「臭いものにフタ」
江戸時代の悪しき慣習として、現代に伝わるコトワザであります。
臭いものにはフタをしろ、と。
フタをしないと臭くて仕方がないんじゃ、と。
臭くて仕方ない、近所迷惑も良いところだわ。そうよ、市役所に訴えてやれば……と、
まぁ、これは違うにしても、
ともかく、あまり汚いモノに関わりたくないのが人間であって、フタをしてでも断固拒否! という姿勢がよく表れています。
あるいは、この姿勢こそが「悪」とみなされる由縁であって、
臭いものにフタをすると、科学の発展した現代に、メタンガスというものはよく知られたところで、
フタの下にて「臭いもの」はじゃんじゃん腐敗し、かかるガスが充満、いつかは破裂を来たすのである。
大体、押さえた勢い、強くなってしまうのは何についても言えたことで、フタが木製ならばまだしものところ、
鋼鉄製の、強盗か何かから守るんかい、くらい強力なフタを当ててしまえば爆発の威力も凄まじくなってしまうのであり、
これが糞尿であれば、如何ほどばかり悲惨たるか、想像するだけで笑え……じゃなくって、想像するだけで恐怖の一言。
何せ、科学と同様にして、ジャーナリズムも発展していますし、翌日には大見出しで「ウ○コ大爆発」の記事が載るに違いなく。
下ネタに走るなど「芸」という長く険しい道においてサイテー極まりないけれど、例を示すならば、某精肉会社の偽装事件がそうであったのは言うまでもないし、
政治家と裏金の問題も、全てここに帰結しているでしょう。
誰も、まさか、「食べようと」するものを疑うのならまだしも、
一度これが、「食べてしまった」ものを疑うなんて、中々出来たことではないのです。
そういう弱さ、「まぁ、大丈夫だろう」という楽観的観測(meatに対するhope)が、
かの社長を傲慢にさせたのは言うまでもありません。
フタをする、とは、考えないようにする、ということであるけれど、その実、それこそが相手方(ウ○コ)の思う壺なのです。
だって、フタをしてしまっては、こちらから向こうの様子なんて、全く分からない。
いえ、分からないどころではなくて、むしろ、静か過ぎるとさえ思ってしまうでしょう。
フタはそもそも、臭いものを隠しているが故にフタであるのに、これは本当に、忘れるに容易い理屈です。
マンホールを道路の一部のように認識してしまいがちだが、とんでもない、道路の一部のようでいて、結構な深さの穴ぼこなのである。
落ちては生半可な怪我では済まないのだが、それも、マンホールがあんまり頑丈だから、すっかり忘れてしまう。
まさか、マンホールが壊れることなんてないんだし、落っこちて怪我をすることなんて考える必要も無いだろう、と。
そうやって思ってしまえば、いくら意識してみたってフタはフタ、それ以上の何ものでもありません。
マンホールは「怪我をしないためのフタ」ではなく、道路の一部となり、
「臭いものを覆うためのフタ」は、何か変なニオイのする板となり、
(これは、国内のニュースではないけれど)「頑丈で茶色い紙の箱」に至っては、何の変哲も無い肉まんとなるのです。
さて、少し話を戻すと、一方で相手方は「考える必要も無いだろう」と、こちらが考えてしまうことについては重々承知なんですね。
好き勝手に悪さを働くのです。
果ては、図に乗りすぎた勢いで大爆発、こちらも、やり場の無い怒りに襲われる。
どうして、「やり場の無い」怒りなのでしょう?
それは、単純なことです。
こちらの勘違いで、「静か過ぎる」と思っていたものが裏切られたのが一つ、
そもそも、その「静か過ぎる」という認識自体が、どうにも俺たちの落ち度だったんじゃねぇの? というのが二つ、
ってか、最初っからフタなんてするんじゃねぇよ、誰だよ、フタなんてしやがったの! というのが三つ、
しかし、よくよく考えてみたら、そもそもフタをしたのはどうにも自分らしく、
ここは大っぴらに怒ってしまうと、自分自身、危ういんじゃね? というのが四つ、という具合です。
よって、怒るにも怒れない。
政治家の不祥事なんかに同情的になってしまう方というのが、街頭インタビューに登場しないクセ、割と多いような心持ちだが、
どうしてそのようになってしまうのかと言えば、以上の経路でもって、自らの落ち度を認めてしまう優しさにあるだろうと思われます。
しかし、それではいけません。
はい、何かの決り文句のようでありますが、それでもゴホ、いけない、と言い切って見せましょう。
まず第一、フタは、すれば良いと思うのです。
取っ払って良いものではないのです。
「何でやねん。フタなんていらへんわ」
なるほど、確かに、「悪しき習慣」とは、先に書いたことでした。
しかしね、それがどうして「悪」なのか、と言えば、
結局のところ、どうしてフタをしたのか忘れちまう部分、
そこにこそ、悪が悪たる由縁が潜んでいるのではないでしょうか。
大体、「無礼講だ!」と、上司に言われたからと言って、
調子に乗って、彼のはげ頭をパツパツ叩き、「なぁにが、部長だ! この、タコが!!」
アハハハァと笑った日にゃ、青筋立てて怒鳴られるのに相場が決まっているのです。
建前を、そのまま鵜呑みにしようとする傾向が、日本人にはあるらしい。
そしてまた、その、鵜呑みこそ、美徳のように思われている。
しかしまた、難しい話をしてみると、自我というのは二重化されていて、
「彼のことを信じてるの!」という主観があるかと思えば、
一方にして、
「私は、彼の実際を知っているが、それでも、建前を信じてやろう。ヘッ、なんて美しいのかしら、私」
という客観も存在するのである。
だから、言葉と言うもの、易々と信じてはいけませんよ。
「臭いものにフタ」
なるほど、臭いものを隠す、ということ。
しかし、ともかく、何故隠すのかを、知っている。
この前提がないことには、即ち悪となりましょうし、
また、礼儀も何もあったものではなくなってしまうのです。
ニュースが若干古いこと、お詫び申し上げますm(_ _)m