし、いつまでも置いたままにも出来ないし」
妻の声を聞きながら、男はこの自転車が誰の物だったのかと、ぼんやり考えていた。タイヤから空気は抜け、サドルやハンドルは赤錆びている。大人が乗るためではなく、幼い"誰か"のために買ったはずの小さなサイズである。
「これは、誰の自転車かな? 」
どうにも気になった男は、妻に尋ねてみる。彼女はしばらく自転車を見つめて、その問に答えた。
「あなたの自転車よ。小さい頃に気に入って毎日乗っていたじゃない」
「そうか。親父が買ってきたのかな? 」
「小学校の入学祝いに親戚の人に貰ったのよ。田舎に畑を持っていた人にね」
妻はすらすらと答える。
「そうか、よく覚えてないなぁ。でもおまえがそう言うなら、そうなんだろうね」
最近どうも記憶が途切れがちだ。歳を取った証拠かも知れない。妻は昔と変わらず、物事をよく覚えている。自分が忘れている記憶も代わりにストックするように、きちんと覚えている。身近にいる幼馴染というものは、こんな風に記憶を共有するものなのか、と彼は漠然と思う。
妻が小さな自転車を押して、庭の隅へと移動させる。使い物にならない自転車は男の思考から消え、次の片付け物へと手が動き出した。
品々の行く末の大半が決まった頃。薄暗い倉庫から戸口へ向き直ると、ちらりちらりと細かな白い物が落下するのが見えた。
「ああ、やっぱり降ってきたか」
男が呟く。
「予想より早いですね」
妻はふうっと一つ息をついた。
「そうだな。でも、もう片付けは終わりだ」
確かに二人の目の前には、空っぽの倉庫が残っているだけだ。
庭に戻って上空を見ると、一面の細かい雪がくるくると風に舞い踊っていた。
「こうして降ってくる雪を見上げていると、昔を思い出すよなぁ」
その言葉に答えず、妻は夫の隣に立ち同じように空を見る。
「いつだっけなぁ。小さい頃におまえと二人で雪の中で迷子になっただろう? 」
その言葉に、妻は夫の顔へと目線を向けた。
「どこでだったか、いつ頃か。細かいことは忘れたけれど、隣でおまえが笑っていたから心細くなかった。それだけはよく覚えている」
男もまた妻の顔へと目を向ける。
そうだ、彼女はいつもこうして側にいてくれた。隣で静かに笑っていた。
次から次へと落ちてくる雪が地面を覆い始める。住み慣れた家も、小さな庭も、先程まで古い過去を封じ込めていた倉庫も、全て白い腕が包むように。
「一つだけ、間違えているわ」
妻は口元に寂しげな笑みを浮かべ、そっと目を伏せた。
「あの時あなたは田舎にあるスキー場でご両親とはぐれて、雪の中で迷子になっていたのよ。そして、私があなたを見つけたの」
「ああ、そうだったか。おまえは俺を迎えに来てくれたんだ」
「ええ。でも私はあなたを連れて行くことは出来なかった。だからあなたの側にいることにしたのよ」
そうだ。泣いていた彼に「ずっと一緒にいてあげる」と言ったのだ。誰も知らない、二人だけの秘密の約束だった。
妻の声はまるで子守唄のように心地良く、男はうっとりと彼女の言葉をただ聞いていた。白い手が伸びて、夫の体をそっと抱き締めた。
「あなたと一緒にいられて、私は幸せだったわ」
「俺もだよ。おまえがいてくれて本当に良かった」
冷たいはずの雪が暖かく二人を包み込む。
男は漸く思い出した。初めて彼女に出会った時も、こうして雪の中で抱き締められたのだ、と。周囲は何も見えない、雪しかない真っ白な空間で。
あの時から「二人」になったのだ。まだ小さく幼かった側に現れた美しい女性。彼女は当時から変わらず、今も美しい。自分よりもずっと若いままで。
何故、今までそれを不思議だとは思わなかったのだろうか。いや、恐らく心のどこかで彼女が何者なのか、気付いていた。それでも……。
「有難う。愛しているよ」
男の唇が静かにそう告げた。妻は黙って彼を抱きしめたまま何度も頷いた。泣き笑いのような彼女の表情を見つめる男は至福感を噛み締めていた。視界の端に無限に広がりゆく、白い世界を感じながら。
天高く、一筋の煙が立ち昇る。
「小雪さん」
老いた男の死出の旅を見送る人々。そこから離れた場所に立つ女性に、壮年の僧侶が声をかけた。
「お久しぶりですね、寿海さん。この度は大変お世話になりました」
黒い着物姿の小雪は、寿海に向き直り頭を下げた。
「いやいや、あなたのご夫君の家は代々うちの檀家でしたからなぁ。しかしご病気だとは噂に聴いておりましたが、随分と急なことだったようで」
「ええ。でも最期の数日は意識不明でしたから、覚悟を決める時間はありました。恐らく彼も……旅立ちの準備はちゃんと出来たはず」
小雪はやや目を伏せて微笑む。そして、もう一度深く頭を下げるとゆっくりと背を向けた。
「悲しいものじゃな」
長い付き合いの同胞を見送りながら息を長く吐き出す寿海の目の前を、小さな雪の粒が横切る。
寿海や小雪のような「人ならざる者」は、人間の想いを糧としてこの世に存在している。「雪女が人間の妻になる」という伝説が人の世に伝わる限り、小雪は出会った相手に恋をし、妻となる性を繰り返すのだろうか。
たとえ人と同じ時を重ねて生きてゆくことは、永久に叶わないのだとしても。
寂々たる曇天より雪は音もなく舞い落ちる。さながら哀しき雪精の涙の如く。一つ二つと数を増やしながらも、次の季節を迎えんとする地面の上で儚く溶けて消えゆく。
やがて冬は最後の雪と共に静かに幕を閉じるのだろう。久遠の時を生きる「人ならざる者」たちの想いを、その深淵に沈めたままに。
(了)
お読み頂きまして有難うございました。